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総年表


天文4年 1535年 -月-日
亮信が生まれる。
出典:-

天文4年 1535年 -月-日
野呂正景が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第1153「野呂正景」の項にみえる没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第1153「野呂正景」の項

- -年 -月-日
村上吉継が生まれる。
出典:-

天文4年 1535年 1月7日
鶴岡八幡宮に濱鳥居を建てるべく本願 安養院の僧が快元のもとを訪れる。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1535年 1月20日
従五位下・兵部権少輔となる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文4年 1535年 2月9日
道円が本願の集めた奉加銭50貫文と金覆輪の太刀1腰を鶴岡八幡宮の社僧・快元のもとに持参する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1535年 2月12日
山科言継般舟三昧院に、この日より籠居する
出典:『言継卿記』同年月日条

天文4年 1535年 2月19日
般舟三昧院にて経供養が行われる。導師は毘沙門堂忠承。
出典:『後奈良院宸記』同年月日条

天文4年 1535年 3月6日
権中納言となる。
出典:『系図纂要』「柳原」

天文4年 1535年 3月-日
毛利元就熊谷信直天野隆重、阿曽沼広秀、山田重任、飯田義武、香川光景・元忠兄弟、遠藤、山県が高野山城(備後国)を攻める。毛利家家臣の福原上総介、桂元澄、桂上総守、児玉就忠、児玉就方、志道広良、井上、粟屋、赤川、渡辺が城攻めに参加する。
出典:『陰徳太平記』巻9「備後国高野山降参付桂元澄弓精之事」

天文4年 1535年 3月21日
右少弁となる。
出典:『公卿補任』天文14年

天文4年 1534年 3月23日
北条氏康が、父・氏綱の咳気平癒祈願として、鶴岡八幡宮西檀所にて愛染王護摩を修す。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1535年 7月23日
島津義弘が薩摩国阿多郡伊作城にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」の項

天文4年 1534年 7月27日
北条氏綱が玉縄城(相模国)に帰城する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 7月28日
北条氏綱鶴岡八幡宮に参詣する。氏綱が社内を巡見。27日に造営用の材木が到着しており、氏綱は喜ぶ。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1535年 8月11日
土佐光茂の所領である丹波国多紀郡大芋社領について波多野秀忠の押領停止を命じる室町幕府奉行人奉書が発給される。
出典:天文4年8月11日付室町幕府奉行人連署奉書(『土佐文書 乾』『室町幕府文書集成 奉行人奉書篇 下』3313・3314・3315号)

天文4年 1534年 8月16日
北条氏綱が甲斐国に向けて出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 8月22日
山中(甲斐国)にて北条氏綱と小山田信有・勝沼信友が戦い、氏綱が勝利する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 8月24日
上杉朝興が川越(武蔵国)より出陣したとの報を受けた北条氏綱小田原城(相模国)に帰城する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1535年 8月28日
太政大臣となる。
出典:『系図纂要』「三条」

天文4年 1535年 9月20日
尾張国春日井郡児玉にて丹羽長秀が生まれる。
出典:-

天文4年 1535年 9月28日
細川晴元建仁寺(山城国)に入る。
出典:『祇園執行日記』同年月日条

天文4年 1534年 9月-日
上杉朝興が相模国に侵攻し、大磯、平塚、一宮、小和田、賀崎、鵜沼を放火する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 10月3日
相模国に侵攻していた上杉朝興が川越(武蔵国)に撤退する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 10月13日
北条氏綱が上総国、下総国、伊豆国、相模国、武蔵国より動員した兵をもって上杉朝興の川越城(武蔵国)を攻める。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 10月21日
北条氏康鶴岡八幡宮に神馬を奉納する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1535年 10月26日
右大弁となる。
出典:『系図纂要』「広橋」

天文4年 1535年 11月8日
勾当内侍が後奈良天皇の代参として鞍馬寺に参詣する。
出典:『後奈良天皇宸記』同年月日条

天文4年 1535年 11月24日
伊勢貞忠が死去する。
出典:-

天文4年 1535年 12月4日
准三后宣下を受ける。
出典:『系図纂要』「近衛」

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