寺 院 史

鞍馬寺(山城国) くらまでら
本 尊尊天
創 建宝亀1年 770年[伝]
開 基鑑貞[伝]
山 号-
宗 派天台宗
別 称-
関連宗教施設-
現 所 在 地〒601-1111
京都府京都市左京区鞍馬本町1074

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旧 所 在 地-
史 料 地 名-
イ メ ー ジ-
参 考 文 献鞍馬寺に関する参考文献
関 連 デ ー タ-
リ ン ク鞍馬寺の関連文化財
鞍馬寺(山城国) 年表
長禄2年 1458年 2月13日 
巳刻(9-11時)、鞍馬寺別当坊より出火し堂舎16宇、塔婆が炎上する。
出典:『師郷記』同年月日条

寛正5年 1464年 4月5日 
鞍馬寺の勧進聖 善盛が糺河原で勧進猿楽を興行する。
出典:『島津家文書』3巻-1187号

応仁1年 1467年 11月7日 
鞍馬寺の勧進聖が経覚に奉加を募る。
出典:『経覚私要鈔』同年月日条

文明11年 1479年 4月28日 
三条西実隆の夫人が鞍馬寺に参詣する。
出典:『実隆公記』同年月日条

文明11年 1479年 4月28日 
三条西実隆が、鞍馬寺勝善房の修造費用として播磨国太田荘の年貢のうち500疋(5貫文)を、鞍馬寺蔵泉房の修造費用として備前国通生の年貢のうち300疋(3貫文)を10ヶ年寄付することを約す。
出典:『実隆公記』同年月日条

文明13年 1481年 3月28日 
鞍馬寺造営供養会が行われる。導師は定法寺僧正で曼荼羅供を修す。足利義政が聴聞のため参詣する。1458年2月13日の焼失以後、勧進によって造立する。
出典:『長興宿禰記』同年月日条

文明16年 1484年 12月18日 
鞍馬寺勝善房(坊主)が死去する。
出典:『実隆公記』同年同月27日条

文明18年 1486年 12月24日 
鞍馬寺勝善房が巻数・炭を三条西実隆に贈る。
出典:『実隆公記』同年月日条

長享3年 1489年 6月6日 
三条西実隆が鞍馬寺に参詣する。堂内に入り念誦する。蔵泉房・勝善房・月性房を訪れ、それぞれ樽代を遣わす。
出典:『実隆公記』同年月日条

延徳3年 1491年 1月5日 
鞍馬寺勧進聖が毘沙門像・扇1本を尋尊に贈る。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

永正8年 1511年 1月23日 
鞍馬寺勝善房が三条西実隆のもとを訪れる。実隆は勝善房を酒でもてなし、また月性房に扇を贈る。
出典:『実隆公記』同年月日条

大永5年 1525年 4月13日 
鞍馬寺勧進聖 真海に上人号を賜ったことについて、真海の上人号勅許を推挙した細川高国が禁裏へ盆・香合を進上する。
出典:『実隆公記』同年月日条

大永7年 1527年 1月12日 
鞍馬寺山科言継の代理として山科家の雑色が参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

大永7年 1527年 1月16日 
鞍馬寺戒光坊が山科言綱のもとを訪れ、巻数牛玉・毘沙門像(印刷)・炭1袋を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

大永7年 1527年 4月14日 
鞍馬寺山科言継の妻が参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

享禄2年 1529年 3月6日 
鞍馬寺に山科言綱夫妻が参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文2年 1533年 1月19日 
鞍馬寺戒光坊が山科言継のもとを訪れ炭1俵、巻数を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文4年 1535年 11月8日 
勾当内侍が後奈良天皇の代参として鞍馬寺に参詣する。
出典:『後奈良天皇宸記』同年月日条

天文8年 1539年 9月20日 
蜷川親俊が鞍馬寺に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 6月20日 
鞍馬寺にて竹切会が行われる。蜷川親俊、上池院が見物に訪れる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文23年 1554年 2月19日 
鞍馬寺にて万灯会が行われ貴賤が群集する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文23年 1554年 3月7日 
鞍馬寺戒光坊が桜の枝を持参し山科言継のもとを訪れる。鞍馬寺の桜が満開であるので、言継に参詣を勧める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 3月14日 
慶寿院の望により足利義輝鞍馬寺に参詣する。
出典:『晴右記』『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 閏5月9日 
鞍馬寺戒光坊が山科言継のもとを訪れる。6月3日より三千燈勧進を行うことをうけ、言継は33燈分の奉加10疋(100文)を遣わす。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月17日 
鞍馬寺を目指す興福寺の多聞院英俊が三十三間堂に参詣し千手観応を見物する。
英俊は「四条ノ長刀杵ノ町五郎太郎」の所に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月19日 
興福寺の多聞院英俊が鞍馬寺に参詣する。その後、英俊は比叡山に上る。横川に赴く。西方院にて茶を飲む。大講堂の釈迦如来、普賢堂に赴き、普賢堂では最澄、慈恵の影像を拝す。その後、根本中堂に訪れるも本尊は拝すことができず。なお、延暦寺は「堂モ坊舎ヲ一円ハテキレタル躰」だったという。また僧衆は「大旨坂本ニ下テ乱行不法無限」というありあさまで、それは「修学懈怠」のためえだるという。また、英俊は日吉社を参詣する。「社壇ノ結構」は目を驚かすものであったが、参詣者は稀で、社人・社僧も見当たらないありさまであったという。
ついで、英俊は坂本(近江国)を訪れる。坂本は「家々数多繁昌」に見えたという。小唐崎の「イセ屋」に英俊は宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 3月17日 
長橋局が鞍馬寺に参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正8年 1580年 6月1日 
青蓮院尊朝が青蓮院領の鞍馬寺別当職を織田信長より安堵される。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正10年 1582年 1月18日 
鞍馬寺戒光坊が山科言経のもとを訪れ、牛玉札・巻数・山椒の皮・炭を贈る。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正20年 1592年 7月14日 
豊臣秀吉の母・なか(大政所)重病のため、清水寺愛宕山鞍馬寺、石清水八幡宮、北野社、伊勢内宮、伊勢下宮、多賀社春日社、稲荷社、住吉社、祇園社、下鴨神社、上賀茂神社、金剛峯寺に平癒祈祷を命じるとともに、回復した際には奉加として1000貫を寄附することを伝える。
出典:天正20年7月14日付豊臣秀次朱印状(和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』2008年10月)

慶長9年 1604年 閏8月19日 
舟橋秀賢鞍馬寺に参詣する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長17年 1612年 -月-日 
豊臣秀頼による鞍馬寺(山城国)の修復がなる。
出典:『当代記』慶長13年10月3日条

慶長18年 1613年 6月-日 
鞍馬寺(山城国)の本尊・毘沙門天の開帳が始まる。
出典:『当代記』同年10月3日条

慶長18年 1613年 10月3日 
鞍馬寺(山城国)の本尊・毘沙門天の開帳が終わる。
出典:『当代記』同年月日条

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