正慶2年 1333年 閏2月23日 |
後醍醐天皇が国分寺を脱出し富士名義綱の旅宿に移る。 |
出典:『桜雲記』巻之上 |
正慶2年 1333年 閏2月24日 |
後醍醐天皇が配流地の隠岐国を脱出し、伯耆国稲津浦に移る。 |
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上 |
正慶2年 1333年 閏2月25日 |
後醍醐天皇が野波浦に移る。 |
出典:『桜雲記』巻之上 |
正慶2年 1333年 閏2月26日 |
後醍醐天皇が片見(伯耆国)に移る。後醍醐天皇に供奉していた成田が名和長高の館に赴き、長高に後醍醐天皇に味方するようつたえる詔勅を渡す。長高は詔勅に応じ、後醍醐天皇を船上山まで警固し、船上山にて挙兵する。 |
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上 |
正慶2年 1333年 閏2月26日 |
名和長高が長年と改名する。 |
出典:『桜雲記』巻之上 |
正慶2年 1333年 3月3日 |
名和長年が伯耆守となる。 |
出典:『桜雲記』巻之上 |
正慶2年 1333年 3月12日 |
赤松則村が鳥羽・竹田(山城国)より六波羅探題に攻め入る。 |
出典:『梅松論』 |
正慶2年 1333年 3月13日 |
左近衛中将・蔵人頭となる。 |
出典:『桜雲記』巻之上 |
正慶2年 1333年 3月13日 |
菊池武時が鎮西探題を襲撃し、戦死する。 |
出典:- |
正慶2年 1333年 4月27日 |
足利高氏が船上山(伯耆国)で挙兵した後醍醐天皇を討つため京都を発つ。篠村(丹波国)に陣を張る。これより幕府を裏切り後醍醐天皇方となる。 |
出典:『梅松論』、『関城書裏書』 |
正慶2年 1333年 4月27日 |
足利高氏が篠村(丹波国)にて幕府方から後醍醐天皇方に寝返る。 |
出典:『梅松論』、『関城書裏書』 |
正慶2年 1333年 4月27日 |
船上山(伯耆国)で挙兵した後醍醐天皇を討つため北条高家が京都を発つ。久我畷(河内国)にて千草忠顕・結城親光・赤松則村と戦い、戦中、佐用範家に眉間を射られ戦死する。 |
出典:『太平記』、『梅松論』、『関城書裏書』 |
正慶2年 1333年 5月7日 |
護良親王、千草忠顕、赤松円心、良忠が六波羅探題館を攻める。北条仲時・北条時益は関東に逃れるべく光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇とともに京都を脱す。 |
出典:『桜雲記』巻之上 |
正慶2年 1333年 5月22日 |
新田義貞が幕府の拠点である鎌倉(相模国)を制圧する。北条高時、北条基時が自害する。 |
出典:『関城書裏書』 |
正慶2年 1333年 5月-日 |
護良親王が征夷大将軍となる。 |
出典:『桜雲記』巻之上 |
元弘3年 1333年 6月7日 |
後醍醐天皇が大内裏に還幸する。元号を正慶から元弘に戻す。 |
出典:『関城書裏書』 |
元弘3年 1333年 7月-日 |
千早城(河内国)を攻めていた幕府軍が降伏する。 |
出典:『桜雲記』巻之上 |
元弘3年 1333年 8月-日 |
後醍醐天皇が足利高氏に「尊」の諱を賜う。高氏は尊氏と改名する。 |
出典:『桜雲記』巻之上 |
元弘3年 1333年 10月-日 |
陸奥国司に任じられた北畠顕家が、義良親王とともに陸奥国に下向する。 |
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上 |
元弘3年 1333年 10月-日 |
義良親王、北畠顕家の輔佐として両者とともに陸奥国に下向する。 |
出典:『関城書裏書』 |
元弘3年 1333年 12月-日 |
鎌倉府将軍に任じられた成良親王がその補佐となった足利直義とともに鎌倉(相模国)に下向する。 |
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上 |
元弘3年 1333年 12月-日 |
弟・直義が鎌倉府将軍に任じられた恒良親王の補佐として鎌倉(相模国)に下向する。 |
出典:『関城書裏書』 |
元弘4年 1334年 1月23日 |
皇太子となる。 |
出典:『関城書裏書』 |
元弘4年 1334年 1月23日 |
恒良親王を皇太子とする。 |
出典:『関城書裏書』 |
建武1年 1334年 1月29日 |
「元弘」より「建武」に年号が改まる。 |
出典:『関城書裏書』 |
建武1年 1334年 3月11日 |
後醍醐天皇が石清水八幡宮に参詣する。 |
出典:『桜雲記』巻之上 |
建武1年 1334年 3月17日 |
2年間、諸国諸荘園での検注停止を五畿七道に命じる。 |
出典:『建武記』 |
建武1年 1334年 3月-日 |
北条氏の残党が鎌倉(相模国)を襲うが撃退する。 |
出典:『関城書裏書』 |
建武1年 1334年 10月-日 |
北条氏一族が飯盛山(紀伊国)に城を構え蜂起するが、楠木正成が鎮圧する。 |
出典:『関城書裏書』 |
建武1年 1334年 11月5日 |
後醍醐天皇が護良親王を謀叛の罪で捕え鎌倉(相模国)に配流する。 |
出典:『関城書裏書』 |