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事項 :   
出典 :   


慶長7年 1602年 11月-日
金沢城(加賀国)で火災が起こる。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 12月4日
辰刻(7-9時)、方廣寺(山城国)の大仏殿内にて本尊の鋳造が行われるが、鋳造中の本尊より出火し、後光に引火して、大仏殿堂内にも火が回り、午刻(11-13時)、大仏殿が灰燼に帰す。この火災で照高院、鳥辺野の芝が焼ける。妙法院(山城国)、豊国神社(山城国)は災を免れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 12月8日
勧修寺晴豊が死去する。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

慶長7年 1602年 12月21日
徳川家康が熱田(尾張国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 12月25日
島津忠恒が上洛する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」・「島津家久(忠恒)」の項

慶長7年 1602年 12月28日
島津忠恒伏見城(山城国)に赴き、徳川家康に礼をする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」・「島津家久(忠恒)」の項

慶長7年 1602年 -月-日
保科正貞が徳川秀忠に出仕する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正貞」の項

慶長7年 1602年 -月-日
山中元定が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第583「山中元定」の項

慶長7年 1602年 -月-日
父・元定が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第583「山中元定」の項

慶長7年 1602年 冬月-日
松平康元が母・於大の方の死去につき関宿(下総国)に建立した弘経寺を、徳川家康が光岳寺と寺号を改める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項

慶長8年 1603年 -月-日
木下利当が生まれる。
出典:-

慶長8年 1603年 1月5日
教如が大坂に下向する。
出典:『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長8年 1603年 1月10日
伏見城(山城国)の徳川家康邸に舟橋秀賢が年始の礼に訪れ対面する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 1月13日
茶所を破却する。
出典:『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長8年 1603年 1月16日
伏見城(山城国)の徳川家康邸に多くの人が礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 1月17日
伏見城(山城国)の徳川家康邸に諸門跡、諸寺院が礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 1月21日
伏見城(山城国)の徳川家康邸に勅使として広橋兼勝が訪れる。兼勝が内々に家康に征夷大将軍への就任を打診する。家康は了承する。兼勝に小袖1重、黄金3枚を贈る。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 1月22日
板倉勝重加藤正次教如のもとを訪れる。
出典:『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長8年 1603年 1月23日
伏見城(山城国)の徳川家康邸に舟橋秀賢が訪れ、申刻(15-17時)に対面し、碁を打つ。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 1月23日
舟橋秀賢が訪れるも、忠興は外出しており会えず。牧左馬允に忠興へ訪問をことを伝えるよう願う。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 1月24日
舟橋秀賢家中の男女が愛宕山に参詣する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 1月25日
舟橋秀賢北野社に参詣する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 1月26日
池田輝政兄弟が教如のもとを訪れる。
出典:『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長8年 1603年 1月-日
池田忠継が備前国を給付されるが、幼少のため、兄・利隆が国政を司る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田利隆」の項

慶長8年 1603年 2月1日
教如が伏見に向かう。
出典:『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長8年 1603年 2月1日
伏見城(山城国)の徳川家康邸に舟橋秀賢が訪れ、未刻(13-15時)に対面する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 2月5日
妻が死去する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 2月6日
徳川家康が、森忠政に美作国一国186500石余を給付し、津山城(美作国)城主として、子・松平忠輝に川中島(信濃国)を給付し、松代城(信濃国)城主とする。
出典:『海津城主次第』、『寛政重修諸家譜』巻第126「森忠政」の項、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

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