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神 社 史
豊国神社(山城国)
とよくにじんじゃ
祭 神
豊国大明神
創 建
-
別 称
-
関連宗教施設
-
現 所 在 地
〒605-0931
京都府京都市東山区茶屋町530
旧 所 在 地
-
史 料 地 名
-
イ メ ー ジ
-
参 考 文 献
-
リ ン ク
○
豊国神社の関連文化財
豊国神社(山城国) 年表
慶長3年 1598年 12月18日
徳川家康
が
前田玄以
・
増田長盛
を連れ
新八幡(豊国神社)
を訪れる。
出典:『北野社家日記』同年月日条
慶長3年 1598年 12月19日
前田玄以
が「大仏之地」の「社」のことについて吉田兼見と相談する。
出典:『舜旧記』同年月日条
慶長3年 1598年 12月24日
徳川家康
が「大仏之社」のことについて梵舜に尋ねる。
出典:『舜旧記』同年月日条
慶長3年 1598年 12月24日
東山新八幡神社
神職を望む多忠季が
山科言経
に口添えを依頼する。言経は忠季のことを吉田兼見・梵舜に告げる。
出典:『言経卿記』同年月25日条
慶長3年 1598年 12月25日
東山新八幡神社
神職を望む多忠季に
山科言経
が吉田兼見・梵舜宛の紹介状を渡す。
出典:『言経卿記』同年月日条
慶長3年 1598年 12月26日
東山新八幡神社
社僧のことについて
山科言経
が
東寺
の少納言と談合する。
出典:『言経卿記』同年月日条
慶長4年 1599年 2月17日
山科言経
室・阿茶丸・御伊茶・茶々が
清水寺
と
東山新八幡神社
に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条
慶長4年 1599年 4月13日
豊臣秀吉
の遺体が秘かに東山の阿弥陀ヶ峰に葬られる。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長4年 1599年 4月19日
豊臣秀吉
が禁裏より豊国大明神正一位を賜う。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長5年 1600年 7月23日
宇喜多秀家
が
豊国社
に参詣する。金子1枚を奉納する。
出典:『梵舜日記』同年月日条
慶長5年 1600年 8月19日
石田三成
が
豊国神社
にて神事能を執り行う。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条
慶長7年 1602年 3月18日
豊国明神法楽が行われる。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長7年 1602年 3月19日
豊国神社にて猿楽が行われる。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長7年 1602年 6月18日
豊国明神法楽が行われる。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長7年 1602年 12月4日
辰刻(7-9時)、
方廣寺
(山城国)の大仏殿内にて本尊の鋳造が行われるが、鋳造中の本尊より出火し、後光に引火して、大仏殿堂内にも火が回り、午刻(11-13時)、大仏殿が灰燼に帰す。この火災で照高院、鳥辺野の芝が焼ける。妙法院(山城国)、
豊国神社
(山城国)は災を免れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条
慶長9年 1604年 8月15日
豊国神社の祭礼が行われ、
上京
・
下京
の地下人が風流踊を催す。上京よりは300名、下京よりは200人が参加する。
出典:『慶長日件録』同年月日条
慶長9年 1604年 8月16日
夜、豊国神社で神楽がある。
出典:『慶長日件録』同年月日条
慶長9年 1604年 8月21日
豊国神社で伶人舞楽が行われる。
出典:『慶長日件録』同年月日条
慶長15年 1610年 6月16日
方廣寺
(山城国)の大仏殿造営のため90本ずつ三重に、計180本の柱立てが行われる。柱1本につき銀16貫目、仏前は8間と間が広いため巨木を用いる必要から1本で銀100貫目する木材が使われる。これにより
豊臣秀吉
が蓄えた金銀が「払底」したとされる。
出典:『当代記』同年月日条
慶長16年 1611年 3月28日
二条城(山城国)にて
徳川家康
と
豊臣秀頼
が会見する。
会見後、秀頼は、未上刻(13時)、
豊国神社
に参詣する。その後、船にて
大坂城
(摂津国)に帰城する。
出典:(慶長16年)3月28日付細川忠興書状(○東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号285)、『黒田家譜』巻14「長政記」
慶長19年 1614年 7月26日
南光坊天海
が
徳川家康
に天台血脈を伝授する。
片桐且元
と
板倉勝重
の書状が家康のもとに届く。内容は
方廣寺
大仏供養は8月3日、開眼供養は8月18日にするようにとの家康の指示だが、18日は豊国臨時祭のため3日に開眼供養を開催したいと
豊臣秀頼
が述べていたことを伝える。家康はこの返事として、大仏供養のことについて棟札の記載と鐘の銘文に立腹していることを伝え、頼朝時代には大仏開眼と堂供養は分けて実施しているので先例に倣うようにと
本多正純
・
金地院崇伝
をして伝えさせる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 7月9日
徳川家康
が
二条城
(山城国)前殿に出座する。家康は
南光坊天海
、
以心崇伝
を召し、
豊国神社
(山城国)について破却したいところであるが、祭神である
豊臣秀吉
は
方廣寺
大仏(山城国)の鎮守であるので、大仏殿の回廊裏に遷座を考えているが、どうかと尋ねる。天海・崇伝いずでも、家康の意図でしかるべしと返答する。そこで家康は、
板倉勝重
を召し寄せ、妙法院門跡を方廣寺住持とし1000石を加増する旨を伝える。照高院興意については、家康・
秀忠
父子の調伏祈祷をしていたので思うところはあるが、ひとまず聖護院に移すこととする。
出典:『駿府記』同年月日条
元和1年 1615年 7月19日
智積院を照高院寺屋敷に移す。妙法院を
方廣寺
(山城国)住持とするための処置とされる。妙法院には新たに300石を給付する。
出典:『駿府記』同年月日条
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