人 物 史

松平康元 まつだいら やすもと
生 没 年天文21年(1552)-慶長8年(1603)8/14
出 身尾張国知多郡阿久比幼 名-
別 称久松、三郎太郎、勝元
法 名-
戒 名大興院傑伝宗英
久松俊勝於大の方(水野忠政の娘)
兄 弟 姉 妹松平康元松平康俊松平定勝
配 偶 者-
娘(岡部長盛の妻)、娘(菅沼定仍の妻)、松平忠良、娘(松平忠政の妻、菅沼定芳の妻)、満天(徳川家康の養女、福島正之の許嫁、福島忠勝の妻、津軽信枚の妻)、娘(徳川家康の養女、田中忠政の妻、松平成重の妻)、娘(徳川秀忠の養女、田中一忠の妻、毛利秀元の妻)、松平政良、松平康久、松平良助、慶存
官 位因幡守
役 職-
城 郭関宿城(下総国)
参 考 文 献○『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項
関 連 デ ー タ-
松平康元 年表
天文21年 1552年 -月-日 1歳
松平康元が尾張国知多郡阿古居にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻52「松平康元」の項

弘治1年 1555年 10月23日 4歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 7歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 -月-日 9歳
弟・定勝が尾張国知多郡阿久比にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項

永禄3年 1560年 3月-日 9歳
松平元康が阿古居(尾張国)の久松俊勝邸に赴く。俊勝の子・康元康俊定勝が異父兄の元康に初めて謁す。元康は異父弟の3人を兄弟として遇し、松平を名乗るように言い渡す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項、同巻第54「松平定勝」の項

永禄3年 1560年 5月19日 9歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄3年 1560年 -月-日 9歳
徳川家康松平康元に麾下として金田宗房、高木正次、坂部勝之、平野弥角、吉田久兵衛を付ける。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項

元亀1年 1570年 4月23日 19歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀3年 1572年 12月22日 21歳
三方ヶ原(遠江国)にて武田信玄徳川家康が戦い、信玄が勝利する。
武田信玄勢:真田昌幸土屋昌続横手信俊[山県昌景勢]、山高信親(戦死)。
徳川家康勢:酒井忠次酒井正親榊原康政[先鋒]、小栗忠政鳥居忠広(戦死)・野々山元政(戦死)、石川正俊(戦死)、渥美友勝、加藤正信(戦死)、加藤比禰丞(戦死)。
織田勢:平手汎秀(戦死)。
浜松城(遠江国)留守居衆:石川家成、小笠原広重。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井忠次」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同118「石川家成」の項、同122「石川正俊」の項、同110「野々山元政」の項、同160「山高信親」の項、同163「柳沢信俊」の項、同191「小笠原広重」の項、同777「加藤比禰丞」の項、同777「加藤正信」の項、同961「渥美友勝」の項

天正1年 1573年 7月28日 22歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 5月20日 24歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 24歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正8年 1580年 -月-日 29歳
子・忠良が三河国西郡にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平忠良」の項

天正9年 1581年 3月22日 30歳
徳川家康岡部元信の籠る高天神城(遠江国)を攻める。徳川勢が元信を討ち取り、家康は高天神城を落とす。
徳川家康勢:徳川家康[大将]、松平康元松平康次松平清宗松平康安小栗忠政、成瀬久次、渥美友勝、板倉定重(戦死)、岩瀬氏則(首級5)。
岡部元信勢:岡部元信[大将](戦死)。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第16「松平康次」の項、同21「松平清宗」の項、同26「松平康安」の項、同52「松平康元」の項、同81「板倉定重」の項、同961「渥美友勝」の項、同963「岩瀬氏則」の項

天正10年 1582年 6月2日 31歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 7月3日 31歳
徳川家康が甲斐国に向けて浜松城(遠江国)より出陣する。
徳川勢:松平康元
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項、同巻第52「松平康元」の項

天正10年 1582年 7月9日 31歳
徳川家康が府中(甲斐国)に到着する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正12年 1584年 4月9日 33歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正18年 1590年 7月6日 39歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月10日 39歳
徳川家康小田原城(相模国)に入城する。
出典:『天正日記』同年月日条

天正18年 1590年 12月28日 39歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正18年 1590年 -月-日 39歳
徳川家康松平康元小田原城(相模国)の守備を命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項

天正18年 1590年 -月-日 39歳
松平康元が北条家旧臣の横瀬肥前守、大石善左衛門を召し抱える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項

天正18年 1590年 -月-日 39歳
徳川家康松平康元に下総国葛飾郡内にて20000石を給付し、関宿城(下総国)城主とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項

天正19年 1591年 6月20日 40歳
豊臣秀吉が奥羽の一揆成敗のため豊臣秀次に出陣を命じる。
出典:-

天正19年 1591年 -月-日 40歳
徳川家康松平康元に下総国内にて20000石を給付し、康元の所領は総じて40000石となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項

文禄1年 1592年 12月8日 41歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 45歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 47歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 9月1日 49歳
徳川家康が東海道より上方に向け江戸城(武蔵国)を発つ。徳川秀忠が東山道より上方に向け江戸城を発つ。
秀忠勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利、石川康長、牧野貞成、神尾守世青木信安真田信幸仙石秀久、日根野吉重、森忠政折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重[大久保忠隣勢]、山寺信光、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
江戸城の留守居として松平康元を置く。
出典:『関原始末記』、『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」、同398「辻久吉」の項

慶長5年 1600年 9月7日 49歳
徳川秀忠真田昌幸信繁父子の籠る上田城(信濃国)を攻めも、昌幸・信繁が秀忠勢を退ける。
徳川勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利神尾守世青木信安岩間正時折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重(大久保忠隣勢)、木内蕃正[本多正信勢]、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
出典:『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第3「松平忠利」の項、同59「酒井忠世」の項、同61「酒井忠利」の項、同61「酒井忠勝」の項、同65「酒井家次」の項、同126「森忠政」の項、同160「山高親重」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」の項、同964「岩間正時」の項、同巻第964「木内蕃正」の項、同1043「神尾守世」の項

慶長5年 1600年 9月15日 49歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長7年 1602年 8月-日 51歳
松平康元が母・於大の方の死去につき、関宿(下総国)に弘経寺を建立する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項

慶長7年 1602年 冬月-日 51歳
松平康元が母・於大の方の死去につき関宿(下総国)に建立した弘経寺を、徳川家康が光岳寺と寺号を改める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項

慶長8年 1603年 2月12日 52歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 8月14日 52歳
松平康元が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻52「松平康元」の項

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