人 物 史

広橋兼勝 ひろはし かねかつ
生 没 年永禄1年(1558)-元和8年(1622)12/18
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名後是称院照月快寂
広橋国光高倉永家の娘
兄 弟 姉 妹日野輝資広橋兼勝、光紹
配 偶 者烏丸光康の娘
広橋総光、隆基、三木隆量、勧助、娘(三木信孝の妻)、娘(三木季福の妻)、娘(宗保の妻)
官 位右中弁、左大弁、権中納言、権大納言
氏 族 門 流-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
広橋兼勝 年表
永禄1年 1558年 -月-日 1歳
広瀬兼勝が生まれる。
出典:『系図纂要』「広橋」

弘治4年 1558年 2月28日 1歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄10年 1567年 8月5日 10歳
祖父・兼秀が死去する。
出典:『系図纂要』「広橋」

永禄11年 1568年 11月12日 11歳
父・国光が死去する。
出典:『系図纂要』「広橋」

元亀1年 1570年 4月23日 13歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 16歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正4年 1576年 1月20日 19歳
近衛信基邸で和歌始が行われる。聖護院道澄山科言継山科言経、西洞院時通、広橋兼勝、冷泉、北小路俊孝、上野民部少輔、丹波頼景、丹波頼慶、進藤長治が参加する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 2月1日 19歳
山科言継山科言経、日野輝資、広橋兼勝烏丸光宣村井貞勝のもとを訪れる。茶・吸物・酒でのもてなしを受ける。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 3月29日 19歳
飛鳥井雅敦邸の庭にて蹴鞠が行われる。参加者は高倉永相、山科言経、五辻為仲、雅敦、烏丸光宣、日野輝資、三条公宣、毘沙門堂公厳、広橋兼勝、高倉永孝、薄以継、五辻元仲。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月1日 19歳
飛鳥井雅敦邸の庭にて蹴鞠が行われる。参加者は三條西実枝、山科言経、雅敦、中院通勝、烏丸光宣、日野輝資、三条公宣、毘沙門堂公厳、広橋兼勝、高倉永孝、薄以継、五辻元仲。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月2日 19歳
禁中蹴鞠が行われる。参加者は誠仁親王、飛鳥井雅敦、高倉永相、山科言経、中院通勝、五辻為仲、広橋兼勝薄以継、五辻元仲。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月18日 19歳
飛鳥井雅敦邸の庭にて蹴鞠が行われる。参加者は三条西実枝、高倉永相、山科言経、雅敦、日野輝資、三条公宣、毘沙門堂公厳、広橋兼勝、高倉永孝、薄以継、五辻元仲。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月20日 19歳
飛鳥井雅敦邸の庭にて蹴鞠が行われる。参加者は三条西実枝、雅教、高倉永相、山科言経勧修寺晴豊、雅敦、烏丸光宣、日野輝資、三条公宣、広橋兼勝、高倉永孝、薄以継、五辻元仲。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月2日 19歳
公家衆の二条晴良九条兼孝一条内基、西園寺公朝、近衛信基、三条西実枝、、中山孝親菊亭晴季徳大寺公維飛鳥井雅敦山科言継庭田重保、高辻長雅、葉室頼房持明院基孝柳原淳光四辻公遠、甘露寺経元、水無瀬兼成、高倉永相、山科言経、庭田重通、勧修寺晴豊正親町実彦、中山親綱、松木宗房、中院通勝、富小路千夜叉(秀直)、唐橋尊松(在通)、烏丸光宣、五辻為仲、冷泉為純、雅敦、大炊御門経頼、日野輝資、竹内長治、東坊城盛長水無瀬親具、白川雅朝、久我季通、西洞院時通、中御門宣教、広橋兼勝、高倉永孝、冷泉、葉室長教、四辻季満、高倉範国、万里小路充房、四条隆昌、橋本実勝、冷泉俊久、薄以継、五辻元仲、五条為名、門跡衆の仁和寺守理、青蓮院尊朝、妙法院常胤、聖護院道澄大覚寺尊信、勧修寺聖信、三宝院義演、実相院が妙覚寺に滞在中の織田信長のもとに礼に訪れる。公家衆からの進物を村井貞勝が披露する。
山科言継山科言経、葉室頼房、葉室長教、冷泉、薄以継が二条晴良邸の跡地に建てた信長の屋敷を見物する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 6月6日 19歳
織田信長が、石清水八幡宮より槙島(山城国)を経て、未刻(13-15時)に妙覚寺に入る。二条晴良昭実父子、近衛前久信基父子、飛鳥井雅敦勧修寺晴豊烏丸光康光宣父子、山科言継言経父子、持明院基孝中山孝親庭田重保葉室頼房広橋兼勝冷泉為純薄以継大乗院尋憲一乗院尊政大覚寺尊信聖護院道澄が訪れ、対面する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 11月2日 19歳
吉田兼見が飛鳥井雅敦のもとを訪れる。兼見、雅敦、広橋兼勝、富小路種直が相談をし、夕食をともにする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 閏7月12日 20歳
近衛信基の元服につき、加冠役を織田信長が、理髪は広橋兼勝がつとめる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(5)「近衛殿御方御元服の事」

天正6年 1578年 4月9日 21歳
織田信長が右大臣就任を辞退する。辞退状を広橋兼勝が請け取る。辞退状には四海平均を優先するためとし、官を子・信忠に譲与したいと記す。
信長の辞退申し出を受け、飛鳥井雅敦の所にて諸卿が協議する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正8年 1580年 1月5日 23歳
左大弁となる。
出典:『系図纂要』「広橋」

天正8年 1580年 8月7日 23歳
子・総光が生まれる。
出典:『系図纂要』「広橋」

天正10年 1582年 1月19日 25歳
権中納言となる。
出典:『系図纂要』「広橋」

天正10年 1582年 6月2日 25歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正13年 1585年 7月11日 28歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正16年 1588年 4月14日 31歳
後陽成天皇が聚楽第(山城国)に行幸する。秀吉の前駈(右列)に石田三成大谷吉継片桐且元が、前駈(左列)に増田長盛加藤嘉明が供をする。秀吉に続き、織田信包織田長益前田利家蒲生氏郷長宗我部元親蜂屋頼隆細川忠興が、鳳輦についで織田信雄徳川家康豊臣秀次豊臣秀長近衛信輔烏丸光宣持明院基孝東坊城盛長広橋兼勝が、近衛大将の左として鷹司信房が供奉する。
出典:『多聞院日記』同年5月4日条、『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 4月16日 31歳
聚楽第(山城国)で行われた和歌会にて「庭にまつ 二葉の松を 移しをきて 君が千歳の 行衛かぞへむ」と詠む。
出典:『豊鑑』巻3

文禄1年 1592年 12月8日 35歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 39歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 1月11日 40歳
権大納言となる。
出典:『系図纂要』「広橋」

慶長3年 1598年 8月18日 41歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 12月24日 44歳
広橋兼勝勧修寺光豊舟橋秀賢近衛信尹のもとを訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 1月21日 46歳
伏見城(山城国)の徳川家康邸に勅使として広橋兼勝が訪れる。兼勝が内々に家康に征夷大将軍への就任を打診する。家康は了承する。兼勝に小袖1重、黄金3枚を贈る。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 46歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長9年 1604年 閏8月10日 47歳
勅使の広橋兼勝勧修寺光豊徳川家康のもとを訪れ、後陽成天皇が緞子10巻を、親王が焼物を家康に贈る。摂関家の関白・一条内基、前関白・二条昭実九条忠栄、鷹司信尚、門跡の照高院道澄、妙法院常胤、梶井宮最胤、随心院増孝、一乗院尊政が家康のもとに礼に訪れる。ついで堂上公家衆の大炊御門経頼、大炊御門頼国、烏丸光宣、万里小路充房、高倉永孝、飛鳥井雅庸、花山定好、西洞院時直が礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 48歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長17年 1612年 1月17日 55歳
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をする。後陽成上皇に鷹狩で狩った鶴を進上する。伝奏の広橋兼勝勧修寺光豊に雁3羽を贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月6日 57歳
南禅寺、天龍寺慈済院、相国寺慈照院、鹿苑院、建仁寺常光院紹益、両足院、東福寺不二庵、龍眼庵、南昌院が徳川家康の召しにより、駿府(駿河国)に到着する。
広橋兼勝、広橋兼賢、三条実條、藪宰相、高倉少将が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月8日 57歳
広橋兼勝、三条実條、広橋兼賢、藪宰相、高倉少将が駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。
黒田長政池田玄隆が家康に銀200枚・服10領を献上する。家康は長政・玄隆に暇を賜い、江戸(武蔵国)に向かう。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月14日 57歳
駿府城(駿河国)にて法相宗論議、真言論議が行われる。広橋兼勝、三条実條、広橋兼賢、藪宰相、高倉少将、南光坊天海、月山寺、薬樹院、浄土宗僧、五山衆が聴聞する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月17日 57歳
駿府城(駿河国)にて法相宗論議が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月20日 57歳
勅使の広橋兼勝・三条実條、藪宰相、日野、広橋兼賢、高倉が駿府城(駿河国)に登城し徳川家康に会う。勅使の意趣は、徳川秀忠の娘を入内すること、家康に太政大臣か准三后従一位に任官することを伝える。家康よりは、「公家中之法式」を糺すこと、諸公家の記録を書写し進上することを伝える。実條が『三代実録』を所持していることを家康に伝える。
曲直瀬玄朔が家康に謁す。
京都より家康のもとに飛脚が到着し、方廣寺大仏殿(山城国)の鐘鋳に唐金17000貫目余、鞴数132丁、桶4筋、鋳物師棟梁は山城国釜之座弥右衛門・同助左衛門、脇棟梁11人、諸国鋳物師3100余人、鐘の口9尺1寸5分、高1丈8寸、厚9寸だったことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月24日 57歳
二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに、勅使として広橋兼勝、三条実條が赴く。
家康が大坂城(摂津国)攻めの先手の諸大名衆と対面する。
徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに到着する。秀忠の出馬を早く認めてもらうよう家康に伝えたところ、家康より伊達政宗上杉景勝佐竹義宣を先手として急ぎ出陣するように言い渡す。
秀忠が神奈川(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月29日 57歳
勅使の広橋兼勝、三条実條が住吉(摂津国)にいる徳川家康に対面する。勅使に日野唯心、飛鳥井雅庸、以心伝心も同行する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 57歳
勅使の広橋兼勝・三条実條が徳川家康のもとに到着する。寒天につき家康が上洛するか、和睦するかを尋ねるもので、日野唯心以心崇伝を介し家康に問う。家康は上洛せず在陣し、和睦はしないと返答する。和睦をしない理由は、もし和睦が成立しなかった場合、「天子命」が軽んぜられることになるためとする。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 58歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月17日 58歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き対面する。
家康は、公家諸法度を伝奏、二条昭実、三条実條、今出川晴季、公家衆に聞かせるべく広橋兼勝に読ませる。以心崇伝が同席する。
八条宮智仁が家康に礼をする。太刀・馬を贈る。
伏見宮邦清が家康に礼をする。小高檀紙10束を贈る。
九条忠栄が家康に礼をする。帷子・太刀・馬を贈る。
巳刻(9-11時)、能が催される。智仁、邦清、昭実、忠栄、一条、鷹司、近衛、晴季が参席し、七五三の饗応を受ける。織田常真日野唯心、両伝奏、花山院などの諸公家数十人、秀忠に供奉した武士は饗応を受ける。申下刻(16時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 59歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和4年 1618年 11月14日 61歳
内大臣となる。
出典:『系図纂要』「広橋」

元和8年 1622年 12月18日 65歳
広橋兼勝が死去する。
出典:『系図纂要』「広橋」

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