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慶長9年 1604年 5月8日
東本願寺御影堂の石築に大津衆(門徒衆)がやってくる。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長9年 1604年 5月10日
東本願寺御影堂の石築に伏見衆(門徒衆)がやってくる。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長9年 1604年 5月12日
福島正則本願寺教如のもとを訪れる。教如は正則との会見後、上洛する松平忠吉を迎えるべく大津(近江国)に赴き、忠吉を迎える。教如はその日のうちに東本願寺に戻る。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長9年 1604年 5月24日
今田経高が死去する。
出典:-

慶長9年 1604年 5月28日
夜明け、本願寺教如が東本願寺の梵鐘鋳造の様子を見物する。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長9年 1604年 5月29日
28日に鋳造した梵鐘を掘り出す。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長9年 1604年 6月3日
28日に鋳造した梵鐘を東本願寺御影堂の前に引く。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長9年 1604年 6月5日
28日に鋳造した梵鐘をつるす。観如が梵鐘を打つ。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長9年 1604年 6月13日
徳川秀忠が参内する。松前慶広が供奉する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長9年 1604年 6月14日
卯刻(5:00-7:00)、東本願寺御影堂の柱立てが始まる。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長9年 1604年 6月22日
松平忠利が従五位下・主殿頭に叙位・任官。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平忠利」の項

慶長9年 1604年 6月28日
本願寺教如が大坂に下向する。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長9年 1604年 6月-日
江戸城(武蔵国)より上洛途上の徳川秀忠掛川城(遠江国)の松平定勝のもとを訪れる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項

慶長9年 1604年 6月-日
森可政が従五位下・対馬守に叙位・任官。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第127「森可政」の項

慶長9年 1604年 7月13日
伏見(山城国)の松平忠吉邸に舟橋秀賢が訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 7月17日
徳川家光が生まれる。御篦刀役を酒井忠世がつとめる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項

慶長9年 1604年 7月18日
菅沼定盈が長島(伊勢国)にて死去する。
出典:『諸寺過去帳』、『宗堅寺過去帳』、『寛政重修諸家譜』巻303「菅沼定盈」の項

慶長9年 1604年 7月25日
徳川竹千代の小姓として松平信綱が付される。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

慶長9年 1604年 8月1日
権大納言に任官。
出典:『系図纂要』「九条」

慶長9年 1604年 8月1日
右中弁となる。
出典:『系図纂要』「小川坊城」

慶長9年 1604年 8月4日
堀尾忠氏が死去する。
出典:『系図纂要』「堀尾」

慶長9年 1604年 8月15日
豊国神社の祭礼が行われ、上京下京の地下人が風流踊を催す。上京よりは300名、下京よりは200人が参加する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 8月16日
夜、豊国神社で神楽がある。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 8月21日
豊国神社で伶人舞楽が行われる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 8月22日
村上武吉が死去する。
出典:-

慶長9年 1604年 8月23日
池田輝政福島正則森忠政徳川家康に近侍する。
放鷹の商売および隠匿を禁じる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 8月23日
大島光義が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第73「大島光義」の項

慶長9年 1604年 8月26日
細川忠興細川忠利を世継とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠利」の項

慶長9年 1604年 8月28日
佐竹義宣が湊城(出羽国)より久保田城(出羽国)に移る。湊城は破却する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長9年 1604年 8月30日
本願寺教如勧修寺光豊邸へ向かう。その後、御堂衆5人を御供とし、100名以上を引き連れ参内する。衣装は絹袴に直綴で、金の中浮を持つ。禁裏へ太刀・馬代として銀子20枚・綿100把、女院御所へ綿100把・銀子10枚、親王へ太刀・馬代銀子10枚・杉原5束を進上する。清涼殿西間で後陽成天皇に対面する。つぎで仙洞御所に赴く。どちらにおいても1献もなし。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)、『慶長日件録』同年月日条

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