人 物 史

松前慶広 まつまえ よしひろ
生 没 年天文17年(1548)9/3-元和2年(1616)10/12
出 身-幼 名天才丸
別 称新三郎
法 名永泉
戒 名-
蠣崎季広河野季通の娘
兄 弟 姉 妹蠣崎舜広、明石元広、松前慶広、随良、蠣崎正広、蠣崎長広、蠣崎定広、蠣崎包広、蠣崎吉広、蠣崎仲広、蠣崎守広、蠣崎員広、蠣崎利広、女(南条広継の妻)、女(下国師季の妻)、女(季庭秀信の妻)、女(小平季遠の妻)、女(厚谷秀貞の妻)、女(東茂季の妻)、女(村上忠儀の妻)、女(神浦季綱の妻)、女(下国重季の妻)、女(下国直季の妻)、女(佐藤季連の妻)、女(村上直儀の妻)、女(新井田広貞の妻)
配 偶 者村上季儀の娘、斎藤実繁の娘
松前盛広、娘(喜庭直信の妻、津軽信建の妻)、松前忠広、松前利広、松前由広、松前次広、松前景広、松前安広、松前満広、娘(下国広季の妻)
官 位民部大輔、志摩守、伊豆守
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ-
松前慶広 年表
天文17年 1548年 9月3日 1歳
松前慶広が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

弘治1年 1555年 10月23日 8歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 11歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 23歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 26歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正10年 1582年 6月2日 35歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正18年 1590年 12月-日 43歳
秋田実季蠣崎慶広が上洛し、豊臣秀吉に謁見する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

文禄1年 1592年 12月8日 45歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 1月5日 46歳
豊臣秀吉蠣崎慶広が蝦夷国を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

文禄2年 1593年 1月7日 46歳
蠣崎慶広徳川家康に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

文禄4年 1595年 4月20日 48歳
父・季広が松前(蝦夷国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「蠣崎季広」の項

慶長1年 1596年 10月27日 49歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長4年 1599年 11月7日 52歳
蠣崎慶広大坂城(摂津国)西ノ丸にて徳川家康に蠣崎家の系譜及び松前(蝦夷国)の地図を見せる。慶広は姓を松前に改める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長5年 1600年 9月15日 53歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長5年 1600年 -月-日 53歳
松前慶広が福山城(蝦夷国)を築く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長9年 1604年 1月27日 57歳
幕府が松前慶広の許可なしに蝦夷国にて交易をすることを禁じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長9年 1604年 3月2日 57歳
徳川家康松前慶広に脇差(兼光)・時服5を下賜する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長9年 1604年 5月28日 57歳
松前慶広が従五位下・伊豆守に叙位・任官。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長9年 1604年 6月13日 57歳
徳川秀忠が参内する。松前慶広が供奉する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長15年 1610年 1月8日 63歳
松前慶広駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き、蝦夷国の鷹4連を献上する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長15年 1610年 2月16日 63歳
徳川秀忠松前慶広小出吉政、滝川一雄、猪子一時を招き茶湯を振る舞う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長15年 1610年 3月1日 63歳
松前慶広が花山院忠長の身柄を預かる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長19年 1614年 5月28日 67歳
松前慶広のもとに身柄預かりとなっていた花山院忠長の勅勘が解け、中長は上洛する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長20年 1615年 5月-日 68歳
松前慶広・忠広父子が大坂城(摂津国)攻めに出陣する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

元和1年 1615年 7月13日 68歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 10月12日 69歳
松前慶広が松前(蝦夷国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

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