歴史の目的をめぐって

   地 名 の 歴 史

下京(山城国) しもぎょう
初 見-
山城国
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荘 園-
中 世 高-
近 世 領 主-
近 世 石 高-
鎮 守-
神 社-
寺 院-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
下京(山城国) 年表
和暦 西暦 事項 出典
文明7年14751217この頃、大津-下京間の路次が塞がれている状態。『実隆公記』同年月日条
明応2年1493103下京四条で愛宕山の勧進として観世猿楽が行われる。『言国卿記』同年月日条
明応3年149476下京で火災が発生する。四条室町より出火し、北は四条坊門、南は五条坊門、西は堀川まで焼失する。『厳助往年記』同年月日条
大永7年15271013足利義晴細川道永が軍勢20000-30000を率い坂本(近江国)より上洛し、義晴は若王子に、高国は神護寺に陣所を置く。またその加勢として、六角定頼率いる軍勢20000(30000とも)が東福寺に、朝倉教景率いる軍勢6000(10000とも)が下京四条に布陣する。『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条
大永7年15271214下京にて細川道永勢と三好元長柳本賢治勢が戦う。『言継卿記』同年月日条
享禄2年1529316柳本賢治が供御料所の丹波国桐野・河内村の旱魃にともない先例にのっとり、洛中洛外の米屋に供御米を進納するよう上京下京米屋当座中に命じる。(享禄2年)3月16日付柳本賢治書状案(『蜷川家文書』3巻-502号)
享禄5年1532120三好元長下京の柳本城(山城国)を攻める。三好一秀に城の西側から攻めさせる。ただし矢合わせをし退く。『二水記』同年月日条
享禄5年1532122三好元長下京三条の柳本城を攻撃し落とす。籠城していた柳本甚次郎・木島与吉兵衛尉・中井彦七を自害させる。『言継卿記』同年月日条、『二水記』同年月日条、『陰徳太平記』巻7「畠山総州三好開運自害之事」
天文1年153284山村正次が上京下京の一揆勢を率いて打ちまわる。『祇園執行日記』同年月日条
天文1年1532811山村正次が上京下京の日蓮衆徒・町人を率いて東山を打ちまわる。『祇園執行日記』同年月日条
天文1年1532812上京下京の日蓮衆徒が思い思いに軍勢を各所に遣わす。『祇園執行日記』同年月日条
天文1年1532926一向一揆勢と薬師寺国長・法華衆が山崎(山城国)にて戦っているのをうけ、上京の町衆が集会のため革堂の鐘を、下京の町衆が六角堂の鐘を鳴らす。『二水記』同年月日条
天文2年1533426上京下京の日蓮衆徒が、京都に滞在している細川晴元勢に交じり大坂本願寺攻めに出陣する。『祇園執行日記』同年月日条
天文2年1533514雨のため鴨川の水量が増し、洛中への通行が不能となる。『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』151号
天文3年1534715京都町人が踊をする。『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』154号)
天文6年15371213室町幕府が京都北口(岩倉・花園・長谷)での柴公事銭徴収を永正13年6月2日付室町幕府下知状に準じ停止する。柴公事銭を徴収する者がいたならば町人が捕らえるよう指示する。連署者は諏訪晴長・松田頼康松田晴秀同年月日付室町幕府奉行人連署下知状案(『蜷川家文書』3-524号)
天文7年1538222夜、下京五条東洞院が焼亡する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文7年1538313下京地下人と高畠長直が雙林寺の路次にて喧嘩する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539725上京下京での徳政停止につき、伊勢貞孝が政所公人・開闔雑色をもって触れさせる。これにつき上京下京の土倉が5荷3種を貞孝に進上する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539824上京下京の地下人から申請のあった徳政停止について六角定頼と相談し、定頼より徳政停止で問題なしとの返答を受けたことから、松田晴秀に徳政停止を施行するよう伝える。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年15391028興福寺多聞院が下京四条のナラヤ三郎衛門所に宿泊する。『多聞院日記』同年月日条
天文8年15391230上京下京の地下人20名の連判状をもって幕府に願い出ていた納銭方の員数増員が認められる。これにつき、礼として、地下人納銭方の佐野、中山、野洲井光助伊勢貞孝のもとを訪れ300疋を贈る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154221六角家の馬淵勢が下京にて厳しい取り立てをしたため、下京の町衆と喧嘩となる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文13年154479大洪水により京中の人馬が流出する。『厳助往年記』同年月日条
天文21年1552222上京衆・下京衆が土御門法華堂跡地で勧進猿楽を興行する。『言継卿記』同年月日条
天文22年1553721洛中で風流踊をし、禁裏にも入る。『言継卿記』同年月日条
天文22年1553729足利義藤が西院(山城国)に野伏せりを仕掛ける。細川晴元の家臣・内藤彦七、香西元成三好政勝、十河左介、宇津二郎左衛門が談合のため義藤の陣所を訪れる。義藤は彼らに酒を振舞う。大舘晴光上野信孝、上野与三郎、杉原晴盛も談合に参加。同朋衆に酌をさせる。
下京に1町につき結橋2つを賦課する。
『言継卿記』同年月日・7月30日条条
弘治2年155610-三好長慶が禁裏の四方の築地等を修築するため、洛中の上京下京に棟別銭を賦課する。奉行は結城進斎。『厳助往年記』同年月条
永禄1年1558519三好長慶の軍勢(三好長逸松永久秀松永長頼、伊勢十郎、粟津修理亮)が鳥羽(山城国)・九条(山城国)辺より京都内の大宮を北へ、御霊口サイの神の前(御霊社脇)を南へ、大原辻に出て、富小路の東・京極を南へ行き打ち廻り、鳥羽に帰陣する。軍勢は10000とも15000とも。『言継卿記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条
永禄12年1569121足利義昭の居所として織田信長が勘解由小路室町にあった足利義輝の御所(武衛御所)を再興すべく自らが奉行となって普請を始める。石積みを西側より始める。尾張国・美濃国・伊勢国・近江国・伊賀国・若狭国・山城国・丹波国・摂津国・河内国・大和国・和泉国・播磨国より石を集める。『言継卿記』同年月日条
永禄12年1569126織田信長が、足利義輝が戦死した御所(武衛御所)に、足利義昭の御殿を建立することを、同地に建立されていた真如堂蓮光院に伝える。真如堂には替地として一条の西の地(広さ4丁町)の寄進と所領の安堵、さらには西岡(山城国)のうち知徳庵、知徳庵道場分を新たに寄進、課役の賦課と寄宿停止を伝える。永禄12年1月26日付織田信長朱印状(「真正極楽寺文書」『織田信長文書の研究』上巻147号)
永禄12年156927勘解由小路室町に建設中の城の西側の石積みがおおよそ完成する。高さ4間1尺(約7.5m)。『言継卿記』同年月日条
永禄12年156929勘解由小路室町城の南の岸が崩れ人夫7、8人が死亡する。普請人数は1日数千人という。『言継卿記』同年月日条
永禄12年1569414織田信長が築城した春日室町第に足利義昭本圀寺より移る。『言継卿記』同年月日条
永禄13年1570230申刻(15-17時)、織田信長が上洛する。公家・室町幕府奉公衆が堅田、坂本、山中(近江国)にて信長を出迎える。上京下京の町人が1町につき5人ずつ吉田(山城国)まで向かう。明智光秀邸に入る。『言継卿記』同年月日条、『晴右記』同年月日条、『多聞院日記』同年3月2日条
永禄13年1570317鞍馬寺を目指す興福寺の多聞院英俊が三十三間堂に参詣し千手観応を見物する。
英俊は「四条ノ長刀杵ノ町五郎太郎」の所に宿泊する。
『多聞院日記』同年月日条
元亀2年157188下京の粟津与五郎が山科言継に伏見の者が鰤・鮭の商売を新たに始めたことは非法であると訴える。これを受け、言継は細川藤孝に伏見の鰤・鮭商売の停止を依頼する。『言継卿記』同年月日条
天正3年157546辰刻(7-9時)、軍勢10000余を率い河内国に向け出陣する。室町通五条を通る。蛸薬師にて吉田兼見の礼を受ける。八幡に宿泊する。『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」
天正4年1576217六角烏丸町の塩瀬紹椒の中庸抄を山科言経が澤路長俊に命じて借用する。『言経卿記』同年月日条
天正4年1576313因幡堂において上京下京の地下人が猿楽勧進を催す。大夫は太刀屋。『兼見卿記』同年月日条
天正4年1576328山科言経が六角烏丸町の塩瀬紹椒に中庸抄を澤路長俊に命じて返却する。『言経卿記』同年月日条
天正4年157643山科言経が六角烏丸町の塩瀬紹椒の孝経抄を澤路長俊に命じて借用する。『言経卿記』同年月日条
天正4年1576410下京の地下人で太皷打ちの幾嶋源三郎が吉田兼見のもとを訪れ沈香1両を贈る。源三郎は兼見に面会する。『兼見卿記』同年月日条
天正4年157653早朝、原田直政が先陣に三好笑岩根来寺衆・和泉国衆を、次陣に直政率いる大和・山城国衆をもって木津の一向一揆勢の砦を攻めるが、楼の岸砦より出撃した一向一揆勢と戦い、直政は奮戦するも戦死する。他に塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎が討死する。一向一揆勢は余勢をかり、明智光秀佐久間信栄荒木村重猪子高就大津長昌等が籠る天王寺砦を攻める。
羽柴秀吉大坂本願寺攻めのため下京に着陣する。
『多聞院日記』同年月日・4日条、『兼見卿記』同年月日・4日条、『言継卿記』同年月4日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」
天正4年1576522京都にて洪水が発生し、通路の通行ができなくなる。『兼見卿記』同年月日条
天正4年1576716村井貞勝が「洛中踊」を許可する。『兼見卿記』同年月日条
天正4年1576717夜、「京中踊」が行われる。『兼見卿記』同年月日条
天正6年157878巳刻(9-11時)、四条道場が寮舎からの出火により焼失する。『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」、『兼見卿記』同年月日条
天正6年1578725下京衆の踊りが禁裏のヌキ通前にて行われる。『言経卿記』同年月日条
天正7年15791216辰刻(7-9時)、織田信長荒木村重の妻子・兄弟を上京一条辻から室町通を通って六条河原まで引き回し、六条河原にて処刑する。奉行は不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近『信長公記』巻12(18)「伊丹城相果だし御成敗の事」
天正9年1581228織田信長が京都にて馬揃を行う。正親町天皇が閲覧できるよう内裏の東に南北8町の馬場を、禁裏東門築地の外に行宮を設える。信長は、辰刻(7-9時)、本能寺を出立し、室町通を上って一条を東に曲がり馬場へと入場する。参列者は、一番に丹羽長秀・摂津衆・若狭衆・革島氏、二番に蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆・根来寺の内衆の大ヶ塚・佐野衆、三番に明智光秀・大和衆・上山城衆、四番に村井作右衛門・根来衆・上山城衆、次いで連枝衆として織田信忠・美濃衆・尾張衆、北畠信雄・伊勢衆、織田信包織田信孝津田信澄織田長益、織田又十郎、織田勘七郎、中根、織田竹千代、織田周防、織田孫十郎、公家衆として近衛前久正親町実彦烏丸光宣・日野中納言・高倉右衛門佐、細川昭元、細川藤賢、伊勢兵庫頭、一色左京権大夫、小笠原、越前衆として柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門・不破光治前田利家金森長近原長頼『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(2)御馬揃への事
天正16年1588512大仏殿建立につき石壇が積み上げられ、盛土が行われる。また洛中上京下京の衆に餅・酒が下行する。『多聞院日記』同年月日条
天正16年1588515豊臣秀吉の命により三十三間堂の北に大仏殿の地築がなる。また京の町衆による風流踊や金春・観世座の能も行われる。『言経卿記』『多聞院日記』同年月日条
天正16年1588516豊臣秀吉大仏殿の屋敷に赴く。上京下京の町人に踊りを命じる。『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)
文禄4年159511晦日豊臣秀吉の病につき下京より祇園において十二釜湯立ておよび能が行われる。『左大史孝亮記』同年月日条
文禄5年1596閏712大地震(慶長大地震)により多くの死者が出る。『左大史孝亮記』同年月日条
慶長9年1604815豊国神社の祭礼が行われ、上京下京の地下人が風流踊を催す。上京よりは300名、下京よりは200人が参加する。『慶長日件録』同年月日条
慶長19年16141023卯刻(5-7時)、徳川家康が永原(近江国)を発ち、矢橋(近江国)より早船にて膳所(近江国)に到着する。船中、戸田氏鉄が家康に御膳を献じる。午刻(11-13時)、家康は二条城(山城国)に到着する。家康は、片桐孝利を召し出す。孝利はは、このたび大坂城(摂津国)で家康に別心を構えた者について報告する。
福島正則豊臣秀頼に送った使者が、二条城に戻ってくる。秀頼の正則への返書は無かったとされる。
家康が片桐且元藤堂高虎を召し出し、大坂城の堀の深さを尋ねるとともに、大坂城攻めの諸口の様子を、絵図を用いながら聞く。
徳川秀忠よりの使者として青山重長が家康のもとに到着する。家康は秀忠に出陣を指示する。
『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項
慶長19年1614111上京下京(山城国)が二条城(山城国)にいる徳川家康に銀1000両を献上する。『駿府記』同年月日条
慶長19年16141210京都町衆が徳川家康に鉛1000斤を献上する。『駿府記』同年月日条
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