人 物 史

今田経高 いまだ つねたか
生 没 年大永5年(1525)-慶長9年(1604)5/24
出 身-幼 名-
別 称孫四郎、山県経高
法 名-
戒 名-
吉川経世、山県光頼[養父]-
兄 弟 姉 妹市川経好、今田経高、吉川経久
配 偶 者山県光頼の娘
今田経忠、今田春信、今田春政、今田春佳、娘(市川市の妻)、娘(天野元嘉の妻)、娘(熊谷氏の妻)
官 位上野守、中務、上総介
役 職-
城 郭-
参 考 文 献今田経高に関する参考文献
関 連 デ ー タ-
今田経高 年表
大永5年 1525年 -月-日 1歳
今田経高が生まれる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 4歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 8歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文19年 1550年 9月27日 26歳
毛利元就吉川興経のもとに熊谷信直天野隆重を遣わし、興経・千法師父子を殺害する。
出典:-

天文21年 1552年 7月23日 28歳
毛利元就が祝甲斐守・祝治部大輔・久城修理亮が籠る祝城を攻める。吉川元春、平賀隆宗、宍戸隆家、熊谷信直、天野隆綱、香川光景、飯田義武が城攻めに参加する。吉川勢としてこの戦いに参加する。
出典:『陰徳太平記』巻21「祝城没落之事」

天文24年 1555年 10月1日 31歳
厳島(安芸国)に滞在中の陶晴賢毛利元就が急襲し、晴賢は自害する。この戦いに吉川元春勢として参加する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」、同巻28「陶全羨最後之事」

弘治1年 1555年 10月23日 31歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 34歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄6年 1563年 8月4日 39歳
毛利隆元が佐々部(安芸国)にて死去する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄8年 1565年 8月8日 41歳
杉原盛重今田経高二宮俊実、森脇市郎右衛門、山県四郎右衛門が蜂塚右衛門尉の籠る江美城(伯耆国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻39「伯州江美城没落之事」

永禄11年 1568年 11月5日 44歳
吉川元春小早川隆景が長野兵部太輔の籠る三ツ嶽城(豊前国)を攻め、同城を落とす。元春勢として城攻めに参加する。
出典:『陰徳記』巻42「豊前国三ツ嶽没落之事」

元亀1年 1570年 4月23日 46歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 6月14日 47歳
毛利元就が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

天正1年 1573年 7月28日 49歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正14年 1586年 11月15日 62歳
吉川元春が小倉(豊前国)にて死去する。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

文禄1年 1592年 12月8日 68歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 72歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 74歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 9月15日 76歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長8年 1603年 2月12日 79歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長9年 1604年 5月24日 80歳
今田経高が死去する。
出典:-

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