人 物 史

松平忠吉/忠康 まつだいら ただよし/ただやす
生 没 年天正8年(1580)9/10-慶長12年(1607)3/5
出 身遠江国浜松幼 名福松丸
別 称忠康
法 名-
戒 名広度院殿憲瑩玄伯大居士、性高院殿憲瑩玄白大居士
徳川家康西郷局
兄 弟 姉 妹松平信康、亀、松平秀康徳川秀忠松平忠吉、振、武田信吉、松平忠輝徳川義直徳川頼宣徳川頼房
配 偶 者政子(井伊直政の娘)
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官 位下野守、左近衛権中将、薩摩守
役 職-
城 郭忍城(武蔵国)、清須城(尾張国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ松平忠吉/忠康の関連文化財
松平忠吉/忠康の家臣
史料にみてる松平忠吉/忠康の呼称
松平忠吉/忠康 年表
天正8年 1580年 9月10日 1歳
松平忠吉が生まれる。
出典:-

天正10年 1582年 6月2日 3歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正12年 1584年 4月9日 5歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正14年 1586年 10月27日 7歳
徳川家康羽柴秀吉のもとを訪れ臣従の礼をする。金100枚、縮100端を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正18年 1590年 7月6日 11歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

文禄1年 1592年 12月8日 13歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 17歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 19歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 6月16日 21歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 7月2日 21歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月13日 21歳
徳川家康榊原康政上杉景勝攻めの先陣を命じ、江戸城(武蔵国)を発たせる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月19日 21歳
徳川秀忠上杉景勝攻めにつき江戸城(武蔵国)を発つ。先陣は榊原康政結城秀康松平忠吉、蒲生秀行、井伊直政本多忠勝松平忠明森忠政、仙石越前守、真田信幸小尾祐光小尾光重津金胤久、成田左衛門尉、石川玄蕃允、皆川広照、日根野徳次郎、多賀谷、山川民部、水谷左京が秀忠に供奉する。この日、宇都宮(下野国)に着陣する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻10「長政記」、『寛政重修諸家譜』巻第172「小尾祐光」の項、同「小尾光重」の項、同173「津金胤久」の項

慶長5年 1600年 7月21日 21歳
徳川家康上杉景勝攻めにつき江戸城(武蔵国)を発つ。鳩谷に宿泊する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月1日 21歳
徳川家康が東海道より上方に向け江戸城(武蔵国)を発つ。徳川秀忠が東山道より上方に向け江戸城を発つ。
秀忠勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利、石川康長、牧野貞成、神尾守世青木信安真田信幸仙石秀久、日根野吉重、森忠政折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重[大久保忠隣勢]、山寺信光、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
江戸城の留守居として松平康元を置く。
出典:『関原始末記』、『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」、同398「辻久吉」の項

慶長5年 1600年 9月2日 21歳
徳川家康が藤沢(相模国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月3日 21歳
徳川家康小田原城(相模国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月4日 21歳
徳川家康が三島(伊豆国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月5日 21歳
徳川家康が清見寺(駿河国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月6日 21歳
徳川家康が島田(遠江国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月7日 21歳
徳川家康が中泉(遠江国)に宿泊する。
出典:(慶長5年)9月7日付徳川家康書状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号73)、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月7日 21歳
徳川秀忠真田昌幸信繁父子の籠る上田城(信濃国)を攻めも、昌幸・信繁が秀忠勢を退ける。
徳川勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利神尾守世青木信安岩間正時折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重(大久保忠隣勢)、木内蕃正[本多正信勢]、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
出典:『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第3「松平忠利」の項、同59「酒井忠世」の項、同61「酒井忠利」の項、同61「酒井忠勝」の項、同65「酒井家次」の項、同126「森忠政」の項、同160「山高親重」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」の項、同964「岩間正時」の項、同巻第964「木内蕃正」の項、同1043「神尾守世」の項

慶長5年 1600年 9月8日 21歳
徳川家康が白須賀(遠江国)に宿泊する。加賀国、能登国、越中国の視察に赴いていた三枝守英が家康のもとに戻り、前田利長が家康方として二心が無い旨を報告する。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第1152「三枝守英」の項

慶長5年 1600年 9月9日 21歳
徳川家康岡崎城(三河国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月10日 21歳
徳川家康が熱田(尾張国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月11日 21歳
徳川家康清須城(尾張国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月12日 21歳
徳川家康清須城(尾張国)に逗留する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月13日 21歳
徳川家康清須城(尾張国)より岐阜城(美濃国)に移る。
出典:『関原始末記』、『細川忠興軍功記』

慶長5年 1600年 9月14日 21歳
徳川家康が赤坂(美濃国)に着陣する。岡山を本陣と定める。
京極高次の大津城(近江国)が落ちる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月15日 21歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長5年 1600年 11月18日 21歳
徳川秀忠松平忠吉が参内する。忠吉は後陽成天皇に太刀・馬代(銀100枚)を進上する。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』

慶長5年 1600年 11月28日 21歳
弟・義直大坂城(摂津国)西ノ丸にて生まれる。
出典:-

慶長6年 1601年 2月-日 22歳
徳川家康松平忠吉に清須(尾張国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 2月1日 23歳
舅・井伊直政が死去する。
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慶長7年 1602年 3月7日 23歳
弟・頼宣が山城国伏見城にて生まれる。
出典:-

慶長7年 1602年 3月18日 23歳
甚目寺座主職について金蓮院演照が松平忠吉に訴えるべく三宝院義演に添状の発給を請い義演が認める。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 24歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 7月28日 24歳
徳川秀忠の娘・千が豊臣秀頼のもとに入嫁する。千は伏見城(山城国)より船にて大坂城(摂津国)に向かう。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 8月10日 24歳
弟・頼房が生まれる。
出典:-

慶長8年 1603年 9月11日 24歳
弟・武田信吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月条

慶長8年 1603年 12月5日 24歳
徳川家康が、子・徳川五郎太郎に甲斐国を、子・徳川長福丸に水戸(常陸国)200000石を、子・松平忠輝に川中島(信濃国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長9年 1604年 5月12日 25歳
福島正則本願寺教如のもとを訪れる。教如は正則との会見後、上洛する松平忠吉を迎えるべく大津(近江国)に赴き、忠吉を迎える。教如はその日のうちに東本願寺に戻る。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長9年 1604年 7月13日 25歳
伏見(山城国)の松平忠吉邸に舟橋秀賢が訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 26歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長12年 1607年 3月5日 28歳
松平忠吉が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月14日条

慶長19年 1614年 7月14日 
徳川秀忠が父・家康に定家自筆『伊勢物語』を贈る。土井利勝が持参する。林羅山は家康に読み聞かせをする。この本は後土御門天皇の御物で、畠山義総三好長慶と伝わり、三好家没落後は堺(和泉国)にあったが、細川藤孝が入手し、松平忠吉が藤孝に所望して入手し、忠吉没後は秀忠に進上されたものとされている。
出典:『駿府記』同年月日条

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