人 物 史

松永久秀 まつなが ひさひで
生 没 年?-天正5年(1577)10/10
出 身-幼 名-
別 称-
法 名道意
戒 名妙久寺殿祐雪大居士
--
兄 弟 姉 妹松永久秀松永長頼
配 偶 者三好長慶の娘、小笠原成助の娘
松永久通、娘(伊勢貞良の妻)、松永永種[養子]
官 位弾正忠、山城守、弾正少弼
役 職室町幕府 相伴衆
城 郭滝山城(摂津国)、信貴山城(大和国)、多聞山城(大和国)
参 考 文 献松永久秀に関する参考文献
関 連 デ ー タ史料にみえる松永久秀の呼称
松永久秀の関連文化財
松永久秀 年表
- -年 -月-日 
松永久秀が生まれる。
出典:-

天文9年 1540年 6月17日 
三好利長(長慶)が西宮神社に千句田2段を連歌田として新たに寄進することを伝える奉書を発給する。署名は松永久秀
出典:(天文9年)6月17日付三好長慶奉行人奉書(『戦国遺文』三好氏編第1巻-136号「岡本文書」)

天文12年 1543年 1月8日 
子・久通が生まれる。
出典:-

天文20年 1551年 2月7日 
志賀(近江国)にて松永長頼松永久秀六角義賢が戦い、義賢が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「進士九郎賢光ノ事」

天文20年 1551年 2月16日 
山科言継が上洛をした三好長慶松永久秀のもとに大沢掃部を遣わす。東寺にいた久秀は、大沢掃部とともに吉祥院(山城国)を居所としていた長慶のもとに赴くが留守であったため大沢掃部と別れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月7日 
伊勢貞孝が吉祥院(山城国)にいる三好長慶のもとを訪れる。長慶の居所に小童が忍び入り焼き討ちを企てるが捕える。長慶は東寺松永久秀陣所に移る。
出典:『言継卿記』同年月8日条

天文20年 1551年 3月14日 
三好長慶伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝邸で長慶と貞孝が将棋をさす。その後、乱舞が行われる。夕方、奉公衆・進士賢光が長慶に斬りかかり傷を負わせる。負傷した長慶は山崎(山城国)に移る。
宇津(丹波国)より香西元成・柳本・宇津・三好政勝の軍勢が京都に入り伊勢貞孝邸を焼き討ちする。同軍勢は西賀茂・正伝寺(山城国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月14・15日条

天文20年 1551年 3月26日 
山崎(山城国)にいる三好長慶のもとに山科言継の使者・大澤掃部が訪れるが逢えず。掃部には松永久秀、鳥養兵部が応対する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 7月14日 
細川晴元の命により三好政勝香西元成、柳本、山本、山中、織田左近大夫、十河左介、岸和田が軍勢3000で等持寺に打ち入り、相国寺に立て籠る。そこに、松永久秀松永長頼が率いる摂津・河内・大和の軍勢40000が攻め寄せ、両勢交戦の末、松永勢が勝利する。松永勢は相国寺を放火する。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『足利季世記』巻5「大内殿生害之事並家伝之事」

天文21年 1552年 1月28日 
足利義藤が比叡辻の宝泉寺より、未下刻(14:00頃)、入洛する。伊勢貞孝被官の蜷川弥三郎・堤三郎兵衛を先頭に三宝院、奉公衆、同朋衆、大舘晴光上野信孝、大舘晴忠、朽木稙綱、細川中務大輔、伊勢貞孝、縁阿弥、高倉永家、慶寿院(義輝正室)、遊佐勘解由左衛門、近衛稙家、大覚寺義俊が付き従う。細川聡明丸も上洛する。
義藤、聡明丸の上洛につき、三好長慶が麾下の国衆を辻固めに動員し、三好長逸松永久秀を遣わして逢坂にて出迎える。
六角義賢の軍勢に守られた聡明丸が、戌刻(19-21時)に東寺に到着する。三好千熊丸が聡明丸を出迎える。
細川晴元足利義藤の帰洛に随行せず若狭に向かうため堅田から葛川に向かったとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方三好和談之事」

天文22年 1553年 3月10日 
細川晴元の牢人衆が畑(丹波国)にて蜂起する。この討伐のため、三好長慶松永久秀を遣わす。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文23年 1554年 1月28日 
松永久秀今井宗久の武野紹鴎の茶室 大黒庵にて行われた紹鴎の茶会に参会する。
出典:『今井宗久茶湯書抜』同年月日条

天文23年 1554年 4月12日 
松永久秀が丹波国桑田郡に侵攻する。久秀と三好政勝と戦い、久秀が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「丹州播州エ三好勢遣之事」

天文23年 1554年 7月11日 
本願寺証如松永久秀に瓶鮨5を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文23年 1554年 7月18日 
本願寺証如松永久秀に音信として絞20具を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文23年 1554年 7月18日 
本願寺証如松永久秀に音信として絞20具(浅黄入り)を遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

弘治2年 1556年 1月1日 
芥川山城(摂津国)にて火災があり、三好慶興松永久秀の陣所が焼ける。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永禄1年 1558年 5月19日 
三好長慶の軍勢(三好長逸松永久秀松永長頼、伊勢十郎、粟津修理亮)が鳥羽(山城国)・九条(山城国)辺より京都内の大宮を北へ、御霊口サイの神の前(御霊社脇)を南へ、大原辻に出て、富小路の東・京極を南へ行き打ち廻り、鳥羽に帰陣する。軍勢は10000とも15000とも。
出典:『言継卿記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月7日 
三好長慶坂本(近江国)より京都をうかがう足利義輝に備えるため、三好長逸池田長正伊丹親興松永久秀松永法雲軒率いる15000の兵を河原に出撃させる。
足利義輝細川晴元が軍勢15000をもって如意嶽に攻め入り矢合わせをする。勝軍地蔵城(山城国)に布陣していた三好長慶勢の伊勢貞孝寺町通昭・松山重治・岩成友通の2000余りの兵は、城を放火し、東寺・吉祥寺・報恩寺四条道場・等持寺・唱門土村あたりまで撤退する。三好勢の撤退により、義輝は勝軍山城に入城する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月8日 
足利義輝の軍勢が北白川の古城・勝軍地蔵に布陣する。対する三好長慶は、5000の軍勢を吉田山に布陣させ、残りの軍勢で如意嶽を攻撃し、足利勢を破る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月9日 
三好長逸松永久秀松永長頼等の摂津国衆・丹波国衆が如意嶽を攻める。如意嶽に置いた足利義輝の軍勢が悉く撤退する。三好勢は神楽岡(山城国)より四条・七条・八条・九条に引き上げるところ、義輝が勝軍地蔵城(山城国)に300の兵で出張し、三好長慶勢の布陣する河原に打って出るも敗れて白川口に逃れる。奉公衆の松任修理・本郷新九郎・本郷三郎・山名又五郎・久世兵部少輔・松田二郎左衛門ら70余名が討死する。
久秀が勝軍地蔵城を攻め、六角義賢の軍勢と戦う。
出典:(永禄1年6月14日付細川晴元書状(『戦国遺文三好氏編』第1巻-518号「後鑑所収古文書」)、『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」

永禄1年 1558年 閏6月24日 
松永久秀が禁裏に樽を進上する。
出典:『言継卿記』同年月25日条

永禄1年 1558年 9月9日 
北向道陳、今井宗久、石川宗二が松永久秀が催した茶会に参会する。
出典:『今井宗久茶湯書抜』同年月日条

永禄1年 1558年 9月17日 
吉祥院の陣所にいた松永久秀山科言継が礼をする。
出典:『言継卿記』同年月25日条

永禄2年 1559年 8月8日 
松永久秀が大和国に入部する。
出典:『多聞院日記』天正5年10月9日条

永禄3年 1560年 1月16日 
三好長慶松永久秀淀城(山城国)より上洛する。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 2月4日 
足利義輝が参内する。三好長慶が供奉し、修理大夫に任官される。三好義興が筑前守に、松永久秀が弾正少弼に任官される。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 4月8日 
洲本(淡路国)にて、不和となっていた三好長慶三好之虎が会見する。之虎は出家し物外軒実休と号す。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 7月24日 
松永久秀畠山高政方の井戸若狭守が籠る井戸城(大和国)を攻める。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 8月-日 
井戸若狭守が松永久秀に降伏し井戸城(大和国)を明け渡す。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 11月13日 
畠山高政方の万歳大和守が降伏し万歳城(大和国)を松永久秀に明け渡す。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 11月18日 
畠山高政方の長谷の桜坊が降伏し城を松永久秀に明け渡す。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 11月24日 
畠山高政方の澤・日の牧城が松永久秀に降伏する。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 -月-日 
松永久秀信貴山城(大和国)を居城とする。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄4年 1561年 2月1日 
三好義興松永久秀が幕府に出仕する。足利義輝が義興、久秀に御紋を賜う。
出典:『三好亭御成記』(『続群書類従』第23輯下)

永禄4年 1561年 3月18日 
十河一存が死去する。
出典:-

永禄4年 1561年 3月30日 
未刻(13-15時)、足利義輝三好義興邸を訪れる。安威藤備安東泰職石谷光政小林藤宗進士藤延が義輝騎乗の馬を曳く。寺町通昭和久是徳が進物奉行を、三好長逸が惣奉行をつとめる。 義輝には、義興が太刀1腰・鎧1領・弓・征矢・馬1疋を、細川氏綱三好長慶松永久秀・長逸・三好宗渭三好長虎・三好帯刀左衛門尉、池田勝正、多羅尾綱知がそれぞれ太刀1腰を進上する。
出典:『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』(『群書類従』)、三好義興等進献物注文(『蜷川家文書』3-747号)

永禄4年 1561年 -月-日 
畠山高政根来寺衆・紀伊国衆が岸和田(和泉国)に出陣し、安見宗房遊佐信教もそれに応じるとの報をうけ、高屋城(河内国)に在番していた三好実休が大将として安宅冬康三好康長三好政勝・三好盛政・吉成勘助・篠原長房の軍勢7000を率い畠山勢と対陣する。
出典:『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄4年 1561年 -月-日 
勝軍地蔵城(山城国)に入った永原安芸守率いる六角勢10000に対処すべく京都の三好勢の総大将として三好義興が梅津(山城国)に在陣する。松永久秀が西院(山城国)に在陣する。
出典:『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄4年 1561年 11月24日 
三好義興松永久秀が勝軍地蔵城(山城国)に攻め寄せ六角義賢と交戦する。三好勢は城を落とすことができずに撤退する。この戦いで、六角方は永原安芸守が、三好方は三郷主膳助が戦死する。
出典:『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄4年 1561年 -月-日 
六角義賢が布陣する神楽岡(山城国)に攻め寄せた松永久秀を破る。撤退する久秀を追撃しようとするが蒲生定秀に制止され追撃をやめる。
出典:『足利季世記』巻5「神楽岡合戦並当流弓ノ根本之事」

永禄5年 1562年 3月5日 
久米田(河内国)にて畠山高政安見宗房遊佐信教根来寺衆と三好実休が戦い、実休が戦死する。実休の辞世「草からす 霜又今朝ノ 日に消て 報の程は 終にのかれず」。
この戦いにより高屋城(河内国)が落ちるとともに、三好長慶の居城・飯盛山城を除く河内国の三好方の諸城が畠山高政方に靡く。
出典:『厳助往年記』同年月6日条、『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 3月6日 
三好実休が戦死したため、安宅冬康は在番していた岸和田城(和泉国)を放棄する。同城は畠山高政の支配下となる。
足利義輝が慶寿院とともに八幡(山城国)に移る。
六角義賢が勝軍地蔵城(山城国)から清水坂に陣を移す。
三好長慶山崎(山城国)に撤退する。
出典:『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 5月24日 
三好義興安宅冬康松永久秀三好長逸三好長虎、三好盛政、三好政勝率いる軍勢8000が教興寺(河内国)に出陣する。
出典:『足利季世記』巻6「教興寺合戦之事」

永禄5年 1562年 9月11日 
北山(山城国)にて伊勢貞孝松永久秀が戦い、貞孝が戦死する。伊勢方は本郷判官、有馬源二郎、結城将監等が戦死する。
出典:『永禄以来年代記』(『続群書類従』第29輯下)

永禄6年 1563年 1月27日 
松永久秀多武峰へ攻め入るも敗れて壺坂まで撤退する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永禄6年 1563年 3月1日 
細川晴元が普門寺(摂津国)にて死去する。
出典:『足利季世記』巻6「晴元逝去之事」

永禄6年 1563年 8月25日 
三好義興が黄疽という病により芥川山城(摂津国)にて死去する。義興の死により三好義継三好長慶の後継となる。
出典:『足利季世記』巻6「晴元逝去之事」

永禄6年 1563年 11月4日 
宗達、今井宗久、宗可が松永久秀が催した茶会に参会する。
出典:『今井宗久茶湯書抜』同年月日条

永禄6年 1563年 12月14日 
松永久秀が家督を子・久通に譲る。
出典:『厳助往年記』同年月21日条

永禄7年 1564年 5月9日 
三好長慶飯盛山城(河内国)にて弟・安宅冬康を呼び出し、冬康を自害させる。
出典:『言継卿記』永禄同年月10日条、『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

永禄7年 1564年 7月24日 
三好長慶が死去する。養子・義継が幼齢であるとして長慶の死は秘匿される。
出典:『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

永禄8年 1565年 5月5日 
朝廷の使者として勧修寺晴秀が訪れたので饗応する。その場に、三好義継松永久通が訪れる。
出典:『晴右記』『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 5月19日 
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 5月21日 
三好長逸が禁裏にお見舞いとして赴く。足利義輝殺害を朝廷に説明する。
出典:『晴右記』『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 8月2日 
内藤宗勝(松永長頼)赤井直正の籠る黒井城(丹波国)を攻めるも、戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月3日条

永禄8年 1565年 8月8日 
山科言継が率分関の件につき松永久秀久通父子のいる南都に使者を遣わす。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 11月16日 
夕方、三好長逸三好宗渭岩成友通飯盛山城(河内国)を攻め、長勝軒、金山駿河守を討ち取る。三好義継松永久秀と手切れするよう訴える。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄8年 1565年 12月14日 
松永久秀久通父子が、古市播磨守に筒井順慶が攻め寄せた場合は応戦するようにと連署状にて伝える。
出典:(永禄8年)12月14日付松永久通・久秀連署状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1217号「日本学士院所蔵文書」)

永禄8年 1565年 12月21日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が河内国より乾、脇に軍勢3000余りをもって攻め入る。松永久秀が長逸らに応戦するため多聞山城(大和国)より軍勢を出す。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄8年 1565年 12月23日 
歳末の礼として多聞院英俊が松永久秀に200文を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄8年 1565年 12月28日 
松永久秀多聞山城(大和国)より西京に兵を出す。少々損害を出す。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 1月8日 
多聞院英俊が松永久秀に20疋(200文)、松永久通に20疋(200文)を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 2月4日 
松永久秀多聞山城(大和国)より出陣し筒井勢を攻め、20人余を討ち取る。美野荘に軍勢を残し、久秀は多聞山城に帰城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 2月6日 
夜、松永久秀が筒井平城(大和国)に兵糧を入れるべく出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 2月10日 
松永久通が大将として南へ出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 2月17日 
上芝の合戦で三好義継三好長逸三好宗渭岩成友通、筒井順興と松永久秀畠山高政安見宗房が戦い、三好三人衆勢が勝利する。敗れた高政、安見宗房に逃れる。
出典:『多聞院日記』同年月日・19日条、『言継卿記』同年月18日条

永禄9年 1566年 2月24日 
松永久通が筒井平城(大和国)に総勢を率い兵糧を入れようとしたところ合戦あり戦死者を少々出す。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 2月29日 
松永久通が筒井平城(大和国)に出陣し城内の軍勢を入れ替える。午刻(11-13時)過ぎに多聞山城(大和国)に帰城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 3月17日 
松永久秀が筒井平氏城(大和国)に兵糧を入れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 4月11日 
三好長逸三好宗渭岩成友通、筒井順興が軍勢6000-7000で奈良(大和国)近辺の五本松まで攻め入る。松永久秀多聞山城(大和国)に籠城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 4月21日 
矢島(近江国)にて一乗院覚慶が還俗し足利義秋と名乗る。左馬頭に任じられる。朝廷へは伝奏を経ず吉田兼右を通じて報告をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 4月23日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が陣払いをする。筒井平城(大和国)を攻めるため大安寺南辺に引く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 5月16日 
多聞院英俊が松永久秀にワリ木1荷(18文)を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 5月18日 
松永久秀が大和国より河内国へ出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 5月19日 
大和国より河内国へ出陣したとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 5月24日 
松永久秀が河内国に向かったのを受け、筒井平城(大和国)を攻めていた三好長逸三好宗渭岩成友通が城攻め用の小屋を破却し河内国に向かう。
久秀は河内国で敗北し軍勢を多く失う。
出典:『多聞院日記』同年月日・25日条、『言継卿記』同年月日阿城

永禄9年 1566年 5月30日 
にいた松永久秀三好長逸三好宗渭岩成友通が攻める。久秀は逃亡する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 6月1日 
大安寺南大門前にて多聞山城(大和国)の城兵が郡山衆と戦う。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 6月8日 
筒井平城(大和国)に在番していた多羅尾源太、尾張国衆、ヨコ田ヲアイ新衛門が降伏し、筒井六郎が入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 6月11日 
足利義栄の先陣として、篠原長房率いる軍勢25000が兵庫(摂津)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 6月23日 
篠原長房越水城(摂津国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 6月24日 
未刻(13-15時)、真観寺(河内国)にて三好長慶の葬儀を三好義継三好長逸が執り行う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条・同年月26日条、『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

永禄9年 1566年 7月13日 
篠原長房越水城(摂津国)を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 7月28日 
多聞院英俊が八朔の音信として松永久秀に200文を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 閏8月9日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢1000余を片岡(大和国)に入れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 9月23日 
足利義栄越水城(摂津国)に入城する。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 9月25日 
筒井藤政が軍勢5000を率い多聞山城(大和国)を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 2月16日 
三好義継にて宿所を替える。河内国にて義継が松永久秀と同心したと噂される。
出典:『多聞院日記』同年月18日条

永禄10年 1567年 2月28日 
三好義継三好長逸岩成友通三好宗渭が「悪逆無道」を構え、「大忠」の松永久秀を討たんとしていることにるいて、久秀に味方することを宣言するとともに、味方してくれた椿井政定、古市播磨守に謝意を示す。
出典:(永禄10年)2月28日付三好義継書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1322号「小林氏所蔵文書」、同1323号「宮坂氏所蔵文書」)

永禄10年 1567年 4月6日 
三好義継松永久秀より信貴山城(大和国)に入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『足利季世記』巻6「大仏殿焼亡之事」、『陰徳太平記』巻41「三好義誥与松永一味付東大寺炎焼之事」

永禄10年 1567年 4月12日 
三好義継多聞山城(大和国)に入城する。
出典:『陰徳太平記』巻41「三好義誥与松永一味付東大寺炎焼之事」

永禄10年 1567年 4月7日 
松永久秀多聞山城(大和国)より出陣し近辺を放火する。
出典:『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 4月11日 
松永久秀多聞山城(大和国)に入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 4月17日 
松永久秀が山城国に軍勢を出し、所々を放火した後、多聞山城(大和国)に入城する。
出典:『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 4月18日 
三好長逸岩成友通三好宗渭が軍勢10000を率い奈良(大和国)に陣取る。松永久秀の在城する多聞山城(大和国)に攻め寄せる。三人衆の勢は、古市、鹿野薗を放火し白毫寺辺りに野陣する。三好義継、久秀・久通父子は大力、辛碓、東大寺南大門に布陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 4月24日 
三好長逸岩成友通三好宗渭筒井順慶が奈良(大和国)に攻め入りそんき寺から大乗院山に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 4月25日 
松永久秀興福寺に同寺を破却する旨を通達する。
出典:『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 -月-日 
岩成友通がそんき寺を城にする。
出典:『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 5月2日 
筒井順慶の手引きにて岩成友通の率いる軍勢10000が東大寺大仏殿、念仏堂、二月堂、知足院に陣取る。
松永久秀東大寺戒壇院に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 5月15日 
篠原長房池田勝正松永久秀を攻めるべく大和国に向けて出陣する。
三好宗渭、高畠が東大寺二月堂・同大仏殿に陣取る。それに備えるため三好義継、久秀・久通父子が多聞山城(大和国)、興福寺東大寺戒壇院(以上、大和国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 5月17日 
池田勝正が西方寺(大和国)に、三好宗渭が天満山より西ノ坂に、岩成友通が念仏堂より氷室山法雲院の後ろの畠に、筒井順慶が大乗院山に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 5月18日 
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が東山より多聞山城(大和国)に攻め入るも松永久秀が退ける。久秀は三好三人衆の軍勢に陣取りをさせないようにするため般若寺、文殊堂、仏餉屋、妙光院、観音院、松井安芸宿所、西院郷、北水門、南水門を焼く。またこの放火の際に放った火が東大寺戒壇院の授戒堂に飛び火する。
夜、久秀が宿院城(大和国)に夜襲をかけ、池田勝正勢が損害を出し最福院に逃れる。最福院は破却される。
出典:『多聞院日記』同年月日・19日条

永禄10年 1567年 5月23日 
朝、池田勝正がマメ山に陣を移す。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 5月24日 
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が法輪院に入る。これを受け、松永久秀が宝徳院、妙音院、徳蔵院、金蔵院に火矢を放ち放火する。
夜前、久秀が無量寿院を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 6月4日 
夜、筒井順慶興福寺寺中に火矢を放つ
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄10年 1567年 6月5日 
筒井順慶が龍華院方発心院、中蔵院、千手院、大聖院、安養院、谷坊、慈明院に陣取る。千手院の上に城を築くという。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 7月13日 
寅刻から卯半刻(3-6時)まで松永久秀が今御門、餅飯殿、橋本、角振、小西を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 7月23日 
東大寺にて三好長逸三好宗渭岩成友通松永久秀が戦う。この合戦により東大寺戒壇院、千手院が焼失する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月25日条

永禄10年 1567年 7月27日 
松永久秀合力として柳本弾正忠・波多野・赤井ら兵4000が丹波より西岡(京都)に侵攻し西岡衆と戦う。萬石・下山田を焼く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 8月2日 
松永久秀が大黒ノ尾に攻め入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 8月2頃日 
松永久秀合力として根来寺衆8000が和泉国に侵攻する。また、大和国の井戸、郡山(大和国)の辰巳も久秀に加勢する。
出典:『言継卿記』同年月5日条

永禄10年 1567年 8月16日 
午刻(11-13時)、松永久秀方の松浦、松永彦十郎が三好長逸三好宗渭岩成友通方に寝返る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月25日条

永禄10年 1567年 8月21日 
池田勝正と超昇寺が戦う。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 8月22日 
佐久間信盛が柳生宗厳に奈良油煙を贈ってもらったことへの感謝を示すとともに織田信長上洛につき、松永久秀と相談し、準備が整い次第、南都に織田勢を遣わすことを伝える。
出典:永禄10年8月22日付佐久間信盛書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1364号「柳生文書」)

永禄10年 1567年 8月23日 
飯盛山城(河内国)の松山安芸守が、三好長逸三好宗渭岩成友通方から松永久秀に寝返り、河内国の各所を焼く。
出典:『言継卿記』同年月25日条

永禄10年 1567年 8月26日 
岩成友通、中村為三の軍勢が河内国に向かう。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 8月27日 
紅屋宗陽、松永久秀今井宗久の茶会に参会する。
出典:『今井宗久茶湯書抜』同年月日条

永禄10年 1567年 9月5日 
三好長逸三好宗渭岩成友通篠原長房飯盛山城(河内国)に降伏するよう交渉する。
出典:『多聞院日記』同年月6日条

永禄10年 1567年 9月6日 
飯盛山城(河内国)が三好長逸三好宗渭岩成友通篠原長房に降伏すると報告がある。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 9月22日 
田原の坂上氏が松永久通に寝返る。
松永久秀飯盛山城(河内国)に軍勢500を入れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 10月10日 
松永久秀三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が陣取る東大寺大仏殿に、子刻初点(11時)夜襲をしかけ三好勢を破る。三好三人衆の軍勢が鑓中村ほか200-300人討死する。この戦いにより穀屋より出た火が法華堂、大仏殿の廻廊に移り、丑刻(1-3時)に大仏殿が炎上する。大仏殿のほか、念仏堂、唐禅院、四聖坊、安楽坊、深井坊が焼失する。
氷室山に陣取っていた別所勢と郡山の辰巳勢は陣所を自ら焼き払う。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月11日条

永禄10年 1567年 10月12日 
多聞山城(大和国)の松永家の城兵が新造屋、瓦の屋に押し入り道具・聖教等を奪う。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 10月21日 
飯盛山城(河内国)に籠城していた松山安芸守と山口がに逃亡する。同城は三好長逸篠原長房が請け取り入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 10月26日 
池田勝正が軍勢を少し奈良(大和国)に残し、摂津国に撤収する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 11月2日 
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢と松永久秀の軍勢が春日社大鳥居にて戦う。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 11月27日 
松永久秀久通父子が連署で春日社に春日社山内諸屋での乱妨・強盗、剥ぎ取り、田畠への侵入、神鹿殺害、木材伐採を禁じる禁制を発給する。
春日社防御の制札発給につき多聞院英俊が20疋を久秀に贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 12月2日 
興福寺近衛前久を介し寺内における松永勢の陣取りを止めるよう松永久秀に依頼するも久秀は拒否する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 1月1日 
津田城が三好長逸三好宗渭岩成友通方から松永久秀方に寝返る。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄11年 1568年 1月2日 
三好千鶴に着陣する。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄11年 1568年 1月7日 
三好義継多聞山城(大和国)から津田城へ移る。
出典:『足利季世記』巻6「松山安芸守カ事」

永禄11年 1568年 1月17日 
西之城(大和国)の番替えとして三好長逸勢と池田勝正勢が入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 2月8日 
足利義栄の将軍宣下が行われる。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 3月21日 
西陣へ番替えとして高屋衆(三好備中守、大嶋助兵衛、遊佐安芸守、加地六郎兵衛)、三鬼鎰助、カイノ庄助丞、木村宗也ら1500が着陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 3月25日 
三好義継が伴田に移る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 4月2日 
東大寺大仏殿再興について清玉が申し出たこと称える書状を松永久秀が清玉に発給する。
出典:(永禄11年)4月2日付松永久秀書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1398号「阿弥陀時文書」)

永禄11年 1568年 5月19日 
篠原長房三好宗渭が津田城より山城国を打ち回る。その後、西京に陣取り、奈良(大和国)には入らず。
長房が西京(大和国)あたりに陣取ることを聞いた筒井順慶が寺中へ陣取らないようにと長房に要請する。
出典:(永禄11年)5月19日付筒井順慶書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1409号「薬師寺文書」)、『多聞院日記』同年月22日条

永禄11年 1568年 5月29日 
篠原長房三好宗渭が軍勢を奈良(大和国)に少し残し河内国に撤退する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 6月29日 
三好康長信貴山城(大和国)を攻め落とす。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 7月16日 
マメ山に布陣していた中村為三と筒井順慶勢が入れ替わる。篠原勘介が在番する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 7月25日 
織田信長足利義昭を立政寺(美濃国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻7「信長出張之事」、『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 7月27日 
立政寺(美濃国)にて織田信長足利義昭に謁す。
出典:『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 8月18日 
松永久秀方の富野城(山城国)が宇治田原の衛門兵衛に攻め落とされる。富野城(山城国)の落城を聴いた多聞院英俊は、久秀がいよいよ滅亡するのではと評す。
出典:『多聞院日記』同年月21日条

永禄11年 1568年 9月2日 
三好康長が西京(大和国)に布陣する。興福寺からの訴えにより奈良には布陣せず。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月3日 
三好康長多聞山城(大和国)の西北に攻め寄せる。奈良宿を放火する。筒井順慶が多聞山城(大和国)の東に攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月4日 
河内国の三好勢が東大寺辺りに攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月5日 
河内国の三好勢が帰陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月12日 
織田信長佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀、浅井新八に命じ箕作山城(近江国)を攻めさせ、夜、落とす。城攻めに松平信一、服部正成、明智光秀徳山則秀浅野長政細川藤孝松井康之蜂須賀正勝丹羽氏勝が参加する。
同夜、観音寺城(近江国)が自焼する。長光寺城(近江国)ほか11、12の城を落とす。
出典:『言継卿記』同年月13日条、『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『綿考輯録』巻1、『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

永禄11年 1568年 9月13日 
足利義昭の上洛が整ったと諸方より多聞山城(大和国)に報告が入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月13日 
三好宗渭、香西の率いる軍勢3000が木津平城に入る。
出典:『多聞院日記』同年月14日条

永禄11年 1568年 9月14日 
織田信長勢が六角承禎の居城を落とする。六角家家臣の後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里が信長に降伏する。
織田信長が15日に上洛すると京都で噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月16日 
三好宗渭、香西の率いる軍勢3000が木津平城(山城国)を退き西京(大和国)に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月19日 
近江国おける六角承禎織田信長の戦いが、信長の勝利と大和国にて噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月24日 
織田信長大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月25日 
織田信長清水寺に入る。足利義昭大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月26日 
織田信長が山科郷(山城国)の南を通り東寺に布陣する。また信長は北白川を経由し軍勢を入京させる。足利義昭清水寺に移す。
久我にて織田信長三好長逸が戦う。
信長が勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通を攻める。
酉刻(17-19時)、マメ山に布陣する筒井順慶、三好新丞が撤退する。
松永久秀が奈良中における乱妨狼藉を停止する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月27日 
織田信長足利義昭清水寺から東寺に移し、さらに西岡(山城国)まで移す。
信長勢が西岡の所々・吉祥院・淀・鳥羽(以上、山城国)・樟葉(河内国)を放火する。義昭を西岡寺土の寂勝院に布陣させる。織田勢を山崎(山城国)から天神之馬場までに展開する。
勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通と和睦交渉を進める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月28日 
織田信長三好長逸勢が拠る山崎(山城国)を攻め落とす。西岡(山城国)あたりを放火する。
足利義昭が山崎の竹内左兵衛邸に移る。織田勢の先陣が芥川市場を放火する。(『言』)
織田信長より柴田勝家蜂屋頼隆森可成坂井政尚が三好攻めの先陣を命じられ、桂川を渡り岩成友通の籠城する勝龍寺城(山城国)を攻める。(『信』)
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻1(4)「信長御上洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」

永禄11年 1568年 9月29日 
足利義昭が天神馬場(摂津国)に移る。織田信長芥川山城(摂津国)の麓を攻める。また織田勢が河内国の各所を放火する。夕方、三好長逸が芥川山城を、岩成友通勝龍寺城(山城国)を信長に明け渡す。
出典:『言継卿記』同年月日・30日条

永禄11年 1568年 9月30日 
足利義昭芥川山城(摂津国)に入城する。
織田信長が郡山道場、富田寺外を落とす。富田寺内とは和睦する。池田城(摂津国)を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月2日 
足利義昭織田信長芥川山城(摂津国)に陣取る。三好長逸池田勝正が義昭・信長に降伏する。
松永久秀が義昭のもとへ礼に赴くため八幡山(山城国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月3日 
竹内季治、畠山昭高畠山高政松永久秀池田勝正、入江が足利義昭織田信長のいる芥川山城(摂津国)にやってきて降伏を受け入れてくれたことの礼をする。
出典:『言継卿記』同年月4日条

永禄11年 1568年 10月4日 
松永久秀足利義昭織田信長に礼をする。信長は大和国の進退を久秀に委ねる。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄11年 1568年 10月-日 
松永久秀足利義昭織田信長に降伏した際、信長に九十九髪茄子(茶入)を進上する。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長御上洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」

永禄11年 1568年 10月5日 
郡山向井が松永久秀に帰参する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月6日 
松永久通が筒井郷(大和国)に攻め寄せ、筒井順慶が籠る筒井平城(大和国)の際まで焼き討ちにする。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月8日 
三好義継の入った飯盛山城(河内国)に久秀も入る。
夕方、筒井順慶が筒井平城(大和国)を放棄する。
出典:『多聞院日記』同年月9日条

永禄11年 1568年 10月10日 
足利義昭織田信長松永久秀への合力として細川藤孝和田惟政佐久間信盛率いる軍勢20000を遣わす。同軍勢は西京の唐招提寺あたりに入る。これを受け、窪城が開城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月11日 
諸勢(松永久秀細川藤孝和田惟政佐久間信盛の軍勢カ)が井手(大和国)に攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月12日 
諸勢(松永久秀細川藤孝和田惟政佐久間信盛の軍勢カ)が柳本(大和国)に攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月15日 
松永久秀が豊田城(大和国)を攻め落とす。(『多』)
村上武吉に三好長逸三好宗渭岩成友通が悪逆無道を構え「都鄙乱世」にしているので急ぎ討ち果たすこと、武吉が児島(備前)に松永方に味方するよう命じてくれたことを謝す書状を送る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、(永禄11年)10月15日付松永久秀書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1428号「屋代島村上文書」)

永禄11年 1568年 10月20日 
松永久秀細川藤孝和田惟政佐久間信盛が布施(大和国)に軍勢を遣わし放火する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月21日 
国衆が開陣し佐久間信盛のみが大和国の残る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 11月13日 
多聞院英俊、禅識房が松永久秀のもとを礼に訪れ、20疋を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 12月24日 
松永久秀が、岐阜城(美濃国)にいる織田信長のもとへ礼に赴くべく、大和国を出立する。不動国ほか名物を数多持参する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 12月28日 
松永久秀方の池田丹後、寺町の軍勢100が籠る家原城(和泉国)を三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が攻撃し落とす。池田丹後、寺町は討死する。三好勢の十河嶋介、松浦、篠原玄蕃の討死が噂される。
出典:『多聞院日記』永禄12年1月5日条

永禄12年 1569年 1月1日 
三好康長三好宗渭三好長逸斎藤龍興が家原城(和泉国)を攻める。
出典:『当代記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月10日 
三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭を襲撃したとの報を受け、救援に駆けつけた織田信長が、この日、入洛する。救援の軍勢に松永久秀等が加わる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 3月3日 
夕方、松永久秀が京都より多聞山城(大和国)に帰る。
出典:『多聞院日記』同年月日・4日・7日条

永禄12年 1569年 3月8日 
布施氏、越智氏を対治するため、三好義継松永久秀畠山高政が摂津国・河内国・和泉国の諸勢を率い片岡(大和国)を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 4月16日 
三好義継松永久秀久通父子、畠山高政が攻めていた片岡城(大和国)が降伏する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 4月18日 
松永久秀久通父子が万歳(大和国)に攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 5月10日 
松永久秀久通父子が貝吹城を攻める。柳本、織田左近名代ウタノ介が戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 5月18日 
松永久秀久通父子が井戸(大和国)に陣替えする。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 5月23日 
多聞院英俊が井戸(大和国)の陣所にいる松永久秀のもとに見舞いに訪れ20疋を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 閏5月7日 
夜、井戸氏が松永久秀の陣所に夜襲をかけ、松永勢が損害を少し出す。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 7月22日 
松永久秀が山中小大夫を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月24日条

永禄12年 1569年 7月23日 
松永久秀が山中小大夫の城を開城させる。その後、深川に軍勢を遣わす。
出典:『多聞院日記』同年月24日条

永禄12年 1569年 8月7日 
松永久秀が布施氏を攻める。
出典:『多聞院日記』同年9月7日条

永禄12年 1569年 9月4日 
松永久秀が井戸(大和国)に帰陣する。
出典:『多聞院日記』同年9月7日条

永禄12年 1569年 10月29日 
松永久秀が法蓮郷に市を立てるように命じる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 11月4日 
松永久秀が北里に市を立てるように命じる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 12月25日 
井戸に在陣中の松永久秀のもとに多聞院英俊が歳暮の礼に訪れ、20疋を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 1月6日 
興福寺衆が井戸(大和国)に在陣中の松永久秀のもとに礼に訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 1月14日 
多聞院英俊が井戸(大和国)に在陣中の松永久秀久通父子のもとに礼に訪れ、父子に10疋を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 1月30日 
松永久秀が母の追善のためとして2月4日よりにて千部経法会を執行すると噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月12日 
松永久秀が母の追善のためとして2月15日よりにて千部経法会を執行すると噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月19日 
松永久秀が多聞院英俊に礼にくるようにと促し、英俊が久秀のもとに礼に訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月16日 
三好義長松永久秀大友宗麟の使僧、太田垣氏の使者、宇喜多直家の使者、和泉国衆、河内国衆の20人程が織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月27日 
夜、松永久秀が井戸城(大和国)を落とす。
出典:『多聞院日記』同年月28日条

永禄13年 1570年 4月1日 
松永久秀が井戸(大和国)にて陣払いがなされる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月10日 
松永久秀が井戸城(大和国)を破却する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月14日 
足利義昭が御所竣工につき能を催す。織田信長徳川家康松永久秀三好義継が参会する。義昭は織田信長の位階をあげることを勧めるが信長は拒否する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月20日 
織田信長朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。武井夕庵松永久秀池田勝正(軍勢3000)が従軍する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月21日 
織田信長が田中城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月22日 
織田信長が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月23日 
織田信長が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月25日 
織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項

元亀1年 1570年 4月26日 
金ヶ崎城(越前国)に籠城していた朝倉景恒織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 4月29日 
織田信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月30日 
越前国侵攻中の織田信長が、浅井長政の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。松永久秀等が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月3日 
山科言継、松木、三条新少将、白川侍従、局務が織田信長のもとに赴く。取次は林秀貞
その後、言継等は徳川家康畠山高政松永久秀のもとに赴く。
次いで三好義継のもとに赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月10日 
織田信長が軍勢20000を率い、京都(山城国)を発ち、近江国へ出陣する。三好義継松永久秀等が信長を見送る。信長は志賀(近江国)の城に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月13日 
松永久秀多聞山城(大和国)に帰城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月16日 
多聞院英俊が松永久秀久通父子のもとに礼に訪れ、久秀に20疋、久通に10疋を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月23日 
松永久秀久通父子が5、6年ぶりに春日社に参詣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月6日 
松永久秀久通父子が軍勢4000にて福住城(大和国)に攻め入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月14日 
松永久秀久通父子が郡山衆を討ち滅ぼす。堀池、平等坊、室、豊井の衆50-60を討ち殺す。その後、郡山(大和国)に攻め入り、散郷を焼き討ちにする。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月18日 
多聞院英俊が郡山(大和国)に在陣中の松永久秀久通父子のもとに見舞いに訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月23日 
松永久秀が山中において飯田神十郎を自害させる。
出典:『多聞院日記』同年月24日条

元亀1年 1570年 6月26日 
松永久秀久通父子が郡山(大和国)より帰陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、野々山元政渥美友勝加藤正次
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀1年 1570年 7月25日 
酉刻(17-19時)、松永久秀久通父子が信貴山城(大和国)に出陣する。三好長逸三好宗渭岩成友通が河内国に攻め入ったと噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀1年 1570年 7月27日 
松永久秀久通父子がが軍勢8000にて河内国を打ち廻る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀1年 1570年 7月27日 
三好康長三好長逸三好宗渭、三好為三、岩成友通、東条行長、松山重治、斎藤龍興、長井道利等が中島天満森(摂津国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 7月29日 
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月9日 
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が尼崎(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月13日 
安宅甚太郎・池田某が猪名寺(摂津国)にて戦う。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月17日 
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が、三好義継畠山昭隆伊丹親興・遊佐の軍勢が籠る古橋城(河内国)を攻める。
出典:『尋憲記』同年月20日条、『言継卿記』同年月18日条、『多聞院日記』同年月18日条、『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月22日 
織田信長が長光寺(近江国)に宿泊する。(『信』)
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が、天王寺、ウリウノ、に陣取る。松永久秀が高安(河内国)に、竹下秀勝が大窪に陣取る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『多聞院日記』同年月日

元亀1年 1570年 8月28日 
織田信長天王寺に陣取る。織田勢は信長、畠山昭高三好義継松永久秀等が大坂(摂津国)の西の川端に軍勢20000-30000で布陣する。義継、久秀、和田惟政は川を越え天満森に布陣する。
野田・福島(摂津国)に陣取る香西佳清、三好為三が信長のいる天王寺に降伏するためやってくる。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 1月4日 
夕方、松永久秀が京都に戻る。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

元亀2年 1571年 1月8日 
多聞院英俊が松永久秀のいる多聞山城(大和国)に礼に赴き、久秀に20疋を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 5月6日 
多聞山城(大和国)より松永久通、竹内秀勝が出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 5月9日 
松永久秀が窪城(大和国)に軍勢を送り攻める。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 5月11日 
松永久秀が窪城(大和国)より軍勢を引き上げる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 5月12日 
松永久秀久通父子が安見右近の籠る城を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 5月27日 
松永久秀久通父子がヤタノより多聞山城(大和国)に帰城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 5月29日 
多聞院英俊が松永久秀に油煙2丁を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 5月30日 
松永久秀久通父子とともに織田信長のもとに出陣する。
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が畠山高政・遊佐宗房の籠る高屋城(河内国)に攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 6月11日 
高屋城(河内国)を攻めていた三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が撤退する。
出典:『多聞院日記』同年月日12条

元亀2年 1571年 7月3日 
夕方、松永久通多聞山城(大和国)に帰城する。松永久秀法隆寺に引き上げる。
出典:『多聞院日記』同年月4日条

元亀2年 1571年 7月4日 
夕方、松永久秀が箸尾(大和国)から引き上げ、法隆寺、龍田(大和国)に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

元亀2年 1571年 7月8日 
多聞山城(大和国)にて鉢屋乗佐が死去する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 7月14日 
明日、三好義継松永久秀が和田城(摂津国)に攻めるため出陣すると噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 8月4日 
午刻(11-13時)、信貴山城(大和国)から出陣した松永久秀三好義継とともに大安寺に陣取る。筒井順慶が辰市に築いた辰市城(大和国)を攻めるが、順慶と郡山の援軍に敗れる。松永勢は甥・左馬進、甥・孫四郎、松永久三郎、河那辺伊豆守、渡辺兵衛尉、松岡左近、福智、赤沢蔵介、栄林院、竹田対馬守、豊田、山崎久助、安倍、来栖、延泉、山田、中岡藤市など500名が討死する。久秀は多聞山城(大和国)に撤退する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 8月6日 
早朝、松永久秀信貴山城(大和国)に戻る。
筒井順慶は辰市城(大和国)の合戦で討ち取った松永久秀・三好義継勢の首を京都に送る。
高田城、ノカイト、番原、森屋蔵堂城を接収する。
出典:『多聞院日記』同年月日・7日条

元亀2年 1571年 9月12日 
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 9月22日 
竹内秀勝が若江(河内国)にて死去する。
出典:『多聞院日記』同年月24日条

元亀3年 1572年 3月29日 
大安寺の門の前にて松永久秀多聞山城(大和国)の城兵と筒井順慶の足軽衆が戦う。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 -月-日 
三好義継松永久秀久通父子が織田信長に叛旗を翻し、畠山昭高の家臣・安見新七郎の交野城(河内国)を攻める。
出典:『信長公記』巻5(2)「交野へ松永取出仕候、追ひ払はるゝの事」

元亀3年 1572年 4月16日 
三好義継松永久秀久通父子の攻撃を受けている安見新七郎の交野城(河内国)を救援するため、織田信長佐久間信盛柴田勝家明智光秀、坂井越中守、蜂屋頼隆斎藤利治稲葉良通氏家直昌安藤守就不破光治丸毛長照多賀常則細川藤孝三淵藤英上野秀政池田勝正伊丹親興和田惟長の軍勢20000を遣わす。
松永久秀は騎西城(河内国)に在城中という。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻5(2)「交野へ松永取出仕候、追ひ払はるゝの事」

元亀3年 1572年 5月5日 
織田勢の先陣が西京(大和国)に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 5月7日 
織田勢の数万の軍勢が西京(大和国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 5月9日 
筒井順慶が南大門(大和国)に陣取る。奈良(大和国)にやってきた織田勢が大黒カ尾より松永久秀多聞山城(大和国)の北側を包囲する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 7月29日 
松永久秀が山城国へ攻め入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 8月28日 
この頃、松永久秀が木津(山城国)にて苅田をする。朝早くに木津より撤退する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 11月19日 
松永久秀が片岡(大和国)のあたりに出陣し放火する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 11月20日 
松永久秀が片岡(大和国)を放火する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 11月22日 
松永久秀勢が多聞山城(大和国)から出陣し今市(大和国)を放火する。筒井順慶勢と戦う。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正1年 1573年 11月-日 
織田信長の命をうけた佐久間信盛三好義継の籠る若江城(河内国)を攻める。
織田信長勢:佐久間信盛[大将]、松井康之
三好義継勢:三好義継[大将]、金山武春、多羅尾右近、池田教正、野間佐吉、那須久右衛門、岡飛騨守、江川。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)、『綿考輯録』巻2

天正1年 1573年 11月-日 
佐久間信盛三好義継の籠る若江城(河内国)を攻める。
織田信長勢:佐久間信盛[大将]、松井康之
三好義継勢:三好義継[大将]、金山武春、多羅尾右近、池田教正、野間佐吉、那須久右衛門、岡飛騨守、江川
義継家臣の多羅尾右近・池田教正・野間佐吉が信盛に内通し、金山武春を殺害して、若江城(河内国)城内に織田勢を引き入れる。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

天正1年 1573年 11月16日 
若江城(河内国)にて三好義継が自害する。那須久右衛門、岡飛騨守、江川が殉死する。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

天正2年 1574年 1月17日 
織田信長岐阜城(美濃国)にて細川藤孝、蒲生、青地、池田、松永久秀筒井順慶畠山昭高中川清秀、閉地、関、分部、平塚を饗応する。その席にて、信長が明智光秀の子を順慶の養子とすること、光秀の娘を津田信澄に嫁がせること、細川忠興に光秀の娘を嫁がせることを命じる。
出典:『綿考輯録』巻3

天正2年 1574年 3月9日 
柴田勝家多聞山城(大和国)の留守居番替として多くの軍勢を引き連れ同城に入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 3月10日 
柴田勝家興福寺に使者を遣わし奈良(大和国)の支配を織田信長より命じられたことを伝える。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 3月21日 
塙直政多聞山城(大和国)に入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 3月27日 
織田信長が軍勢3000を率い多聞山城(大和国)に入る。奈良中の僧坊への陣取りや縁を頼っての宿借りを禁止する。多聞院英俊はこの施策を「一段善政下知」と評価する。信長の蘭奢待切り取りにあたり、荒木村重佐久間信盛柴田勝家菅屋長頼丹羽長秀蜂屋頼隆塙直政松井友閑が奉行をつとめる。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事

天正2年 1574年 3月28日 
織田信長東大寺の蘭奢待を5つ切り取る。
夜、八幡、東大寺大仏殿、春日社に参詣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事

天正2年 1574年 11月16日 
織田勢が奈良(大和国)より引き上げる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 12月24日 
松永久秀が剃髪し道意と名乗る。
出典:『多聞院日記』天正3年1月5日条

天正3年 1575年 3月23日 
織田信長塙直政を大和国守護に任じる。
出典:『多聞院日記』同年月25日条

天正3年 1575年 4月2日 
塙直政が大和国に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 4月27日 
十市郷(大和国)の1/3を塙直政に、1/3を松永久秀に、1/6を常州に、1/6を後室に給付する朱印状が発給される。
出典:『多聞院日記』同年5月3日条

天正3年 1575年 7月12日 
松永久通がおなえ(十市遠勝の娘)と祝言をあげることが決まる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 7月18日 
19日に龍王山城(大和国)にて松永久通とおなえ(十市遠勝の娘)の祝言が予定される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 7月19日 
松永久通とおなえ(十市遠勝の娘)の祝言が原田直政の命により延期となる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 7月25日 
松永久通とおなえ(十市遠勝の娘)が祝言をあげる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 8月9日 
大和国衆、山城国衆が一向一揆攻めのため越前国に向けて出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 8月10日 
織田信長が一向一揆攻めのため越前国に向けて出陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 2月7日 
薪能見物のため奈良(大和国)に原田直政松永久秀が下向する。直政は成身院に、久秀は五大院に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 5月7日 
早朝より織田信長が総勢で住吉口より出陣する。先陣は佐久間信盛松永久秀細川藤孝、若江衆、二陣は滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀稲葉一鉄氏家直昌安藤守就、三陣は馬廻衆。午刻(11-13時)に天王寺に入り、大坂本願寺に籠る一向一揆勢と合戦。2000余を討つ勝利を収めたという。信長はこの戦いで足に鉄砲があたり負傷する。戦後、天王寺砦に佐久間信盛佐久間信栄、進藤山城守、松永久秀、松永久通、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿を置く。また、住吉浜に要害を築き、真鍋貞友、沼野伝内を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻9(4)「後後巻再三御合戦の事」

天正4年 1576年 5月8日 
織田信長本願寺顕如大坂本願寺周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる下間頼廉・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報)
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月10日 
巳刻(9-11時)、織田信長が大和国一国一円の支配を筒井順慶に任せることを明智光秀万見重元を介して同人に伝える。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 7月6日 
村井貞勝多聞山城(大和国)の破却を指揮する。それにつき奉行として松永久通が土を運ぶ。
出典:『多聞院日記』同年月日

天正4年 1576年 8月9日 
松永久通多聞山城(大和国)破却のため五大院に逗留する。
出典:『多聞院日記』同年月日

天正5年 1577年 6月5日 
多聞山城(大和国)の4階櫓が破却される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正5年 1577年 閏7月3日 
多聞山城(大和国)破却につき村井貞勝が同城に赴く。貞勝はその日のうちに上洛する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正5年 1577年 閏7月22日 
多聞山城(大和国)の破却が概ね完了する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正5年 1577年 8月17日 
松永久秀久通父子が、定番していた天王寺砦を引き払い信貴山城(大和国)に籠城し、信長に叛く。
出典:『信長公記』巻10(7)「松永謀叛並人質御成敗の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 9月27日 
松永久秀久通父子が信貴山城(大和国)にて織田信長に叛く。
織田信忠が松永久秀・久通父子を攻めるため岐阜城(美濃国)を出陣し、蜂屋頼隆の肥田城(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(8)「片岡城被攻干事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 9月28日 
松永久秀久通父子討伐のため大和国に向かう織田信忠安土城(近江国)の丹羽長秀邸に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(8)「片岡城被攻干事」

天正5年 1577年 9月29日 
細川藤孝筒井順慶明智光秀松永久秀家臣の森秀光・海老名勝正が籠る片岡城(大和国)を包囲する。
出典:『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 10月1日 
織田信忠安土城(近江国)を出発し、瀬田(近江国)の山岡景隆所に宿泊する。
松永久秀の与力・森秀光、海老名勝正が籠る片岡城(大和国)を、明智光秀細川藤孝筒井順慶、山城国衆が攻め、落とす。この城攻めで細川忠興・興元兄弟が天守に一番乗りで攻め入り、城主の森秀光、海老名勝正等150余を討ち取る。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(8)「片岡城被攻干事」、『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」、『綿考輯録」巻3

天正5年 1577年 10月2日 
織田信忠が槙島(山城国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」

天正5年 1577年 10月3日 
織田信忠が奈良(大和国)を通り、信貴山城(大和国)に対陣する。
夜、信貴山毘沙門堂が焼失する。
出典:『多聞院日記』同年月日・4日条、『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」

天正5年 1577年 10月4日 
織田信長松永久通の人質2名(松永孫六の子14歳、12歳)を安土(近江国)より京都に移す。5日処刑されると噂される。矢部家定、福富秀勝が移送を担当する。
出典:『兼見卿記』同年月日条・同年月5日条

天正5年 1577年 10月5日 
織田信長松永久通の人質2名(松永孫六の子14歳、12歳)を京都六条河原にて処刑する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 10月9日 
夜、織田信忠松永久秀久通の籠る信貴山城(大和国)を攻める。久秀・久通父子が切腹する。
織田信長勢:織田信忠[大将]、佐久間信盛羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶細川忠興[細川藤孝勢]、細川興元[細川藤孝勢]。
松永久秀勢:松永久秀[大将]、松永久通。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正5年 1577年 10月10日 
夜、織田信忠松永久秀久通の籠る信貴山城(大和国)を攻める。久秀・久通父子が切腹する。
織田信長勢:織田信忠[大将]、佐久間信盛羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶細川忠興[細川藤孝勢]、細川興元[細川藤孝勢]。
松永久秀勢:松永久秀[大将](自害)、松永久通(自害)。
出典:『多聞院日記』同年月日・11日条、『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」

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