人 物 史

別所長治 べっしょ ながはる
生 没 年永禄1年(1558)-天正8年(1580)1/17
出 身-幼 名-
別 称小三郎
法 名-
戒 名英応院殿剛覚性金大居士
別所安治浦上氏の娘
兄 弟 姉 妹別所長治別所友之、別所治定
配 偶 者照子
竹、虎、別所千松丸、別所竹松丸
官 位-
役 職-
城 郭三木城(播磨国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ別所長治の関連文化財
別所長治 年表
永禄1年 1558年 -月-日 1歳
別所長治が生まれる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 1歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 -月-日 3歳
弟・友之が生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 13歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 16歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 7月1日 18歳
上洛中の織田信長のもとへ、公家衆、別所長治、別所孫右衛門、三好笑岩、武田孫犬、逸見駿河、粟屋越中、熊谷伝左衛門、山県下野守、内藤筑前、白井、松宮、畑田が礼に訪れる。
出典:『信長公記』巻8(5)「山中の猿御憐愍の事」

天正3年 1575年 10月20日 18歳
赤松義祐小寺政職別所長治等が上洛し織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正5年 1577年 2月13日 20歳
織田信長が雑賀郡(紀伊国)を攻めるため、子・信忠北畠信雄神戸信孝等とともに京都から出陣する。石清水八幡宮に陣を置く。総勢が『兼見卿記』では10万余、『多聞院日記』では15万余とされる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月22日 20歳
織田信長が志立に陣を移す。信長は、軍勢を山手と浜手に分け雑賀(紀伊国)に攻め寄せる。山手には佐久間信盛羽柴秀吉荒木村重別所長治、別所孫右衛門、堀秀政稲葉良通氏家直昌、飯沼勘平を遣わす。浜手には滝川一益明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月28日 20歳
織田信長が淡輪(和泉国)に陣を移す。中野城の城兵が降伏する。中野城は織田信忠が請け取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 3月1日 20歳
織田信長滝川一益明智光秀蜂屋頼隆細川藤孝筒井順慶、若狭衆に鈴木重秀の居城・雑賀城(紀伊国)の攻撃を命じる。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月2日 20歳
織田信長が鳥取郷(和泉国)の若宮八幡宮に陣を移す。堀秀政不破光治丸毛長照、武藤惣左衛門、福富秀勝、中条将監、山岡景隆、牧村長兵衛、福田三河、丹羽氏勝、水野大善、生駒市左衛門、生駒三吉等を根来口に遣わす。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 3月-日 20歳
土橋平次、鈴木重秀、岡崎三郎大夫、松田源三大夫、岡本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫が大坂本願寺攻めに加わるとの起請文を連署で織田信長に提出する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 10月28日 20歳
羽柴秀吉が播磨国にて諸家より人質を取る。
出典:『信長公記』巻10(10)中将信忠御位の事

天正6年 1578年 2月23日 21歳
羽柴秀吉別所長治の与力で加古川(播磨国)の糟屋内膳の城を借り軍勢を入れ置き、自身は書写山(播磨国)に要害を構え居陣する。
別所長治が三木城(播磨国)に籠城し、織田信長に叛旗を翻す。
出典:『信長公記』巻11(4)「磯野丹波磯貝新左衛門の事」

天正6年 1578年 3月7日 21歳
羽柴秀吉が姫路(播磨国)に到着する。
秀吉の姫路着陣を受け、別所賀相が秀吉を警戒し、別所長治に織田家を叛くよう勧め、長治は織田家に叛き三木城(播磨国)に籠城する。
出典:『天正記』「播磨別所記」

天正6年 1578年 3月29日 21歳
羽柴秀吉別所長治の籠る三木城(播磨国)を攻める。
出典:『黒田家譜』巻1「孝高記」、『豊臣記』

天正6年 1578年 6月27日 21歳
神吉城(播磨国)攻めにつき、同城の北東に織田信忠神戸信孝佐久間信盛林秀貞細川藤孝が、西の山に丹羽長秀が布陣する。他に織田信包明智光秀荒木村重稲葉一鉄滝川一益筒井順慶蜂屋頼隆が城攻めに加わる。城攻めに際し、信孝が足軽衆と先陣を争う。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月28日 21歳
織田信忠が神吉城(播磨国)を攻める。城の南より織田信包が攻め入り、城の東口を滝川一益丹羽長秀が金掘り衆を入れ、かつ城楼を組み大鉄砲にて攻める。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月15日 21歳
滝川一益丹羽長秀が神吉城(播磨国)東丸を攻め落とす。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月16日 21歳
佐久間信盛荒木村重が神吉城(播磨国)西丸に攻め入る。西丸にて防戦していた神吉藤大夫が降伏する。滝川一益丹羽長秀が神吉城(播磨国)の本丸に攻め入り、神吉民部少輔を討ち取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月-日 21歳
羽柴秀吉が志方城(播磨国)を攻める。同城が降伏する。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月-日 21歳
織田信長勢が別所長治の籠る居城・三木城(播磨国)を包囲すべく付城を築く。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正7年 1579年 4月26日 22歳
織田信忠三木城(播磨国)に砦を6ヶ所築くように命じる。その後、小寺政職の御着城(播磨国)を攻める。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 4月28日 22歳
織田信忠が有馬郡・能勢郡に攻め入り、作毛を薙ぐ。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 9月2日 22歳
荒木村重が5、6名を召し連れ、有岡城(摂津国)から尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月10日 22歳
大村の合戦で、羽柴秀吉別所長治が戦う。長治は谷大膳が籠る羽柴方の付城を一度は落とすも、秀吉が別所甚太夫・別所三太夫・別所左近将監・光枝小太郎・光枝道夕・櫛橋弥五郎・高橋平左衛門・三宅与兵次・小野権左衛門・砥堀孫太夫を討ち取る。
出典:『天正記』「播磨別所記」

天正7年 1579年 9月12日 22歳
織田信忠有岡城(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、荒木村重が逃亡した尼崎(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・高山重友中川清秀・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月21日 22歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月22日 22歳
荒木村重有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月24日 22歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 10月15日 22歳
早朝、荒木村重の籠る有岡城(摂津国)の城外のカワメ市場が焼ける。滝川一益が荒木家の足軽大将である星野・山脇・隠岐・宮脇を寝返らせ、織田勢を城中に引き入れる。
出典:『多聞院日記』同年月16日条、『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 11月20日 22歳
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正8年 1580年 1月6日 23歳
羽柴秀吉別所長治の籠る三木城(播磨国)の宮の上構を攻め落とす。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 1月11日 23歳
羽柴秀吉が別所吉親の籠る鷹尾城(播磨国)を攻め落とす。三木城(播磨国)の本丸より火が出る。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 1月15日 23歳
羽柴秀吉に兵糧攻めを受けている三木城(播磨国)の別所長治が、自身と別所賀相・別所友之の自害を条件に籠城している兵卒の助命を、書状をもって浅野長政・別所重棟に伝え、秀吉に請う。秀吉は長治の請いを受け入れる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」、『天正記』「播磨別所記」

天正8年 1580年 1月17日 23歳
申刻(15-17時)、三木城(播磨国)にて別所長治別所友之が切腹する。三木城が羽柴秀吉の手に落ちる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」、『天正記』「播磨別所記」、『豊臣記』

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