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史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
人 物 史
武井夕庵
たけい ゆうあん
生 没 年
?-?
出 身
-
幼 名
-
別 称
-
法 名
-
戒 名
-
父
-
母
-
兄 弟 姉 妹
-
配 偶 者
-
子
-
官 位
-
役 職
-
城 郭
-
参 考 文 献
○
武井夕庵に関する参考文献
関 連 デ ー タ
○
史料にみえる武井夕庵の呼称
武井夕庵 年表
- -年 -月-日
武井夕庵
が生まれる。
出典:-
永禄12年 1569年 8月1日
織田信長
が
岐阜城
下(美濃国)に滞在中の
山科言継
、
今井宗久
、江西、
武井夕庵
、
松井友閑
、島田弥右衛門、金余等を岐阜城の山城に案内し饗応する。饗応には信長も同席する。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄13年 1570年 4月20日
織田信長
が
朝倉義景
の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て
坂本
(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。
武井夕庵
、
松永久秀
、
池田勝正
(軍勢3000)が従軍する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条
永禄13年 1570年 4月21日
織田信長
が田中城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」
永禄13年 1570年 4月22日
織田信長
が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」
元亀1年 1570年 4月23日
織田信長
が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」
元亀1年 1570年 4月25日
織田信長
が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項
元亀1年 1570年 4月26日
金ヶ崎城
(越前国)に籠城していた
朝倉景恒
が
織田信長
に降伏する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」
元亀1年 1570年 4月29日
織田信長
が越前国侵攻中のところ、義弟・
浅井長政
が信長を裏切り、
朝倉義景
に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条
元亀1年 1570年 5月1日
山科言継
が日野、
武井夕庵
のもとに澤路隼人佑を遣わし越前国からの無事の帰国を喜んでいることを伝える。
出典:『言継卿記』同年月日条
天正3年 1575年 7月3日
織田信長
が禁裏の鞠会を見物する。
禁裏より信長に官位昇進の勅錠があったが断る。ただし、家老衆の任官は受け、
松井友閑
は宮内卿法印に、
武井夕庵
は二位法印に、
明智光秀
は惟任日向守に、簗田左衛門太郎は別喜右近に、
丹羽長秀
は惟住姓となる。
出典:『信長公記』巻8(6)「禁中において親王様御鞠遊ばさるゝの事」
天正6年 1578年 1月1日
五畿内、和泉、越前、尾張、美濃、近江、伊勢その他隣国の者が
織田信長
のもとへ礼に訪れる。
信長が、子・
信忠
、
武井夕庵
、
林秀貞
、
滝川一益
、
細川藤孝
、
明智光秀
、
荒木村重
、長谷川与二、
羽柴秀吉
、
丹羽長秀
、市橋九郎右衛門、長谷川宗仁に茶を振る舞う。
出典:『信長公記』巻11(1)「御茶湯の事」
- -年 -月-日
武井夕庵
が死去する。
出典:-
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