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事項 |
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- | - | - | - | - | 松井友閑が生まれる。 | - |
永禄12年 | 1569 | 8 | 1 | - | 織田信長が岐阜城下(美濃国)に滞在中の山科言継、今井宗久、江西、武井夕庵、松井友閑、島田弥右衛門、金余等を岐阜城の山城に案内し饗応する。饗応には信長も同席する。 | 『言継卿記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 12 | 13 | - | 松井友閑、道設、千宗易が今井宗久の茶会に参会する。 | 『今井宗久茶湯書抜』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 2 | 22 | - | 足利義昭の城の普請につき吉田兼見より人足40人が訪れる。 義昭は兼見に鉄砲の灰木10束を進上するよう命じる。吉田郷には灰木がないとの訴えが兼見よりなされるが近郷から調達するようにと命じる。 織田信長の使者として島田秀満、松井友閑が上洛する。両人の上洛は、義昭と信長の不和の噂につき、信長の意を伝えるため。 | 『兼見卿記』同年月日条・3月6日条 |
元亀4年 | 1573 | 7 | 14 | - | 明智光秀が吉田山(山城国)に織田信長の屋敷を建ててはと進言する。これにつき、信長の命により柴田勝家、木下秀吉、滝川一益、丹羽長秀、松井友閑、前波七郎兵衛が同地を検分する。吉田兼見とも話し合い、屋敷地の建設は取りやめとする。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 7 | 15 | - | 吉田兼見が妙覚寺を訪れ、7月14日の吉田山の築城の件で、滝川一益、松井友閑に礼をする。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正1年 | 1573 | 11 | 24 | - | 織田信長が妙覚寺において茶会を開く。千宗易、今井宗久の点前にて、松井友閑、山上宗二を招く。 | 『今井宗久茶湯書抜』同年月日条 |
天正2年 | 1574 | 3 | 27 | - | 織田信長が軍勢3000を率い多聞山城(大和国)に入る。奈良中の僧坊への陣取りや縁を頼っての宿借りを禁止する。多聞院英俊はこの施策を「一段善政下知」と評価する。信長の蘭奢待切り取りにあたり、荒木村重、佐久間信盛、柴田勝家、菅屋長頼、丹羽長秀、蜂屋頼隆、塙直政、松井友閑が奉行をつとめる。 | 『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事 |
天正2年 | 1574 | 3 | 28 | - | 織田信長が東大寺の蘭奢待を5つ切り取る。 夜、八幡、東大寺大仏殿、春日社に参詣する。 | 『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事 |
天正3年 | 1575 | 3 | 6 | - | 吉田兼見が松井友閑のもとを訪れる。兼見は友閑に五明5本を贈る。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正3年 | 1575 | 4 | 20 | - | 松井友閑を介し三好笑岩が織田信長に降伏を申し入れる。信長は康長の申し入れを受け入れる。 塙直政に河内国内の城割を命じる。 | 『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」 |
天正3年 | 1575 | 7 | 3 | - | 織田信長が禁裏の鞠会を見物する。 禁裏より信長に官位昇進の勅錠があったが断る。ただし、家老衆の任官は受け、松井友閑は宮内卿法印に、武井夕庵は二位法印に、明智光秀は惟任日向守に、簗田左衛門太郎は別喜右近に、丹羽長秀は惟住姓となる。 | 『信長公記』巻8(6)「禁中において親王様御鞠遊ばさるゝの事」 |
天正3年 | 1575 | 10 | 21 | - | 織田信長と本願寺顕如が三好康長、松井友閑を介して和睦する。顕如が小玉鑑、枯木・花の絵を信長に贈られる。笑岩が茶壺三日月を信長に進上する。 | 『信長公記』巻8(8)「大坂三軸進上の事」 |
天正4年 | 1576 | 2 | 20 | - | 松井友閑が上洛する。吉田兼見が友閑のもとを訪れ、扇5本を贈る。兼見に面会する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正4年 | 1576 | 5 | 3 | - | 吉田兼見が松井友閑のもとを訪れ、紅帯2筋を贈る。友閑は兼見に面会する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 3 | 27 | - | 吉田兼見が松井友閑のもとを訪れる。兼見は友閑に八丈縞1端を贈る。面会する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 3 | 28 | - | 吉田兼見が菓子5種(饅頭(薄皮)、宇治絵柿、打栗、大豆アメ、山芋(自然薯))を織田信長に進上する。松井友閑が披露する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 6 | 12 | - | 吉田兼見が松井友閑のもとを訪れる。面会する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 10 | 21 | - | 荒木村重が織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑、明智光秀、万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。 | 『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正6年 | 1578 | 11 | 3 | - | 荒木村重の謀反につき、織田信長が安土城(近江国)に子・神戸信孝、稲葉一鉄、不破光治、丸毛長照を置き、同城を出陣する。二条御新造に宿泊する。 | 『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」、『当代記』巻2同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 11 | 10 | - | 織田信長が荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就、稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠、北畠信雄、織田信包、神戸信孝、不破直光、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛、羽柴秀吉、松井友閑、大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。 | (天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正6年 | 1578 | 11 | 14 | - | 滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆、武藤舜秀、氏家直昌、安藤守就、稲葉一鉄、羽柴秀吉、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。 同日、頼隆、長秀、蒲生賢秀、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、織田信忠、北畠信雄、神戸信孝は小野原郷(摂津国)に陣取る。 | 『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正6年 | 1578 | 11 | 24 | - | 茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然・福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。 清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。 | 『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 12 | 8 | - | 織田信長が荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政・万見重元・菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。 | 『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条 |
天正6年 | 1578 | 12 | 11 | - | 織田信長が有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。 塚口郷の砦に丹羽長秀・蜂屋頼隆・蒲生氏郷・高山重友・神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包・滝川一益・北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興・元助・池田古新を、原田郷の砦に中川清秀・古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通・氏家直昌・安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。 播磨国に、羽柴秀吉・佐久間信盛・明智光秀・筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。 | 『信長公記』巻11 同年月日条 |
天正8年 | 1580 | 3 | 1 | - | 織田信長が郡山(摂津国)に入る。天神馬場・大田路次にて鷹狩をする。 禁裏より信長と本願寺顕如の和睦のため、近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保が勅使として顕如のいる大坂本願寺に赴く。勅使に佐久間信盛、松井友閑が添えられる。 | 『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」 |
天正8年 | 1580 | 7 | 2 | - | 本願寺顕如が織田信長に礼をする。使者は藤井藤左衛門、八木駿河守、平井越後守。勅使の近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保が藤井等に付き添いをするため、織田信忠顕如からの礼物である太刀代銀子100枚を贈る。松井友閑、佐久間信盛が披露。織田信長は本願寺の使者および勅使に対面せず。 | 『信長公記』巻13(9)「大坂退散の事」 |
天正8年 | 1580 | 8 | 2 | - | 大坂本願寺に籠城を継続していた教如が織田信長に同寺を明け渡す。勅使として近衛前久、勧修寺晴豊、庭田重保が、信長からの使者として松井友閑、佐久間信盛、矢部家定が大坂本願寺に赴く。教如は雑賀(紀伊国)に移る。この日の夜、大坂本願寺が焼ける。 | 『多聞院日記』同年月5日条、『信長公記』巻13(9)「大坂退散の事」 |
天正8年 | 1580 | 8 | 12 | - | 織田信長が、宇治(山城国)の橋を見物した後、大坂に赴く。当地にて、佐久間信盛・信栄父子に折檻の条目を楠木正虎、松井友閑・中野又兵衛をもって伝え、遠国へ退出すべきよう命じる。 | 『信長公記』巻13(10)「宇治橋御見物の事」(11)「佐久間、林佐渡、丹羽右近、伊賀伊賀守の事」、 |
天正9年 | 1581 | 5 | 10 | - | 織田信長の命により津田信澄・蜂屋頼隆・堀秀政・松井友閑・丹羽長秀の検分のもと槙尾寺を破却する。 | 『信長公記』巻14(4)「和泉巻尾寺破滅の事」 |
天正10年 | 1582 | 3 | 21 | - | 松井友閑が本願寺顕如に当年の礼として1腰1疋を贈る。使者は等見。 | 『鷺森日記』同年月日条 |
天正10年 | 1582 | 4 | 21 | - | 織田信長、松井友閑が安土城(近江国)に帰城する。 | 『鷺森日記』同年月日条 |
天正11年 | 1583 | 9 | 17 | - | 貝塚動座の礼として本願寺顕如が羽柴秀吉へ遣わした下間頼廉、寺内若狭、益田照従が大坂城(摂津国)にて秀吉に対面する。対面時の相伴の衆は松井友閑、前田利家、千宗易、津田宗及、荒木道薫。頼廉は秀吉より馬を賜る。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 7 | 13 | - | 稲葉一鉄・前田玄以・松井友閑・施薬院全宗が昇殿する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 9 | 3 | - | 松井友閑が初めて本願寺顕如のもとに礼に訪れる。友閑に今井宗久が同道する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
- | - | - | - | - | 松井友閑が死去する。 | - |