人 物 史

池田勝正 いけだ かつまさ
生 没 年?-?
出 身-幼 名-
別 称八郎三郎
法 名-
戒 名-
--
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
池田直正、池田勝恒
官 位筑後守、民部大雄
役 職摂津国守護
城 郭池田城(摂津国)
参 考 文 献池田勝正に関する参考文献
関 連 デ ー タ史料にみえる池田勝正の呼称
池田勝正 年表
- -年 -月-日 
池田勝正が生まれる。
出典:-

永禄4年 1561年 3月30日 
未刻(13-15時)、足利義輝三好義興邸を訪れる。安威藤備安東泰職石谷光政小林藤宗進士藤延が義輝騎乗の馬を曳く。寺町通昭和久是徳が進物奉行を、三好長逸が惣奉行をつとめる。 義輝には、義興が太刀1腰・鎧1領・弓・征矢・馬1疋を、細川氏綱三好長慶松永久秀・長逸・三好宗渭三好長虎・三好帯刀左衛門尉、池田勝正、多羅尾綱知がそれぞれ太刀1腰を進上する。
出典:『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』(『群書類従』)、三好義興等進献物注文(『蜷川家文書』3-747号)

永禄6年 1563年 2月-日 
池田長正が死去する。
出典:『池田氏家譜集成』

永禄8年 1565年 10月15日 
池田勝正が本興寺ならびに西門前に池田勢の濫妨狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課、放火、陣取りを停止する旨の禁制を発給する。
出典:永禄8年10月15日付池田勝正禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1203号「本興寺文書」)

永禄8年 1565年 11月20日 
池田勝正大山崎(山城国)に池田勢の濫妨狼藉、山林竹木の伐採、放火、矢銭・兵糧米の賦課、国質所質、荏胡麻油商売ほか諸職について停止する旨の禁制を発給する。
出典:永禄8年11月20日付池田勝正禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1210号「離宮八幡宮文書」)

永禄8年 1565年 11月23日 
池田勝正東寺およびその境内に、池田勢の濫妨狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課、放火、陣取りについて停止する旨の禁制を発給する。
出典:永禄8年11月23日付池田勝正禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1211号「東寺百合文書」)

永禄10年 1567年 2月10日 
真如堂において、光源院(義輝)の菩提を弔うため、「京辺土」、池田勝正、坂本衆により六斎念仏大施餓鬼を催す。鉦鼓衆は約2800人。70000-80000人もの人々が集まったという。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 5月15日 
篠原長房池田勝正松永久秀を攻めるべく大和国に向けて出陣する。
三好宗渭、高畠が東大寺二月堂・同大仏殿に陣取る。それに備えるため三好義継、久秀・久通父子が多聞山城(大和国)、興福寺東大寺戒壇院(以上、大和国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 5月17日 
池田勝正が西方寺(大和国)に、三好宗渭が天満山より西ノ坂に、岩成友通が念仏堂より氷室山法雲院の後ろの畠に、筒井順慶が大乗院山に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 5月18日 
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が東山より多聞山城(大和国)に攻め入るも松永久秀が退ける。久秀は三好三人衆の軍勢に陣取りをさせないようにするため般若寺、文殊堂、仏餉屋、妙光院、観音院、松井安芸宿所、西院郷、北水門、南水門を焼く。またこの放火の際に放った火が東大寺戒壇院の授戒堂に飛び火する。
夜、久秀が宿院城(大和国)に夜襲をかけ、池田勝正勢が損害を出し最福院に逃れる。最福院は破却される。
出典:『多聞院日記』同年月日・19日条

永禄10年 1567年 5月22日 
池田勝正薬師寺ならびに薬師寺門前に池田勢の濫妨狼藉、寺中の陣取り、矢銭・兵糧米の賦課、作毛の刈り取り、竹木の伐採を停止する旨の禁制を発給する。
出典:永禄10年5月22日付池田勝正禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1351号「薬師寺文書」)

永禄10年 1567年 5月23日 
朝、池田勝正がマメ山に陣を移す。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 5月24日 
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が法輪院に入る。これを受け、松永久秀が宝徳院、妙音院、徳蔵院、金蔵院に火矢を放ち放火する。
夜前、久秀が無量寿院を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 6月4日 
夜、筒井順慶興福寺寺中に火矢を放つ
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄10年 1567年 6月5日 
筒井順慶が龍華院方発心院、中蔵院、千手院、大聖院、安養院、谷坊、慈明院に陣取る。千手院の上に城を築くという。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 7月13日 
寅刻から卯半刻(3-6時)まで松永久秀が今御門、餅飯殿、橋本、角振、小西を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 7月23日 
東大寺にて三好長逸三好宗渭岩成友通松永久秀が戦う。この合戦により東大寺戒壇院、千手院が焼失する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月25日条

永禄10年 1567年 7月27日 
松永久秀合力として柳本弾正忠・波多野・赤井ら兵4000が丹波より西岡(京都)に侵攻し西岡衆と戦う。萬石・下山田を焼く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 8月2日 
松永久秀が大黒ノ尾に攻め入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 8月2頃日 
松永久秀合力として根来寺衆8000が和泉国に侵攻する。また、大和国の井戸、郡山(大和国)の辰巳も久秀に加勢する。
出典:『言継卿記』同年月5日条

永禄10年 1567年 8月16日 
午刻(11-13時)、松永久秀方の松浦、松永彦十郎が三好長逸三好宗渭岩成友通方に寝返る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月25日条

永禄10年 1567年 8月21日 
池田勝正と超昇寺が戦う。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 8月23日 
飯盛山城(河内国)の松山安芸守が、三好長逸三好宗渭岩成友通方から松永久秀に寝返り、河内国の各所を焼く。
出典:『言継卿記』同年月25日条

永禄10年 1567年 8月26日 
岩成友通、中村為三の軍勢が河内国に向かう。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 9月5日 
三好長逸三好宗渭岩成友通篠原長房飯盛山城(河内国)に降伏するよう交渉する。
出典:『多聞院日記』同年月6日条

永禄10年 1567年 9月6日 
飯盛山城(河内国)が三好長逸三好宗渭岩成友通篠原長房に降伏すると報告がある。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 9月22日 
田原の坂上氏が松永久通に寝返る。
松永久秀飯盛山城(河内国)に軍勢500を入れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 10月10日 
松永久秀三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が陣取る東大寺大仏殿に、子刻初点(11時)夜襲をしかけ三好勢を破る。三好三人衆の軍勢が鑓中村ほか200-300人討死する。この戦いにより穀屋より出た火が法華堂、大仏殿の廻廊に移り、丑刻(1-3時)に大仏殿が炎上する。大仏殿のほか、念仏堂、唐禅院、四聖坊、安楽坊、深井坊が焼失する。
氷室山に陣取っていた別所勢と郡山の辰巳勢は陣所を自ら焼き払う。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月11日条

永禄10年 1567年 10月21日 
飯盛山城(河内国)に籠城していた松山安芸守と山口がに逃亡する。同城は三好長逸篠原長房が請け取り入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 10月26日 
池田勝正が軍勢を少し奈良(大和国)に残し、摂津国に撤収する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 11月2日 
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢と松永久秀の軍勢が春日社大鳥居にて戦う。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 1月17日 
西之城(大和国)の番替えとして三好長逸勢と池田勝正勢が入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 3月21日 
西陣へ番替えとして高屋衆(三好備中守、大嶋助兵衛、遊佐安芸守、加地六郎兵衛)、三鬼鎰助、カイノ庄助丞、木村宗也ら1500が着陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 3月25日 
三好義継が伴田に移る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 5月19日 
篠原長房三好宗渭が津田城より山城国を打ち回る。その後、西京に陣取り、奈良(大和国)には入らず。
長房が西京(大和国)あたりに陣取ることを聞いた筒井順慶が寺中へ陣取らないようにと長房に要請する。
出典:(永禄11年)5月19日付筒井順慶書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1409号「薬師寺文書」)、『多聞院日記』同年月22日条

永禄11年 1568年 5月29日 
篠原長房三好宗渭が軍勢を奈良(大和国)に少し残し河内国に撤退する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 6月29日 
三好康長信貴山城(大和国)を攻め落とす。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 7月16日 
マメ山に布陣していた中村為三と筒井順慶勢が入れ替わる。篠原勘介が在番する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 8月18日 
松永久秀方の富野城(山城国)が宇治田原の衛門兵衛に攻め落とされる。富野城(山城国)の落城を聴いた多聞院英俊は、久秀がいよいよ滅亡するのではと評す。
出典:『多聞院日記』同年月21日条

永禄11年 1568年 9月2日 
三好康長が西京(大和国)に布陣する。興福寺からの訴えにより奈良には布陣せず。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月3日 
三好康長多聞山城(大和国)の西北に攻め寄せる。奈良宿を放火する。筒井順慶が多聞山城(大和国)の東に攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月4日 
河内国の三好勢が東大寺辺りに攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月5日 
河内国の三好勢が帰陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月12日 
織田信長佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀、浅井新八に命じ箕作山城(近江国)を攻めさせ、夜、落とす。城攻めに松平信一、服部正成、明智光秀徳山則秀浅野長政細川藤孝松井康之蜂須賀正勝丹羽氏勝が参加する。
同夜、観音寺城(近江国)が自焼する。長光寺城(近江国)ほか11、12の城を落とす。
出典:『言継卿記』同年月13日条、『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『綿考輯録』巻1、『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

永禄11年 1568年 9月13日 
三好宗渭、香西の率いる軍勢3000が木津平城に入る。
出典:『多聞院日記』同年月14日条

永禄11年 1568年 9月14日 
織田信長勢が六角承禎の居城を落とする。六角家家臣の後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里が信長に降伏する。
織田信長が15日に上洛すると京都で噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月16日 
三好宗渭、香西の率いる軍勢3000が木津平城(山城国)を退き西京(大和国)に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月26日 
織田信長が山科郷(山城国)の南を通り東寺に布陣する。また信長は北白川を経由し軍勢を入京させる。足利義昭清水寺に移す。
久我にて織田信長三好長逸が戦う。
信長が勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月27日 
織田信長足利義昭清水寺から東寺に移し、さらに西岡(山城国)まで移す。
信長勢が西岡の所々・吉祥院・淀・鳥羽(以上、山城国)・樟葉(河内国)を放火する。義昭を西岡寺土の寂勝院に布陣させる。織田勢を山崎(山城国)から天神之馬場までに展開する。
勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通と和睦交渉を進める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月28日 
織田信長三好長逸勢が拠る山崎(山城国)を攻め落とす。西岡(山城国)あたりを放火する。
足利義昭が山崎の竹内左兵衛邸に移る。織田勢の先陣が芥川市場を放火する。(『言』)
織田信長より柴田勝家蜂屋頼隆森可成坂井政尚が三好攻めの先陣を命じられ、桂川を渡り岩成友通の籠城する勝龍寺城(山城国)を攻める。(『信』)
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻1(4)「信長御上洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」

永禄11年 1568年 9月29日 
足利義昭が天神馬場(摂津国)に移る。織田信長芥川山城(摂津国)の麓を攻める。また織田勢が河内国の各所を放火する。夕方、三好長逸が芥川山城を、岩成友通勝龍寺城(山城国)を信長に明け渡す。
出典:『言継卿記』同年月日・30日条

永禄11年 1568年 9月30日 
足利義昭芥川山城(摂津国)に入城する。
織田信長が郡山道場、富田寺外を落とす。富田寺内とは和睦する。池田城(摂津国)を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月2日 
足利義昭織田信長芥川山城(摂津国)に陣取る。三好長逸池田勝正が義昭・信長に降伏する。
松永久秀が義昭のもとへ礼に赴くため八幡山(山城国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月3日 
竹内季治、畠山昭高畠山高政松永久秀池田勝正、入江が足利義昭織田信長のいる芥川山城(摂津国)にやってきて降伏を受け入れてくれたことの礼をする。
出典:『言継卿記』同年月4日条

永禄12年 1569年 1月4日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が蜂起し、足利義昭を攻めるべく塩小路(山城国)まで押し寄せてくる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月5日 
午刻(11-13時)、三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭の居所・本圀寺を攻める。本圀寺の北の中堂寺、南東の不動堂が放火される。足利勢は足軽衆20名が討死するも、長逸等の軍勢を退ける。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀
出典:『言継卿記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元政」の項

永禄12年 1569年 1月6日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢6000にて東寺・浄福寺あたりに陣取る。その後、長逸、宗渭、友通は七条(山城国)に移動する。足利義昭の救援として、池田勝正伊丹親興三好義継が上洛する。七条に陣する長逸等に西から池田勝正・伊丹親興、北から奉公衆(細川藤孝等)、南から三好義継が攻めかかり、長逸等は1000余名の戦死者を出し敗北する。長逸は八幡(山城国)に逃亡し、友通は北野神社松梅院に逃れるが、北野社に追手がきたためさらに逃亡する。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通、小笠原信定(戦死)。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀、伊丹親興、池田勝正、三好義継、細川藤孝。
出典:『言継卿記』同年月日・7日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原信定」の項

永禄13年 1570年 4月20日 
織田信長朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。武井夕庵松永久秀池田勝正(軍勢3000)が従軍する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月21日 
織田信長が田中城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月22日 
織田信長が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月23日 
織田信長が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月25日 
織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項

元亀1年 1570年 4月26日 
金ヶ崎城(越前国)に籠城していた朝倉景恒織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 4月29日 
織田信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月30日 
越前国侵攻中の織田信長が、浅井長政の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。松永久秀等が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月18日 
池田勝正が池田豊後守・池田周防神を殺害し出奔する。
出典:『言継卿記』同年月19日条、、『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 6月19日 
足利義昭の近江国への出陣が、18日の池田勝正の家内の内紛と三好長逸三好宗渭岩成友通が攻め入ってくるとの噂があったことから延期となる。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月20日 
池田21人衆の内、池田豊後守、池田周防守が殺害され、池田勝正池田城から追われ、刀禰山、次いで大坂(摂津国)に落ち延びる。勝正は足利義昭のもとに赴くとして、義昭のもとより上野秀政(軍勢500)、細川藤孝(軍勢200)、一色紀伊守、織田三郎五郎の合わせて軍勢2000余が山崎(山城国)に派遣される。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月26日 
三好義継池田勝正が上洛する。
三好長逸岩成友通池田城(摂津国)に入城したと噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、野々山元政渥美友勝加藤正次
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀3年 1572年 4月16日 
三好義継松永久秀久通父子の攻撃を受けている安見新七郎の交野城(河内国)を救援するため、織田信長佐久間信盛柴田勝家明智光秀、坂井越中守、蜂屋頼隆斎藤利治稲葉良通氏家直昌安藤守就不破光治丸毛長照多賀常則細川藤孝三淵藤英上野秀政池田勝正伊丹親興和田惟長の軍勢20000を遣わす。
松永久秀は騎西城(河内国)に在城中という。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻5(2)「交野へ松永取出仕候、追ひ払はるゝの事」

元亀3年 1572年 5月11日 
交野城(河内国)の救援に赴いていた軍勢が河内国より京都に帰陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

- -年 -月-日 
池田勝正が死去する。
出典:-

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.