城 郭 史

岐阜城(美濃国) ぎふじょう
築 城 年-
築 城 者-
改 築 年-
改 築 者-
廃 城 年-
別 称-
現 所 在 地〒500-0000
岐阜県岐阜市18
史 料 地 名-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ岐阜城(美濃国)の関連文化財
リ ン ク織田信長織田信忠織田信孝池田元助池田輝政
岐阜城(美濃国) 年表
永禄11年 1568年 6月23日 
細川藤孝・上野清信・明智光秀岐阜城(美濃国)に居る織田信長のもとに赴き、足利義昭の上洛を依頼する。
出典:『綿考輯録』巻1

永禄11年 1568年 7月16日 
足利義昭織田信長の居城・岐阜城(美濃国)に向かうべく一乗谷(越前国)を発つ。朝倉景恒と前波景当が国境まで警護する。義昭は浅井長政の館に入る。
出典:『多聞院日記』同年月27日条、『綿考輯録』巻1

永禄11年 1568年 7月25日 
織田信長足利義昭を立政寺(美濃国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻7「信長出張之事」、『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 7月27日 
立政寺(美濃国)にて織田信長足利義昭に謁す。
出典:『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月7日 
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

永禄11年 1568年 10月28日 
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻1(6)「信長御感状御頂戴の事」

永禄12年 1569年 4月21日 
織田信長が春日室町第に入った足利義昭のもとに赴き、岐阜城(美濃国)に帰還するとして暇乞いに訪れる。義昭は涙を流し信長に謝意を表し、門外まで見送るとともに、春日室町第の東の石垣から信長が粟田口を越えるところまで見守る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月1日 
織田信長岐阜城下(美濃国)に滞在中の山科言継今井宗久、江西、武井夕庵松井友閑、島田弥右衛門、金余等を岐阜城の山城に案内し饗応する。饗応には信長も同席する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月12日 
岐阜城下にいる勧修寺門跡のもとへ赴き雑談する。丹羽長秀のもとへ礼に赴くが、長秀が眼病のため会えず。林秀貞のもとへ礼に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月14日 
岐阜城(美濃国)の織田信長のもとへ烏丸光康光宣父子、山科言継飛鳥井雅春が赴き暇乞いする。信長に鳥1、太刀(金作り)、馬代(金10両)、居唐金鉢を送る。信長の子・帰命(奇妙)に一本緞子1端(赤地)を送る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月20日 
織田信長が伊勢国に侵攻するため軍勢80000をもって岐阜城(美濃国)を出陣する。桑名(伊勢国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年9月7日条、『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄12年 1569年 10月17日 
織田信長岐阜城(美濃国)に戻る。
出典:『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

永禄13年 1570年 4月20日 
織田信長朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。武井夕庵松永久秀池田勝正(軍勢3000)が従軍する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月21日 
織田信長が田中城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月22日 
織田信長が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月23日 
織田信長が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月25日 
織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項

元亀1年 1570年 4月26日 
金ヶ崎城(越前国)に籠城していた朝倉景恒織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 4月29日 
織田信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月30日 
越前国侵攻中の織田信長が、浅井長政の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。松永久秀等が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月10日 
織田信長が軍勢20000を率い、京都(山城国)を発ち、近江国へ出陣する。三好義継松永久秀等が信長を見送る。信長は志賀(近江国)の城に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月21日 
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻3(5)「千草峠にて鉄砲打ち申すの事」、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月4日 
午刻(11-13時)、落窪(近江国)にて柴田勝家佐久間信盛六角承禎義治父子が戦い、勝家等が勝利する。
申刻(15-17時)、織田勢の勝利の報が足利義昭のもとにもたらされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(6)「落窪合戦の事」、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月26日 
浅井久政長政父子が大寄山(近江国)に陣取る。織田信長が龍鼻(近江国)に陣取る。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月27日 
徳川家康織田信長の陣取る龍鼻(近江国)に着陣する。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 7月8日 
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」

元亀1年 1570年 12月17日 
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀2年 1571年 9月20日 
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」

元亀3年 1572年 5月14日 
辰刻(7-9時)、織田信長が京都より岐阜城(美濃国)に向けて出発する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 5月19日 
岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻5(2)「交野へ松永取出仕候、追ひ払はるゝの事」

元亀3年 1572年 7月19日 
織田信長小谷城(近江国)を攻めるべく岐阜城(美濃国)を出発し、赤坂(美濃国)に宿泊する。織田信忠が初陣として小谷城攻めに加わる。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 9月16日 
織田信長信忠父子が岐阜城(美濃国)に戻るべく横山城(近江国)を発つ。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀4年 1573年 3月8日 
足利義昭織田信長の不和の噂について、島田秀満が信長の意向を義昭に伝えるが義昭は拒絶する。秀満はすみやかに岐阜城(美濃国)に向かう。秀満は吉田兼見に大津(近江国)にまでの人足を依頼し兼見は3人を供出する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 3月29日 
織田信長勢の先陣が粟田口(山城国)を経て、午刻(11-13時)、三条河原に展開する。自身は逢坂(近江国)にて細川藤孝荒木村重の迎えを受け、知恩院に入り本陣とする。軍勢を白川、粟田口、祇園。清水、六波羅、鳥羽、竹田に展開する。柴田勝家は吉田兼見より吉田郷の警固を依頼される。丹羽長秀蜂屋頼隆は聖護院に陣取る。
足利義昭は籠城する。
吉田兼見に兼見の所領である吉田郷への軍勢の陣取りはしないことを伝える。
兼見が信長のもとへ礼に訪れる。銀子1枚を贈る。兼見と対面する。義昭が戦闘行為をとったため軍勢を上洛させたと伝える。また、3月8日に島田秀満が京都より岐阜城(美濃国)へ下向した際、大津(近江国)までの人足を兼見が供出してくれたことについて謝し、吉田郷への軍勢の駐留を禁止する制札を発給する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 4月8日 
巳刻(9-11時)、織田信長岐阜城(美濃国)に向けて京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正1年 1573年 8月8日 
浅井長政家臣・阿閉貞征が織田信長に内通する。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月10日 
織田信長が大づくの北山田山に軍勢を置き朝倉義景勢の越前国への通路を断つ。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月12日 
浅見対馬の手引きにより大づくの下焼尾に織田信長が軍勢を入れ、信長自ら太山大づくに籠る朝倉勢を攻撃し落とす。大づくには塚本小大膳、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛を置く。その後、丁野山に攻めかかり、同所に拠る朝倉勢が降伏する。
織田信忠が虎御前山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月13日 
織田信長朝倉義景の陣所に夜襲をかける。佐久間信盛柴田勝家滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀氏家直昌安藤守就稲葉良通、稲葉右京亮、稲葉貞通蒲生賢秀蒲生氏郷、永原筑前、進藤山城守、永田刑部少輔、多賀常則、久徳左近、阿閉貞征、阿閉孫五郎、山岡景隆、山岡孫太郎、山岡景猶に先陣を命じるも、信長は先陣を追い越し陣所に攻め入ったため、先陣の役割を果たさなかった諸将を叱責する。信長の叱責を受けた諸将は立つ瀬がないと信長に詫びるも、信盛は「自分たち程の家臣はない」と豪語したことで信長は機嫌を損ねる。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月14日 
昨夜より織田信長朝倉義景勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。斎藤龍興が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月15日 
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月16日 
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月17日 
織田信長が木芽峠を越えて越前国に侵入する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月18日 
織田信長が府中龍門寺(越前国)に陣取る。朝倉義景は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月20日 
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月26日 
織田信長が虎御前山(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日 
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正1年 1573年 9月6日 
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 9月24日 
織田信長が北伊勢に向けて岐阜城(美濃国)を発し、大垣城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 10月26日 
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 12月2日 
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

天正2年 1574年 1月1日 
岐阜城(美濃国)に諸国の武士が礼に訪れる。諸国衆の礼が終わった後、馬廻衆のみにて酒宴を開き、朝倉義景浅井久政浅井長政の首を薄濃にして衡立に載せ、それを酒の肴とする。
出典:『信長公記』巻7(1)「義景・浅井下野・浅井備前三人首御肴の事」

天正2年 1574年 1月17日 
織田信長岐阜城(美濃国)にて細川藤孝、蒲生、青地、池田、松永久秀筒井順慶畠山昭高中川清秀、閉地、関、分部、平塚を饗応する。その席にて、信長が明智光秀の子を順慶の養子とすること、光秀の娘を津田信澄に嫁がせること、細川忠興に光秀の娘を嫁がせることを命じる。
出典:『綿考輯録』巻3

天正2年 1574年 2月24日 
織田信長信忠父子が岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 3月12日 
織田信長が上洛するため岐阜城(美濃国)を発す。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 5月16日 
織田信長岐阜城(美濃国)に向けて京都を発つ。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 5月28日 
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻7(6)賀茂競馬御馬仰付けらるるの事

天正2年 1574年 6月14日 
高天神城(遠江国)の救援のため織田信長信忠父子が軍勢を率い岐阜城(美濃国)を発す。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 11月25日 
織田信長岐阜城(美濃国)へ向けて京都を発つ。
出典:『多聞院日記』同年月26日条

天正3年 1575年 2月27日 
織田信長が上洛するため岐阜城(美濃国)を発し、垂井(美濃国)に宿泊する。(『信』)
筒井順慶に娘もしくは妹を嫁がせる。同女は原田直政が順慶のもとに送り届ける。(『多』)
出典:『信長公記』巻8(1)「御分国道作仰付けらるる事」、『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 5月13日 
遠江国に侵攻した武田勝頼に対するため、織田信長信忠とともに岐阜城(美濃国)を出陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月25日 
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月27日 
21日の長篠の合戦で武田勢1000が討死し撤退したこと、それにともない織田信長岐阜城(美濃国)に帰還したと奈良(大和国)にて噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 7月17日 
京都から岐阜城(美濃国)に帰城途中の織田信長稲葉一鉄の居城である曽根城(美濃国)に立ち寄る。一鉄が孫による能を信長に見せる。
信長は岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻8(6)「禁中において親王様御鞠遊ばさるゝの事」

天正3年 1575年 10月10日 
織田信長が上洛するため岐阜城(美濃国)を発つ。垂井(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 11月14日 
織田信長岩村城(美濃国)に武田勝頼が攻め入ったとの報を受け、急ぎ岐阜城(美濃国)に向けて京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(11)「武田四郎岩村にて失勝利の事」

天正3年 1575年 11月15日 
織田信長が公家衆に新たに知行地を宛行う。(『兼』)
岐阜城(美濃国)に到着する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(11)「武田四郎岩村にて失勝利の事」

天正3年 1575年 11月24日 
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻8(12)「菅九郎殿岩村御存分に被仰付の事」

天正3年 1575年 12月2日 
勧修寺晴豊岐阜城(美濃国)より上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 1月16日 
筒井順慶岐阜城(美濃国)より筒井城(大和国)に帰る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 12月11日 
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻9(8)「三州吉良御鷹野の事」

天正4年 1576年 12月12日 
織田信長岐阜城(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻9(8)「三州吉良御鷹野の事」

天正4年 1576年 12月30日 
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊し、年を越す。
出典:『信長公記』巻9(8)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 2月9日 
織田信忠が雑賀郡(紀伊国)を攻めるため尾張衆・美濃衆を率い岐阜城(美濃国)を発ち柏原(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 8月17日 
松永久秀久通父子が、定番していた天王寺砦を引き払い信貴山城(大和国)に籠城し、信長に叛く。
出典:『信長公記』巻10(7)「松永謀叛並人質御成敗の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 10月17日 
織田信忠岐阜城(美濃国)に向け京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 12月12日 
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 12月13日 
織田信長岐阜城(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 12月19日 
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」

天正6年 1578年 1月14日 
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 1月15日 
織田信長岐阜城(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 1月20日 
織田信長の妻子が安土城(近江国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 1月23日 
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 1月24日 
織田信長岐阜城(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正7年 1579年 4月30日 
織田信忠岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 8月20日 
織田信忠荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻めるため、岐阜城(美濃国)を発つ。柏原(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正9年 1581年 1月3日 
武田勝頼高天神城(遠江国)の後詰をするとの風説につき、織田信忠岐阜城(美濃国)を発し、軍勢を率い清須城(尾張国)に入る。
出典:『信長公記』巻14「武田四郎高天神城後巻き横須賀城番手の事」

天正10年 1582年 3月6日 
織田信長のもとに仁科盛信の首が届く。信長は岐阜城(美濃国)に入り、同城に宿泊。盛信の首を長良川の河原に架ける。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月7日 
雨のため織田信長岐阜城(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月8日 
織田信長岐阜城(美濃国)より犬山城(尾張国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 4月20日 
織田信長清須城(尾張国)を発ち、岐阜城(美濃国)に入り、当城に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」

天正10年 1582年 4月21日 
織田信長岐阜城(美濃国)を発つ。呂久渡で稲葉一鉄が、今須(美濃国)にて不破直光が、柏原(近江国)にて菅屋長頼が、佐和山城(近江国)にて丹羽長秀が、山崎(美濃国)にて山崎片家が信長に一献を進上する。その後、信長は安土城(近江国)に帰城し、開陣する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」、『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 5月14日 
織田信忠岐阜城(美濃国)より安土城(近江国)に向かう途中、番場(近江国)にて丹羽長秀より一献を受ける。信忠は番場にて休息の後、安土城まで向かい、同地に入る。
出典:『信長公記』巻15(25)「家康公・穴山梅雪御上洛の事」

天正10年 1582年 6月2日 
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 7月7日 
織田信長死後の所領分配として、織田信雄に伊勢国・尾張国が、織田信孝に美濃国が、柴田勝家に長浜(近江国)20万石が、羽柴秀吉に山城国・河内国が、羽柴秀長に丹波国が、丹羽長秀に近江国高嶋郡・志賀郡が、池田恒興に河内国十七ヶ所・大坂城(摂津国)が、堀秀政に近江国中郡・織田三法師の傅役が、筒井順慶に大和国宇智郡・宇多郡と大和国一円支配が付される。
秀吉が下京の六条に城を築く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 4月21日 
賤ケ岳の合戦にて羽柴秀吉柴田勝家が戦い、秀吉が勝利する。
羽柴秀吉勢:羽柴秀吉[大将]、福島正則(一番槍)、加藤清正(一番槍)、加藤嘉明(一番槍)、片桐且元(一番槍)、脇坂安治(一番槍)、平野長泰(一番槍)、糟屋武則(一番槍)、石川一光(一番槍・戦死)、桜井家一(一番槍)、羽柴秀長藤堂高虎[羽柴秀長勢]、黒田孝高黒田長政竹森次貞[黒田孝高勢]、菅正利[黒田孝高勢](首級2)、加藤光泰
柴田勝家勢:柴田勝家[大将]、柴田勝政(戦死)、毛受勝照(戦死)、佐久間盛政拝郷家嘉(戦死)、山路正国[佐久間盛政勢](戦死)、長連龍[前田利家勢]。
出典:(天正11年)4月25日付豊臣秀吉書状(『増訂加能古文書』同年月日条「小早川家文書」)、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『黒田長政事績』、『菅氏世譜』、『藤堂家覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項、同774「加藤光泰」の項

天正11年 1583年 4月24日 
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正11年 1583年 4月29日 
織田信孝が野間(尾張国)にて切腹する。
出典:『多聞院日記』同年5月10日条

天正11年 1583年 5月25日 
奈良(大和国)にて大坂城(摂津国)が池田恒興より羽柴秀吉の所有に移り、恒興は美濃国に移ると噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 5月-日 
池田恒興大坂城(摂津国)より大垣城(美濃国)に、池田元助伊丹城(摂津国)より岐阜城(美濃国)に、池田輝政尼崎城(摂津国)より池尻城(美濃国)に移る。
出典:『池田氏家譜集成』

天正12年 1584年 -月-日 
池田利隆が美濃国岐阜にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田利隆」の項

天正12年 1584年 4月9日 
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同1153「野呂守景」の項

慶長5年 1600年 8月21日 
加藤嘉明黒田長政藤堂高虎福島正則細川忠興清須城(尾張国)より出陣し、岐阜城(美濃国)攻めの先陣として、萩原、尾越を渡り大良近辺を放火して大良堤に宿営する。
出典:『関原始末記』、『細川忠興軍功記』

慶長5年 1600年 8月22日 
浅野幸長が織田家家臣・木造左衛門佐と戦い、幸長が勝利する。
池田輝政が河向に在陣中、織田家家老・百々綱家が池田輝政勢を攻める。米野(美濃国)にて織田秀信勢と輝政・一柳直盛が戦い、輝政が勝利する。輝政は瑞龍寺口まで織田勢を追撃する。
織田秀信勢:飯沼長資(戦死)。
池田輝政勢:池田輝政、伊木忠次池田長吉(飯沼長資を討取る)。
出典:『関原始末記』、(慶長5年)8月24日付福島正則書状(『浅野家文書』114号)

慶長5年 1600年 8月23日 
福島正則池田輝政細川忠興加藤嘉明浅野幸長山内一豊井伊直政本多忠勝等が織田秀信の籠る岐阜城(美濃国)を攻め、同城を落とす。
攻衆:井伊直政[惣奉行][瑞龍寺出丸]、本多忠勝[総奉行][瑞龍寺出丸]、福島正則[大手町口]、加藤嘉明[大手町口]、細川忠興[浄土口]、山内一豊[浄土口]、浅野幸長[瑞龍寺出丸]、池田輝政[長良川の城搦手](一番乗)、細川忠隆[細川忠興勢]、細川興秋[細川忠興勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]。
織田秀信勢:織田秀信[大将]。
出典:『関原始末記』、(慶長5年)8月24日付福島正則書状(『浅野家文書』114号)、『寛政重修諸家譜』巻第105「細川忠隆」、同105「細川興秋」の項、同263「池田利隆」の項、同267「池田長吉」の項、同773「加藤嘉明」の項

慶長5年 1600年 9月13日 
徳川家康清須城(尾張国)より岐阜城(美濃国)に移る。
出典:『関原始末記』、『細川忠興軍功記』

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