人 物 史

浅井長政 あざい ながまさ
生 没 年天文14年(1545)-天正1年(1573)8/28
出 身近江国幼 名猿夜叉丸
別 称新九郎、賢政
法 名-
戒 名養源院天英宗清
浅井久政-
兄 弟 姉 妹浅井長政、浅井政元、浅井政之、岡崎安休、浅井治政、阿久、大弐局、京極マリア
配 偶 者お市(織田信秀の娘)
浅井万福丸、浅井井頼、淀/茶々、初、江/崇源院
官 位備前守、中納言[贈位]
役 職-
城 郭小谷城(近江国)
参 考 文 献浅井長政に関する参考文献
関 連 デ ー タ浅井長政の関連文化財
浅井長政の家臣
浅井長政 年表
天文14年 1545年 -月-日 1歳
浅井長政が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 11歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治2年 1556年 4月20日 12歳
長良川(美濃国)にて斎藤道三斎藤義龍が戦い、道三が戦死する。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 14歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 -月-日 16歳
浅井長政が家臣の赤尾、丁野、百々、安養寺等と相談し、父・久政を隠居させ家督を相続し、妻の平井加賀守の娘と離縁する。
出典:『江濃記』「浅井出身事」

永禄4年 1561年 4月25日 17歳
浅井長政が竹生島要脚の内、3000疋を京の八幡真慶に渡すようにと竹生島年行事に伝える。
出典:永禄4年4月25日付浅井賢政書状(「竹生島文書」『東浅井郡誌』127号)

永禄4年 1561年 5月11日 17歳
斎藤義龍が死去する。
出典:-

永禄7年 1564年 3月-日 20歳
浅井長政が軍勢6000を率い美濃国に攻め入る。
出典:『江濃記』「道三最後之事」

永禄7年 1564年 3月22日 20歳
六角承禎が軍勢14000をもって佐和山城(近江国)を包囲する。
出典:『江濃記』「佐々木承禎出張事」

永禄11年 1568年 7月16日 24歳
足利義昭織田信長の居城・岐阜城(美濃国)に向かうべく一乗谷(越前国)を発つ。朝倉景恒と前波景当が国境まで警護する。義昭は浅井長政の館に入る。
出典:『多聞院日記』同年月27日条、『綿考輯録』巻1

永禄11年 1568年 7月22日 24歳
足利義昭浅井長政の館より美濃国に移る。
出典:『多聞院日記』同年月27日条

永禄11年 1568年 7月25日 24歳
織田信長足利義昭を立政寺(美濃国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻7「信長出張之事」、『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 7月27日 24歳
立政寺(美濃国)にて織田信長足利義昭に謁す。
出典:『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 8月7日 24歳
織田信長が軍勢をともない佐和山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻1(3)「信長御憑み御請の事」

永禄11年 1568年 9月7日 24歳
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 24歳
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

永禄12年 1569年 7月2日 25歳
娘・淀殿が生まれる。
出典:-

永禄13年 1570年 4月20日 26歳
織田信長朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。武井夕庵松永久秀池田勝正(軍勢3000)が従軍する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月21日 26歳
織田信長が田中城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月22日 26歳
織田信長が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月23日 26歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 26歳
織田信長が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月25日 26歳
織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項

元亀1年 1570年 4月26日 26歳
金ヶ崎城(越前国)に籠城していた朝倉景恒織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 4月29日 26歳
織田信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月30日 26歳
越前国侵攻中の織田信長が、浅井長政の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。松永久秀等が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月10日 26歳
織田信長が軍勢20000を率い、京都(山城国)を発ち、近江国へ出陣する。三好義継松永久秀等が信長を見送る。信長は志賀(近江国)の城に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月12日 26歳
織田信長が瀬田(近江国)の山岡城(近江国)に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 5月13日 26歳
織田信長が永原(近江国)に到着する。永原城(近江国)に佐久間信盛を、長光寺城(近江国)に柴田勝家を置く。安土城(近江国)に中川重政を在番させる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 5月19日 26歳
永原城(近江国)にいる織田信長のもとに見舞いに赴いていた日乗村井貞勝が京都(山城国)に戻る。信長と六角義賢との和議が不調に終わる。信長は美濃国に向け、永原城を発ったとされる。その道中、信長は甲津畑(近江国)にて鉄砲4挺にて狙撃される。
義賢・義治父子は石部城(近江国)を軍勢20000で攻める。
出典:『言継卿記』同年月日・22日条

元亀1年 1570年 6月4日 26歳
午刻(11-13時)、落窪(近江国)にて柴田勝家佐久間信盛六角承禎義治父子が戦い、勝家等が勝利する。
申刻(15-17時)、織田勢の勝利の報が足利義昭のもとにもたらされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(6)「落窪合戦の事」、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月21日 26歳
織田信長小谷城(近江国)攻めのため虎御前山(近江国)に陣取る。坂井政尚森可成斎藤利治、市橋長勝、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破光治丸毛長照が雲雀山に陣取る。信長の命により、柴田勝家佐久間信盛蜂屋頼隆木下秀吉丹羽長秀等が小谷城の在所・谷々を焼き払う。
出典:『信長公記』巻3(7)「たけくらべかりやす取出の事」

元亀1年 1570年 6月26日 26歳
浅井久政長政父子が大寄山(近江国)に陣取る。織田信長が龍鼻(近江国)に陣取る。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月27日 26歳
徳川家康織田信長の陣取る龍鼻(近江国)に着陣する。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 26歳
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、小笠原広重、野々山元政渥美友勝
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀1年 1570年 9月16日 26歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢30000が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城(近江国)の森可成が軍勢1000で応戦し退ける。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月19日 26歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城主の森可成は応戦するも敗れる。可成、織田信治、青地茂綱、尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、道家助十郎が戦死する。浅井・朝倉勢は宇佐山城(近江国)に攻め入るも武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門に退けられる。浅井・朝倉勢は大津の馬場・松本(近江国)を放火する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月21日 26歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢が逢坂を越え醍醐・山科(山城国)を放火する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月22日 26歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢が京都に攻め入らんとしていることについて中島(摂津国)に在陣中の織田信長のもとに注進が到る。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月23日 26歳
織田信長和田惟政柴田勝家に殿を命じ、野田・福島(摂津国)を引き払い京都に向かう。江口を経由して足利義昭とともに帰洛する。
信長は吉田兼見に白川と山中の通路を封鎖するように命じる。兼見は白川、浄土寺にその旨を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月24日 26歳
織田信長本能寺より出陣し、逢坂を越え下坂本(近江国)に布陣する朝倉景健勢に攻めかかる。浅井長政・朝倉景健の軍勢は延暦寺に陣取る。これをうけ、信長は延暦寺に稲葉良通を遣わし、延暦寺に朝倉勢の引き渡しを求め、引き渡しに応じたならば延暦寺領を還付するよう伝えるが延暦寺は信長の要求を拒否する。信長は下坂本(近江国)に布陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 11月25日 26歳
堅田(近江国)の猪飼野甚介、馬場孫次郎、居初又次郎が織田信長に味方する。堅田に布陣する朝倉勢に攻めかかり、堅田を落とす。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 11月26日 26歳
堅田(近江国)にて、前波景当(浅井・朝倉勢)と坂井政尚(織田勢)が戦い、浅井・朝倉勢が勝利する。
浅井・朝倉勢:前波景当[大将](戦死)。
織田勢:坂井政尚[大将](戦死)、遠藤胤俊(戦死)。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月27日条、『尋憲記』同年12月13日条、(元亀2年)正月22日付山崎吉家書状案(『歴代古案』)、『言継卿記』同年月27日条、『寛政重修諸家譜』534「遠藤」

元亀1年 1570年 11月30日 26歳
朝倉勢の籠る堅田(近江国)を攻めを終えた織田信長に対し、足利義昭朝倉義景との和睦を勧めるため園城寺に赴く。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 12月13日 26歳
織田信長勢が瀬田(近江国)まで撤兵すること、高島郡(近江国)に人質を送ることを条件に信長と朝倉義景が和睦する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 12月14日 26歳
織田信長が軍勢を瀬田(近江国)の山岡景隆所まで戻す。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀2年 1571年 5月6日 27歳
浅井長政が姉川(近江国)まで進出し横山城(近江国)に備えつつ箕浦(近江国)を放火する。下長沢・下坂にて長政と木下秀吉が戦う。
出典:『信長公記』巻4(2)「箕浦合戦の事」、『当代記』巻1同年月日条

元亀2年 1571年 8月16日 27歳
織田信長木下秀吉の在番する横山城(近江国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 8月18日 27歳
織田信長が横山城(近江国)に着陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 8月26日 27歳
織田信長が中嶋(近江国)に陣取り余呉・木ノ本(近江国)を放火する。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 8月27日 27歳
織田信長が横山城(近江国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 9月12日 27歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 7月19日 28歳
織田信長小谷城(近江国)を攻めるべく岐阜城(美濃国)を出発し、赤坂(美濃国)に宿泊する。織田信忠が初陣として小谷城攻めに加わる。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 7月20日 28歳
織田信長信忠父子が横山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 7月21日 28歳
織田信長が、ひばり山、虎御前山に軍勢を置く。信長の命により小谷城(近江国)に押し寄せ、佐久間信盛柴田勝家木下秀吉丹羽長秀蜂屋頼隆が城下町を破る。勝家、稲葉良通氏家直昌安藤守就とともに先陣として布陣する。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 7月29日 28歳
朝倉義景が軍勢15000を引き連れ小谷城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 8月8日 28歳
朝倉義景の家臣・前波吉継が信長に寝返る。信長は吉継の寝返りを喜び御帷子、小袖、馬皆具を賜う。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 8月9日 28歳
朝倉義景の家臣 富田弥六、戸田与次、毛屋猪介が織田信長に寝返る。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 9月16日 28歳
織田信長信忠父子が岐阜城(美濃国)に戻るべく横山城(近江国)を発つ。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 11月3日 28歳
小谷城(近江国)に籠城中の浅井長政朝倉義景が、織田方の虎御前砦より宮部村(近江国)まで築かれている築地を破却すべく、浅井七郎を足軽大将として遣わすが、秀吉が退ける。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀4年 1573年 4月12日 29歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

元亀4年 1573年 7月10日 29歳
二条城(山城国)に籠城している足利義昭勢が三淵藤英を除き織田信長に降伏する。柴田勝家が開城交渉のため城内に入る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月18日 29歳
織田信長が槙島(山城国)を放火する。信長が足利義昭が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は槙島城(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 29歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 -月-日 29歳
娘・が近江国小谷城にて生まれる。
出典:-

天正1年 1573年 8月8日 29歳
浅井長政家臣・阿閉貞征が織田信長に内通する。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月10日 29歳
織田信長が大づくの北山田山に軍勢を置き朝倉義景勢の越前国への通路を断つ。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月12日 29歳
浅見対馬の手引きにより大づくの下焼尾に織田信長が軍勢を入れ、信長自ら太山大づくに籠る朝倉勢を攻撃し落とす。大づくには塚本小大膳、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛を置く。その後、丁野山に攻めかかり、同所に拠る朝倉勢が降伏する。
織田信忠が虎御前山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月13日 29歳
織田信長朝倉義景の陣所に夜襲をかける。佐久間信盛柴田勝家滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀氏家直昌安藤守就稲葉良通、稲葉右京亮、稲葉貞通蒲生賢秀蒲生氏郷、永原筑前、進藤山城守、永田刑部少輔、多賀常則、久徳左近、阿閉貞征、阿閉孫五郎、山岡景隆、山岡孫太郎、山岡景猶に先陣を命じるも、信長は先陣を追い越し陣所に攻め入ったため、先陣の役割を果たさなかった諸将を叱責する。信長の叱責を受けた諸将は立つ瀬がないと信長に詫びるも、信盛は「自分たち程の家臣はない」と豪語したことで信長は機嫌を損ねる。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月14日 29歳
昨夜より織田信長朝倉義景勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。斎藤龍興が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月15日 29歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月16日 29歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月17日 29歳
織田信長が木芽峠を越えて越前国に侵入する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月18日 29歳
織田信長が府中龍門寺(越前国)に陣取る。朝倉義景は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月20日 29歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月26日 29歳
織田信長が虎御前山(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日 29歳
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 29歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正2年 1574年 1月1日 
岐阜城(美濃国)に諸国の武士が礼に訪れる。諸国衆の礼が終わった後、馬廻衆のみにて酒宴を開き、朝倉義景浅井久政浅井長政の首を薄濃にして衡立に載せ、それを酒の肴とする。
出典:『信長公記』巻7(1)「義景・浅井下野・浅井備前三人首御肴の事」

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