和暦 |
西暦 |
月 |
日 |
年齢 |
事項 |
出典 |
- | - | - | - | - | 三淵藤英が生まれる。 | - |
天文3年 | 1534 | 4 | 22 | - | 弟・細川藤孝が生まれる。 | - |
永禄13年 | 1570 | 1 | 26 | - | 未下刻(14時)より室町幕府奉公衆方の竹内治部少輔(美濃国下向中)・三淵藤英・三淵弥四郎・一色藤長・曽我助乗・明智光秀(美濃国下向中)・摂津晴門・大和治部少輔・朽木刑部少輔・竹田法印、竹田治部卿、荒川与三、三福寺、清和院、真下式部少輔、疋田弥九郎、松林院に年頭の礼に赴く。 | 『言継卿記』同年月日条 |
永禄13年 | 1570 | 3 | 1 | - | 父・晴員が死去する。 | 『寛政重修諸家譜』巻第107「清和源氏 義家流 足利庶流 三淵」「三淵某」の項 |
元亀3年 | 1572 | 閏1 | 29 | - | 細川藤孝が兄・三淵藤英のもとを訪れる。同所にて吉田兼見に会う。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 3 | 27 | - | 織田信長の屋敷の築地普請につき、三淵藤英、細川藤孝が奉行をつとめる。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 4 | 10 | - | 織田信長の屋敷の築地が完成する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 4 | 16 | - | 三好義継、松永久秀・久通父子の攻撃を受けている安見新七郎の交野城(河内国)を救援するため、織田信長が佐久間信盛、柴田勝家、明智光秀、坂井越中守、蜂屋頼隆、斎藤利治、稲葉良通、氏家直昌、安藤守就、不破光治、丸毛長照、多賀常則、細川藤孝、三淵藤英、上野秀政、池田勝正、伊丹親興、和田惟長の軍勢20000を遣わす。 松永久秀は騎西城(河内国)に在城中という。 | 『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻5(2)「交野へ松永取出仕候、追ひ払はるゝの事」 |
元亀3年 | 1572 | 5 | 11 | - | 交野城(河内国)の救援に赴いていた軍勢が河内国より京都に帰陣する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 10 | 22 | - | 牧庵が三淵藤英、細川藤孝、吉田兼見を夕食に招く。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 7 | 3 | - | 午刻(11-13時)、足利義昭が御所を退き槙島城(山城国)に移る。御所には日野輝資、高倉永相、伊勢貞興、三淵藤英を置く。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 7 | 6 | - | 織田信長勢の先勢が大津(近江国)に着陣する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 7 | 7 | - | 午刻(11-13時)、織田信長が坂本(近江国)に着陣する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 7 | 8 | - | 織田信長勢の先勢が上洛し、祇園、四条道場に陣取る。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 7 | 9 | - | 織田信長が上洛し妙覚寺を陣所とする。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 7 | 10 | - | 二条城(山城国)に籠城している足利義昭勢が三淵藤英を除き織田信長に降伏する。柴田勝家が開城交渉のため城内に入る。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 7 | 12 | - | 柴田勝家の交渉により二条城(山城国)に籠城していた三淵藤英が退城する。藤英は伏見(山城国)に移る。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 7 | 18 | - | 織田信長が槙島(山城国)を放火する。信長が足利義昭が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は槙島城(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正2年 | 1574 | - | - | - | 三淵藤英が死去する。 | - |