寺 院 史

妙覚寺(山城国) みょうかくじ
本 尊十界曼荼羅
創 建永和4年 1378年
開 基小野妙覚
山 号具足山
宗 派日蓮宗
別 称北龍華
関連宗教施設-
現 所 在 地〒602-0007
京都府京都市上京区下清蔵口町135
旧 所 在 地四条大宮
二条衣棚

二条衣棚
史 料 地 名-
イ メ ー ジ-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
リ ン ク-
妙覚寺(山城国) 年表
永和4年・天授4年 1378年 -月-日 
小野妙覚の外護のもと日実により四条大宮に妙覚寺が創建される。
出典:-

寛正7年 1466年 -月-日 
妙覚寺と本覚寺と合併する。
出典:-

文明15年 1483年 -月-日 
妙覚寺足利義尚の命により二条衣棚に移転する。
出典:-

永禄12年 1569年 4月15日 
織田信長妙覚寺(二条衣棚)にあって若狭衆・丹波衆・摂津衆の訴訟に対応する。(『言』)
入江、今中、上松、大西、田辺を死罪とする。(『多』)
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月18日条

元亀3年 1572年 3月12日 
未刻(13-15時)、織田信長が軍勢700程を引き連れ上洛し妙覚寺に宿泊する。吉田兼見が信長への礼に訪れると、明智光秀が奏者として対応する。兼見は信長に織色1面を、塙直政に湯がけ2具を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月9日 
織田信長が上洛し妙覚寺を陣所とする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正1年 1573年 11月4日 
織田信長が上洛し、妙覚寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

天正1年 1573年 11月24日 
織田信長妙覚寺において茶会を開く。千宗易今井宗久の点前にて、松井友閑、山上宗二を招く。
出典:『今井宗久茶湯書抜』同年月日条

天正3年 1575年 9月13日 
未下刻(14時)、織田信長が上洛し、妙覚寺に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条・同年月15日条

天正3年 1575年 9月15日 
妙覚寺に宿泊している織田信長のもとに公家衆が礼に訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 10月13日 
織田信長が完成した瀬田橋を見物し、逢坂、山科、粟田口を通過し上洛する。妙覚寺に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月15日条、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月28日 
織田信長妙覚寺にて京・の茶人を召し寄せ茶会を千宗易の点前で催す。
出典:『信長公記』巻8(9)「御茶之湯の事」

天正4年 1576年 4月29日 
織田信長が安土城(近江国)を発し、未下刻(14:00)上洛する。二条にある妙覚寺に宿泊する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月3日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月2日 
公家衆の二条晴良九条兼孝一条内基、西園寺公朝、近衛信基、三条西実枝、、中山孝親菊亭晴季徳大寺公維飛鳥井雅敦山科言継庭田重保、高辻長雅、葉室頼房持明院基孝柳原淳光四辻公遠、甘露寺経元、水無瀬兼成、高倉永相、山科言経、庭田重通、勧修寺晴豊正親町実彦、中山親綱、松木宗房、中院通勝、富小路千夜叉(秀直)、唐橋尊松(在通)、烏丸光宣、五辻為仲、冷泉為純、雅敦、大炊御門経頼、日野輝資、竹内長治、東坊城盛長水無瀬親具、白川雅朝、久我季通、西洞院時通、中御門宣教、広橋兼勝、高倉永孝、冷泉、葉室長教、四辻季満、高倉範国、万里小路充房、四条隆昌、橋本実勝、冷泉俊久、薄以継、五辻元仲、五条為名、門跡衆の仁和寺守理、青蓮院尊朝、妙法院常胤、聖護院道澄大覚寺尊信、勧修寺聖信、三宝院義演、実相院が妙覚寺に滞在中の織田信長のもとに礼に訪れる。公家衆からの進物を村井貞勝が披露する。
山科言継山科言経、葉室頼房、葉室長教、冷泉、薄以継が二条晴良邸の跡地に建てた信長の屋敷を見物する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 6月6日 
織田信長が、石清水八幡宮より槙島(山城国)を経て、未刻(13-15時)に妙覚寺に入る。二条晴良昭実父子、近衛前久信基父子、飛鳥井雅敦勧修寺晴豊烏丸光康光宣父子、山科言継言経父子、持明院基孝中山孝親庭田重保葉室頼房広橋兼勝冷泉為純薄以継大乗院尋憲一乗院尊政大覚寺尊信聖護院道澄が訪れ、対面する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 6月7日 
織田信長の宿所の妙覚寺に公家衆が礼に訪れるも対面なし。
吉田兼見より林檎1折が贈られる。村井専次が披露。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 6月8日 
織田信長安土城(近江国)に向けて妙覚寺を出発する。今道を通る。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月10日条

天正5年 1577年 1月14日 
織田信長が上洛し、妙覚寺に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 2月9日 
織田信長が上洛し、妙覚寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月25日 
織田信長が雑賀郡攻めより上洛し、妙覚寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(3)「御名物被召置の事」

天正5年 1577年 10月13日 
織田信忠信貴山城より上洛し、妙覚寺に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(10)「中将信忠御位の事」

天正7年 1579年 5月27日 
織田信長安土城(近江国)にて浄土衆と日蓮衆との宗論を行う。浄土衆の勝者とし、日蓮衆の普伝、塩屋伝介を死罪とする。また、日蓮衆1000人程を久遠院に追い入れる。妙覚寺をはじめとする京都の日蓮衆の諸寺連署で、安土城での宗論は日蓮衆の負けであること、今後、他宗に対し法難をしないこと、日蓮衆が宗派として存在することを忝く思うことを誓う起請文を堀秀政菅屋長頼長谷川秀一宛に提出させる。起請文の連署者は、本能寺日幸、本圀寺日佑、妙覚寺日諦ほか。
出典:『言経卿記』同年月28日条・同年6月2日条

天正7年 1579年 11月16日 
亥刻(21-23時)、織田信長が京都の居所を二条御新造から妙覚寺に移す。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正7年 1579年 12月14日 
織田信長山崎(山城国)より妙覚寺に移る。
出典:『信長公記』巻12(18)「伊丹城相果だし御成敗の事」

天正8年 1580年 2月20日 
織田信長大坂本願寺を攻めるため上洛する。妙覚寺に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月21日条、『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月8日 
織田信長が上洛し妙覚寺に入る。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正9年 1581年 2月19日 
織田信忠北畠信雄神戸信孝が上洛する。信忠、信雄は妙覚寺に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月21日条、『信長公記』巻14(1)「御爆竹の事」

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