人 物 史

石川数正 いしかわ かずまさ
生 没 年天文2年(1533)-文禄1年(1592)
出 身-幼 名-
別 称助四郎
法 名-
戒 名-
石川康正-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
石川康長石川康勝石川康次
官 位伯耆守、出雲守
役 職-
城 郭岡崎城(三河国)、松本城(信濃国)
参 考 文 献○『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項
関 連 デ ー タ史料にみえる石川数正の呼称
石川数正の関連文化財
石川数正 年表
天文2年 1533年 -月-日 1歳
石川数正が生まれる。
出典:-

天文18年 1549年 -月-日 17歳
徳川家康が駿河国に赴く。石川数正が供奉する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項

天文23年 1554年 -月-日 22歳
子・康長が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 23歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 26歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 5月19日 28歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄4年 1561年 -月-日 29歳
石ヶ瀬(尾張国)にて徳川家康と水野信元が戦う。徳川勢として参加する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項

元亀1年 1570年 4月23日 38歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 6月26日 38歳
浅井久政長政父子が大寄山(近江国)に陣取る。織田信長が龍鼻(近江国)に陣取る。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月27日 38歳
徳川家康織田信長の陣取る龍鼻(近江国)に着陣する。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 38歳
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、野々山元政渥美友勝加藤正次
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

天正1年 1573年 7月28日 41歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 5月20日 43歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 43歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正6年 1578年 9月25日 46歳
徳川家康より国衆に通達されていた国衆の岡崎城(三河国)詰め無用の件について、石川数正平岩親吉が、松平家忠に在所(深溝(三河国)に帰るよう伝える。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月23日 47歳
武田勝頼が江尻(駿河国)に出張ってきたとの報を受け、徳川家康石川数正を介し松平家忠に26日までに浜松城(遠江国)に参集するよう命じる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月25日 47歳
武田勝頼が高天神(遠江国)・国安に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月26日 47歳
夜、徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し、馬伏塚(遠江国)に陣取る。松平信康吉田城(三河国)を発ち馬伏塚に陣取る。徳川勢の三河国衆は見付(遠江国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月27日 47歳
徳川家の三河国衆が袋井(遠江国)に陣取る。国安に陣取っていた武田勝頼勢は撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月28日 47歳
松平家忠が河井市場(遠江国)に陣替えする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月29日 47歳
松平家忠徳川家康旗本衆のいる馬伏塚(遠江国)に赴く。武田勝頼勢は大井川を越え撤退したため、徳川勢は浜松城(遠江国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月30日 47歳
三河国衆の総勢が浜松城(遠江国)より三河国に帰国する。大将衆のみが浜松城に残る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月10日 47歳
徳川家康が国衆に対して松平信康と音信を交わさないことを誓う起請文の提出を求める。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月15日 47歳
松平信康が父・家康の命により二俣(遠江国)にて自害する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 12月26日 47歳
松平家忠岡崎(三河国)に居る平岩親吉石川数正のもとに赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月15日 48歳
松平家忠岡崎(三河国)に居る平岩親吉石川数正のもとに赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 5月5日 48歳
徳川家康が朝比奈信置の籠る持船城(駿河国)を攻める。徳川勢は石川数正勢が32人討ち取られるなど損害を出し、家康は掛川(遠江国)に撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月20日 48歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し、掛川(遠江国)に入る。徳川勢は掛川・山口(遠江国)に布陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月22日 48歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が小山(遠江国)方面にて刈田をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月23日 48歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、石川数正が田中(駿河国)方面にて刈田をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月24日 48歳
本多忠勝勢が小山城(遠江国)を攻める。忠勝は敵3人を討ち取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月25日 48歳
徳川家康勢が小山城(遠江国)を攻める。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月26日 48歳
徳川家康勢が掛川(遠江国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月27日 48歳
徳川家康勢が浜松城(遠江国)に帰城する。国衆に対し、陣番を怠ることがない旨を誓う起請文を提出させる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正10年 1582年 5月20日 50歳
織田信長丹羽長秀堀秀政長谷川竹菅屋長頼徳川家康穴山梅雪の饗応を命じる。家康、信君、石川数正、酒井忠次等が饗応を受ける。
出典:『信長公記』巻15(27)「幸若大夫・梅若大夫の事」

天正10年 1582年 10月29日 50歳
徳川家康北条氏直が和睦する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正11年 1583年 5月-日 51歳
徳川家康羽柴秀吉に茶壺・初花を贈る。使者は石川数正
出典:『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項

天正12年 1584年 6月18日 52歳
織田信雄徳川家康滝川一益の守る蟹江城(尾張国)、前田長種の守る前田城(尾張国)、前田長俊の守る下市場城(尾張国)を包囲する。
出典:-

天正12年 1584年 6月22日 52歳
織田信雄徳川家康滝川一益の守る蟹江城(尾張国)を攻め、同城を落とす。この城攻めに徳川家康勢として参加する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項、同巻第26「松平康安」の項、同巻第54「松平定勝」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項

天正12年 1584年 6月23日 52歳
石川数正が攻めていた前田長種の籠る前田城(尾張国)が開城する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項

天正13年 1585年 1月11日 53歳
本願寺顕如徳川於義伊に小袖2・道服1を、石川数正に小袖2、杉田新兵衛に小袖1を音信として遣わす。使者は寺内相模
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 1月22日 53歳
徳川於義伊が貝塚本願寺にいる本願寺顕如に小姓と石川数正を遣わす。顕如は両人と対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 11月13日 53歳
石川数正羽柴秀吉のもとに出奔する。出奔時、数正は松平近正に天野又左衛門を遣わし、秀吉方に加わるよう勧誘するが、近正は再度訪れた場合は切ると言って勧誘を拒絶する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項

天正13年 1585年 11月-日 53歳
岡崎城(三河国)城主の石川数正小笠原秀政が出奔し、大坂(摂津国)に至りて羽柴秀吉に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項、『同』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

天正14年 1586年 1月12日 54歳
石川数正、石川半次郎が本願寺顕如のもとを訪れ、顕如に馬、太刀を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 10月27日 54歳
徳川家康羽柴秀吉のもとを訪れ臣従の礼をする。金100枚、縮100端を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正15年 1587年 1月25日 55歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 55歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 55歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 55歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 55歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 55歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 55歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 55歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 55歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 55歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 55歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 55歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 55歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 55歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 55歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 55歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 55歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 55歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 55歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 55歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 55歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 55歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 55歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正17年 1589年 11月-日 57歳
豊臣秀吉が北条氏成敗につき陣立書を作成する。石川数正は軍勢800で出陣することが定められる。
出典:(天正17年)11月付豊臣秀吉小田原陣陣立書(『伊達家文書』1-487号)

文禄1年 1592年 12月8日 60歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 -月-日 
石川数正が死去する
出典:『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項

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