人 物 史

以心崇伝 いしんすうでん
生 没 年永禄12年(1569)-寛永10年(1633)1/20
出 身山城国京都
俗 姓(氏)一色俗 名-
別 称金地院崇伝
院 号 坊 号金地院
一色秀勝-
兄 弟 姉 妹-
所 属 寺 社南禅寺(山城国)、福厳寺(摂津国)、禅興寺(相模国)、建長寺(相模国)
僧 位 僧 官-
諡 号円照本光国師
師 匠玄圃霊三、靖叔徳林
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる以心崇伝の呼称
以心崇伝 年表
永禄12年 1569年 -月-日 1歳
以心崇伝山城国京都にて生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 2歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 5歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正10年 1582年 6月2日 14歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

文禄1年 1592年 12月8日 24歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 28歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 30歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 12月12日 33歳
禁裏で和漢連句会が催される。参加者は、照高院道澄近衛信尹、日野資勝、中院通勝、西笑承兌、有節瑞保、梅印元冲、集雲守藤、以心崇伝
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 35歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 1月23日 37歳
三宝院義演豊臣秀頼の息災を祈祷するべ義演一人で大般若経90巻を転読し結願を迎える。
以心崇伝が義演のもとに訪れたので、非時を伴にする。
出典:『義演准后日記』同年月21・22日条

慶長10年 1605年 4月16日 37歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長16年 1611年 9月1日 43歳
徳川家康金地院崇伝を召し、雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月1日 43歳
駿府城(駿河国)にて徳川家康日野唯心、秀賢、円光寺、金地院崇伝が京都の院内や和漢・古今について論じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月2日 43歳
駿府城(駿河国)にて山科言緒舟橋秀賢冷泉為満、円光寺、金地院崇伝徳川家康に召され饗食を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月12日 44歳
江戸(武蔵国)より徳川秀忠の使者として神尾守世徳川家康のもとに訪れる。
家康が日野唯心、円光寺、以心崇伝に膳を賜い、雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月20日 44歳
森忠政駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。銀300枚、帷子10領、単物10領を献上する。
九鬼守隆が子の良隆・貞隆をともない家康に謁見する。良隆は太刀・馬・単物5領を、良隆は太刀・馬を家康に献上する。
金地院崇伝が家康のもとを訪れ、後陽成上皇の病について相談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 7月28日 44歳
駿府城(駿河国)にて徳川家康日野唯心山名禅高以心崇伝の参加のもと高野山多聞院による真言の法談が行われる。
藤堂高虎が駿府城にて能を催す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月14日 44歳
駿府城(駿河国)にて徳川家康が一乗院を呼び茶湯を催す。日野唯心金地院崇伝藤堂高虎が相伴する。古田重然が駿府城に在府中だったことから、重然が茶を点てる。この頃、重然は「数奇之宗匠」で徳川秀忠の崇敬を厚かったとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月23日 44歳
日野唯心山名豊国藤堂高虎金地院崇伝、玄陽坊が徳川家康に出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月6日 45歳
神龍院梵舜が駿府城(駿河国)に登城し、徳川家康に神道を伝授する。家康は梵舜に伝授の秘密を口外しないように伝える。その後、梵舜と金地院崇伝が仏法について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月23日 46歳
藤堂高虎が江戸(武蔵国)の自邸にて能を催す。南光坊天海、慈性、細川忠興毛利秀就毛利秀元立花宗茂金地院崇伝等が見物する。
出典:『慈性日記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月3日 46歳
8月3日に方廣寺大仏殿の大仏開眼供養が行われ、導師は仁和寺門跡であるとの勅諚が出たことを、金地院崇伝徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月8日 46歳
南光坊天海徳川家康方廣寺(山城国)の大仏開眼供養のことについて、仁和寺門跡が出仕することへの異論を訴える。家康は以心崇伝を介し片桐且元に、近年の事例ではなく聖武天皇や源頼朝の時代の例を調べるよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月18日 46歳
京都(山城国)の板倉勝重片桐且元より以心崇伝をもって駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)の大仏開眼供養について報告がある。8月3日の朝、仁和寺門跡を導師とし、日中の供養は天台宗を左座とすること、鷹司が大仏殿に着座し、公家衆は堂内に着座することなどを伝える。なお、頼朝時代の開眼供養について、家康が『吾妻鑑』を読ませる。
多武峰(大和国)が崩れ、大織冠社檀が破損したこと、ただし藤原鎌足像は無事で他所に移したことを崇伝と竹林坊が家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月21日 46歳
飛鳥井中納言が徳川家康に『源氏物語』を講釈する。
駿府城(駿河国)数寄屋にて家康が近習4、5人と金地院崇伝板倉重昌を召し、方廣寺(山城国)の鐘の銘文が「関東不吉」であると述べたうえで、上棟式の日程についても吉日ではないとして立腹する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月26日 46歳
南光坊天海徳川家康に天台血脈を伝授する。
片桐且元板倉勝重の書状が家康のもとに届く。内容は方廣寺大仏供養は8月3日、開眼供養は8月18日にするようにとの家康の指示だが、18日は豊国臨時祭のため3日に開眼供養を開催したいと豊臣秀頼が述べていたことを伝える。家康はこの返事として、大仏供養のことについて棟札の記載と鐘の銘文に立腹していることを伝え、頼朝時代には大仏開眼と堂供養は分けて実施しているので先例に倣うようにと本多正純金地院崇伝をして伝えさせる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月1日 46歳
駿府城(駿河国)にいる徳川家康が、南光坊天海、以心伝心、東大寺衆、日野唯心、飛鳥井雅庸、冷泉為満、唐橋と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月18日 46歳
板倉重昌が京都より駿府城(駿河国)の徳川家康のもとに戻る。方廣寺大仏殿梵鐘の銘文について五山碩学の長老7人の批判文を持参する。家康はその批判文を読んだうえで、南光坊天海以心崇伝林羅山を呼び、批判文より英叟清韓の文書の難点を指摘するよう命じる。
片桐且元が丸子寺に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月20日 46歳
徳川家康以心崇伝本多正純方廣寺(山城国)に棟札・鐘銘がどこで食い違ったのか、また豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることについて不審の念を述べる。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月7日 46歳
本多正純が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に戻る。徳川家康片桐且元のもとに正純・金地院崇伝を遣わし、家康の意向として、豊臣秀頼から且元・片桐貞隆に知行給付するようすると伝える。断れば不義となることを且元兄弟に伝える。また、秀頼が家康・秀忠父子を調伏しているとの風説があることを伝える。大蔵卿局にも同じことを伝える。
舟橋秀賢の子が家康に継目の礼をする。秀賢の遺物である『三代実録』50巻を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月8日 46歳
徳川家康南光坊天海以心崇伝、宝性院、飛鳥井雅庸、冷泉為満に重陽の御服2領ずつを賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月8日 46歳
南光坊天海二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。薬樹院・竹林坊が家康に出仕する。日野唯心金地院崇伝、公家衆が家康のもとに出仕する。
家康が園城寺(近江国)寺僧、法泉院、光浄院を召し出し、崇伝をもって、本覚坊から訴えのあった照高院道勝による関東調伏の件を尋ねる。園城寺僧は本覚坊は不義僧で、最近は大徳寺(山城国)を徘徊しており、照高院道勝と園城寺僧と関係が悪く、ゆえにこの訴えのような虚説を述べているという。以前、園城寺は聖護院・実相院・円満院の三門跡で管理していたが、豊臣秀吉の命により聖護院一人による管理となったため、近年は照高院道勝と園城寺の関係は悪い。したがって照高院道勝と園城寺が一体となって関東調伏をすることはありえないと回答する。この回答をうけ、本覚坊を呼び出し反論がないか確かめるようにと家康は指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月9日 46歳
徳川家康南光坊天海金地院崇伝を召し出し雑談する。諸家記録の写本を作成する件で、『日本後紀』、『弘仁貞観格式』、『類聚国史』、『類聚三代格』は仙洞御所に所蔵されているのか家康が問う。天海は仙洞御所所蔵h本の書写してもよいとの許可を得たことをを報告する。林羅山は『扶桑略記』を閲覧し、平将門・藤原純友の謀反が詳しく記載されていたことを話す。
達磨寺(摂津国)に制札を下付する。担当は本多正純
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月23日 46歳
日野唯心以心崇伝徳川家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月29日 46歳
勅使の広橋兼勝、三条実條が住吉(摂津国)にいる徳川家康に対面する。勅使に日野唯心、飛鳥井雅庸、以心伝心も同行する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月1日 46歳
日野唯心金地院崇伝池田利隆池田忠継森忠政有馬豊氏が諸勢が天満(摂津国)に入ったことを徳川家康に報告する。物見の服部権太、島弥左衛門が池田勢等が天満に入ったことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月4日 46歳
夜、金地院崇伝、廓山が家康に対面する。総攻めの日取り書を崇伝が読みあげる。5日、廓山は奈良に戻るとされる。廓山は、家康の命により、昨冬より浄土宗でありながら唯識論を学んでいるという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 46歳
六条有慶、冷泉為満山科言緒徳川家康に対面する。金地院崇伝が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月8日 46歳
五山僧衆が徳川家康に対面する。金地院崇伝が取り次ぐ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月10日 46歳
以心崇伝徳川家康に日取書物を読む。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 46歳
徳川家康南光坊天海金地院崇伝と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 46歳
勅使の広橋兼勝・三条実條が徳川家康のもとに到着する。寒天につき家康が上洛するか、和睦するかを尋ねるもので、日野唯心以心崇伝を介し家康に問う。家康は上洛せず在陣し、和睦はしないと返答する。和睦をしない理由は、もし和睦が成立しなかった場合、「天子命」が軽んぜられることになるためとする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月23日 46歳
以心崇伝日野唯心徳川家康のもとに赴く。崇伝・唯心は、公家の諸記録の書写の件で、古今礼儀式法に誤りがあれば報告するようにと家康が公家衆に尋ねた件で、公家からの誤りの指摘はなかったことを家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月24日 46歳
日の出前、茶臼山(摂津国)の徳川家康の本陣の小姓衆小屋5、6軒が焼失する。松平正久板倉重昌、加賀爪忠澄が本陣の門を堅守し、人の出入りを止める。
徳川秀忠は家康と対面し相談する。秀忠が退去後、本多正信土井利勝が家康のもとに残る。
織田有楽大野治長が人質の大野治徳、織田尚長を連れ家康に対面する。京極忠高も家康のもとに参上する。有楽・治長は服3領を、治徳・尚長は服2領を家康に献上する。有楽は十徳、治長は羽織袴を着する。その場に藤堂高虎本多正信が列席する。家康は有楽、治長に大坂城(摂津国)城中の堀・櫓の破却を早々に着手するように伝える。
巳刻(9-11時)、家康が諸大名を引見する。前田利光福島忠勝浅野長晟鍋島勝茂細川忠利寺沢広高池田利隆池田忠継池田忠雄森忠政有馬豊氏稲葉典通京極高知山内忠義堀尾忠晴加藤明成南部利直毛利秀就毛利秀元吉川広家福原広俊松平忠直、松平忠昌、松平信吉、榊原康勝本多忠朝本多忠政松平清正本多康紀松平忠利、水野勝成と対面する。
家康が南光坊天海金地院崇伝と対面し雑談する。
家康が天海の執り成しにより鷹匠・小栗忠蔵を赦免する。
秀忠が佐和山(近江国)を井伊直孝に給付する。その旨を秀忠が利勝を介し家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月26日 46歳
金地院崇伝林羅山徳川家康に命じられていた記録の内、旧事紀、古事記、続日本紀、文徳実録、三代実録、江次第、明月記、続文粋、菅家文集、西宮記、釈日本紀、内裡式、山槐記、類聚三代格等を献じる。
夕方、片桐且元が家康に対面する。板倉勝重が同席する。
家康が廓山と仏法について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月27日 46歳
徳川家康以心崇伝、清林と対面する。
本多成重が家康に鱈を献上する。
家康が28日に参内するこをと板倉勝重に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月29日 46歳
徳川家康以心崇伝南光坊天海、信乗院、知恩院八宮、大覚寺門跡、一乗院、広橋大納言、三条大納言と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月19日 47歳
金地院崇伝林羅山駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康より収集の命があった書籍が、後に到着することを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月4日 47歳
本多正純金地院崇伝が花隈(摂津国)に在陣中の細川忠興に対し、藤堂高虎に加勢するようにと命を下す。
出典:『綿考輯録』巻19

慶長20年 1615年 6月30日 47歳
徳川家康二条城(山城国)の前殿に出座する。金地院崇伝南光坊天海、智積院、勧学院が侍る。林羅山が駿府(駿河国)より持参した新板大蔵経を見物する。文字の鮮明さを皆が称える。印刷した125部の1部ずつを諸寺に配布するよう家康が命じる。
天海が天台宗以外の僧が紫衣を着するのを禁じ、僧正にも任じないようにすべきと家康に進言する。これを聞き多聞院が、家康にそのようなことを進言するのは控えるべきとし、すでに空海が紫衣を着しており、また高野山、東寺、醍醐寺の僧は僧正に任じられた僧がすでにおり、昔からそれが続いていると反論する。天海がその反論に口を閉ざす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月6日 47歳
徳川秀忠南禅寺金地院末寺の真観寺(河内国)に1000石を給付する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月9日 47歳
金地院崇伝が久遠寺(甲斐国)より取り寄せた『本朝文粋』2部について、それを五山僧に書写させていたが、第1巻に不足のところがあったためが、林羅山が京都(山城国)にて同書を探し出し、久遠山本を補う。徳川家康は羅山の働きを賞す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月15日 47歳
南光坊天海金地院崇伝、その他の天台宗僧、真言宗僧が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
法隆寺阿弥陀院の遺物である唯識論、諸疏等の書籍1箱を中井正清が崇伝を介し家康に見せる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月18日 47歳
金地院崇伝天海、竹林坊が、二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れ、仏法について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月25日 47歳
二条城(山城国)にて天台論議が行われる。題は「戒定恵三学備て即身成仏歟、戒法はかりにて成仏歟」。講師は実報院、精義は恵心院。
東寺宝護院が『果宝無尽蔵』を家康のもとに持参する。以心崇伝が取り次ぐ。
南光坊天海が家康に天台法問を伝授する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月2日 47歳
以心崇伝二条城(山城国)にいる徳川家康に武家諸法度の草案を見せる。家康は、伏見城(山城国)にいる徳川秀忠に見せるようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月7日 47歳
早朝、伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに諸大名が出仕する。秀忠は武家諸法度13ヶ条を諸大名の前で以心崇伝に読ませる。
伏見城にて能が催される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月9日 47歳
徳川家康二条城(山城国)前殿に出座する。家康は南光坊天海以心崇伝を召し、豊国神社(山城国)について破却したいところであるが、祭神である豊臣秀吉方廣寺大仏(山城国)の鎮守であるので、大仏殿の回廊裏に遷座を考えているが、どうかと尋ねる。天海・崇伝いずでも、家康の意図でしかるべしと返答する。そこで家康は、板倉勝重を召し寄せ、妙法院門跡を方廣寺住持とし1000石を加増する旨を伝える。照高院興意については、家康・秀忠父子の調伏祈祷をしていたので思うところはあるが、ひとまず聖護院に移すこととする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月10日 47歳
徳川家康以心崇伝、多聞院を召し出し、高野山(紀伊国)に悪僧がおり、宝性院の什物を隠匿しているとの噂があるので捜索するようにと命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 47歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月17日 47歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き対面する。
家康は、公家諸法度を伝奏、二条昭実、三条実條、今出川晴季、公家衆に聞かせるべく広橋兼勝に読ませる。以心崇伝が同席する。
八条宮智仁が家康に礼をする。太刀・馬を贈る。
伏見宮邦清が家康に礼をする。小高檀紙10束を贈る。
九条忠栄が家康に礼をする。帷子・太刀・馬を贈る。
巳刻(9-11時)、能が催される。智仁、邦清、昭実、忠栄、一条、鷹司、近衛、晴季が参席し、七五三の饗応を受ける。織田常真日野唯心、両伝奏、花山院などの諸公家数十人、秀忠に供奉した武士は饗応を受ける。申下刻(16時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月19日 47歳
中院通勝が二条城(山城国)にいる徳川家康に礼をする。以心崇伝日野唯心冷泉為満が取り成す。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月24日 47歳
宝亀院が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。宝性院の遺跡について家康に勘気を蒙ったが、宝亀院の申し開きにより許される。家康よりますます仏法に励むよう言い渡される。
家康が五山碩学料を給付する。保長老、藤長老が家康に対面する。五山、大徳寺(山城国)、妙心寺(山城国)、永平寺、総持寺、新義真言、古儀真言、浄土宗の法度を家康が言い渡す。以心崇伝が担当する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月29日 47歳
徳川家康二条城(山城国)の数寄屋にて中院通勝に『源氏物語』箒木巻を読ませる。金地院崇伝冷泉為満が同席する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月2日 47歳
二条城(山城国)の数寄屋にて徳川家康が中院通勝に『源氏物語』箒木巻を読ませる。
家康が大徳寺(山城国)の長老・天叔、松岳、玉室を召し出し、仏教のことをひとりずつ問う。南光坊天海金地院崇伝が同席する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月27日 47歳
金地院崇伝南禅寺(山城国)より駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに出仕する。真観寺の住持でもある崇伝に家康は八尾(河内国)のことを問う。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 48歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和3年 1617年 2月20日 49歳
金地院崇伝が江戸(武蔵国)に向かって南禅寺(山城国)を発つ。
出典:『本光国師日記』同年月日条

元和3年 1617年 2月21日 49歳
禁裏が徳川家康に東照大権現の神号を与える。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和3年 1617年 2月27日 49歳
金地院崇伝駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『本光国師日記』同年月日条

元和3年 1617年 3月4日 49歳
金地院崇伝が江戸(武蔵国)に到着する。
出典:『本光国師日記』同年月日条

元和3年 1617年 4月8日 49歳
久能山に安置されていた徳川家康の棺を日光東照社の廟塔に移す。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和3年 1617年 4月16日 49歳
久能山に安置されていた徳川家康の神体を日光東照社に移す。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和3年 1617年 9月15日 49歳
伊達政宗が伏見の邸にて金地院崇伝を茶の湯に招く。
出典:『本光国師日記』同年月日条

元和3年 1617年 9月16日 49歳
織田有楽斎が茶の湯を催す。金地院崇伝を招く。
出典:『本光国師日記』同年月日条

元和3年 1617年 9月25日 49歳
後陽成上皇が崩御する。
出典:-

元和3年 1617年 10月8日 49歳
織田有楽斎が茶の湯を催す。金地院崇伝を招く。
出典:『本光国師日記』同年月日条

寛永1年 1624年 2月30日 56歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永9年 1632年 1月24日 64歳
徳川秀忠が死去する。
出典:-

寛永10年 1633年 1月20日 65歳
以心崇伝江戸城(武蔵国)城内にある金地院にて死去する。
出典:-

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.