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総年表


貞治6年・正平22年 1367年 4月26日
足利基氏が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第78「足利基氏」の項

貞治6年・正平22年 1367年 7月13日
斯波高経が死去する。
出典:-

貞治6年・正平22年 1367年 9月7日
「中国大将」細川頼之が大軍を率い上洛し嵯峨(山城国)に陣取る。
出典:『師守記』同年月日条

貞治6年・正平22年 1367年 9月14日
「中国大将」細川頼之が嵯峨(山城国)より六角万里小路に移る。
出典:『師守記』同年月日条

貞治6年・正平22年 1367年 9月9日
細川頼之が「武家執事」として上洛したと噂される。また、頼之の上洛を受け、山名時氏が不満を募らせており、いずれ「天下之乱」が生じるのではと世間で噂される。
出典:『後愚昧記』同年月日条

貞治6年・正平22年 1367年 11月25日
足利義詮が政務を子・義満に譲り、細川頼之を管領とする。
出典:『愚管記』同年月26日条

貞治6年・正平22年 1367年 12月7日
足利義詮が死去する。
出典:-

正平23年 1368年 3月11日
後村上天皇が崩御する。
出典:-

応安1年・正平23年 1368年 4月15日
足利義満が元服する。理髪役は細川業氏。
出典:『愚管記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川業氏」の項

応安1年・正平23年 1368年 4月15日
細川頼之が武蔵守となる。
出典:『愚管記』同年月日条

応安1年・正平23年 1368年 6月23日
足利義満の名代として細川頼之が石清水八幡宮に参詣する。
出典:『石清水八幡宮記録』

応安1年 1368年 8月29日
日吉社の神輿が入洛する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

応安2年・正平24年 1369年 4月2日
楠木正儀が上洛する。夜、正儀が細川頼之と対面する。
出典:『花営三代記』同年月日条

応安2年・正平24年 1369年 4月3日
夜、楠木正儀足利義満と対面する。
出典:『花営三代記』同年月日条

応安2年・正平24年 1369年 4月20日
日吉社の神輿が入洛する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

応安2年・正平24年 1369年 4月22日
楠木正儀が河内十七箇所に下向する。
出典:『花営三代記』同年月日条

応安2年・正平24年 1369年 8月3日
日吉社の神輿が帰座する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

応安3年・正平25年 1370年 6月7日
六角氏頼が死去する。
出典:-

応安3年・正平25年 1370年 6月21日
細川業氏が評定衆となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川業氏」の項

応安3年・建徳1年 1370年 7月24日
「正平」より「建徳」に南朝の年号が改まる。
出典:-

応安3年・建徳1年 1370年 11月29日
石清水八幡宮の神輿が帰座する。この神輿帰座を契機に、細川頼之と土岐頼康の私戦が行われるのでは噂されるが、合戦が起きず。
出典:『後愚昧記』同年月日条

応安3年・建徳1年 1370年 12月15日
土岐頼康が京都より尾張国に下向する。
出典:『後愚昧記』同年月日条、『花営三代記』同年月日条

応安4年・建徳2年 1371年 3月28日
山名時氏が死去する。
出典:-

応安4年・建徳2年 1371年 4月1日
細川頼之が子息を南朝に送っている土佐国人・佐川氏を討つべく、佐川氏の居住している智恵光院に自身の被官軍勢と侍所の軍勢を派遣し、佐川氏を討つ。
出典:『後愚昧記』同年月日条、『花営三代記』同年月日条

応安4年・建徳2年 1371年 11月29日
赤松則祐が死去する。
出典:-

応安5年・文中1年 1372年 9月26日
細川頼之が管領の職を辞し、四国に下向せんとする。足利義満が頼之を説得し、頼之に管領職辞退を止める。
出典:『愚管記』同年月日条

応安6年・文中2年 1373年 3月28日
南朝の行宮・天野を攻めるため大将として細川氏春が淡路国を出国し、尼崎(摂津国)に到着する。
出典:『花営三代記』同年月日条

応安6年・文中2年 1373年 8月10日
細川氏春・赤松光範が楠木正儀の手引きにより南朝の行宮所・天野(河内国)に攻め入り、同所を落とす。長慶天皇は天野より逃亡する。南朝方は四条隆資が戦死する。
出典:『後愚昧記』同年月13日条、『愚管記』同年月12日条

応安6年・文中2年 1373年 8月25日
佐々木道誉が死去する。
出典:-

応安6年・文中2年 1373年 11月16日
菊池武光が死去する。
出典:-

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