天正13年 1585年 3月10日 |
左大臣に就任する。 |
出典:『系図纂要』「近衛家」 |
天正13年 1585年 3月10日 |
羽柴秀吉が内大臣に任じられる。秀吉は施薬院全宗所より参内し、天皇に銀100枚、親王に銀50枚、若宮に銀20枚、局方に銀3枚を献上する。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条、『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』) |
天正13年 1585年 3月12日 |
細川忠興が大坂(摂津国)に下向する。 |
出典:『兼見卿記』同年月日条 |
天正13年 1585年 3月14日 |
教如が堺に入る。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 3月15日 |
本願寺顕如が羽柴秀吉に内大臣就任の礼として1腰、馬代20貫を贈る。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 3月16日 |
下間頼廉邸の庭で花見に本願寺顕如・教如父子が赴く。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 3月17日 |
羽柴秀吉が雑賀(紀伊国)攻めにつき、警固船を動員した小早川隆景に対し、羽柴方の船大将である中村一氏・仙石秀久・九鬼嘉隆と相談の上、軍事行動をとる事、軍勢および水主の兵粮を羽柴方から供出することを伝える。 |
出典:(天正13年)3月17日付羽柴秀吉書状(『小早川家文書』1-280号) |
天正13年 1585年 3月19日 |
羽柴秀吉が加藤清正に河内国錦郡内宇礼志村・錦郡村で434石を新恩として宛がう。 |
出典:天正13年3月19日付羽柴秀吉宛行状(「加藤文書」)(『大史』11-14 p75) |
天正13年 1585年 3月20日 |
羽柴秀次が根来寺・雑賀衆攻め先勢として出陣する。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 3月21日 |
教如・興正寺顕尊兄弟が根来寺・雑賀衆攻めのため大坂城(摂津国)を出立した羽柴秀吉を大津(和泉国)にて迎える。顕如は病のため見舞いに赴けず。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 3月21日 |
羽柴秀吉が根来寺・雑賀衆を攻めるため出陣する。 大津(和泉国)にて、教如、興正寺顕尊の迎えを受ける。 八半時、岸和田城(和泉国)に入城する。千石堀城を攻め、籠城した根来寺衆を悉く討ち果たし放火する。秀吉出陣中に百姓持ちの富中城は自焼する。雑賀衆の籠る澤城に攻め寄せるが鉄砲衆に苦戦する。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 3月22日 |
根来寺衆が籠城する積善寺城が開城する。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 3月23日 |
本願寺顕如が紀伊国に出征中の羽柴秀吉に礼として下間頼廉、下間豊前を遣わす。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 3月23日 |
雑賀衆が籠城する澤城が開城する。ついで羽柴秀吉は根来寺に軍勢を遣わす。根来寺は雑賀衆と内輪もめを起こし自焼する。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 3月24日 |
雑賀御坊より本願寺顕如に注進が入り、羽柴秀吉の雑賀・根来寺討伐につき、雑賀御坊寺内・宇治・岡は無事であるが、添・中島はすべて放火された旨が伝えられる。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 3月25日 |
羽柴秀吉が雑賀(紀伊国)に到着する。紀三井寺に参詣する。 秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)に使者として中村一氏と案内者として鈴木重秀を遣わし、降伏を勧めるが、左近はその申し出を拒否する。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条、『太田水責記』 |
天正13年 1585年 3月25日 |
吉田兼見が施薬院全宗に音信を遣わす。諸方から音信を受けるているという。 |
出典:『兼見卿記』同年月日条 |
天正13年 1585年 3月26日 |
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにすることとし、朝から城廻りに柵および堤防の普請を始める。 |
出典:『太田水責記』 |
天正13年 1585年 3月27日 |
本願寺顕如が紀伊国にいる羽柴秀吉のもとに遣わした下間頼廉、下間豊前が貝塚本願寺に帰城する。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 3月29日 |
吉田兼見が細川忠興に焼鮒10を贈る。 |
出典:『兼見卿記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月1日 |
施薬院全宗が吉田兼見に音信として鯛5、海老20、下樽桶2と書状を送る。 |
出典:『兼見卿記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月1日 |
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにすべく、宮井・小倉井より注水を開始する。 |
出典:『太田水責記』 |
天正13年 1585年 4月9日 |
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにしている最中、酉刻(17-19時)、宇喜多秀家持ち場の堤防が切れる。 |
出典:『太田水責記』 |
天正13年 1585年 4月2日 |
本願寺顕如が羽柴秀吉のもとへ下間頼廉を遣わす。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月2日 |
本願寺顕如が羽柴秀吉のもとへ下間頼廉を遣わす。 前田利家より、先に顕如から寺内相模を音信として派遣したことに対する返礼の使者として金沢在京人・念西の門徒がやってくる。太刀・馬・綿30把・蝋燭50挺が利家より贈られる。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月2日 |
本願寺顕如より音信の返礼として金沢在京人・念西の門徒を遣わす。この日、門徒は貝塚本願寺に到着し、顕如に太刀・馬・綿30把・蝋燭50挺を贈る。 |
出典:『信長公記』巻15 越中富山の城、神保越中居城謀叛の事 |
天正13年 1585年 4月3日 |
本願寺顕如が、子・教如、興正寺顕尊を紀伊国にいる羽柴秀吉のもとへ陣中見舞いとして遣わす。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月4日 |
本願寺顕如が遣わした子・教如、興正寺顕尊が土橋平之丞の城内にいた羽柴秀吉と対面する。教如より猩々皮1枚、道服2、銀50枚、顕尊より縮30端、瓶10対を秀吉に贈る。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月5日 |
子・教如、興正寺顕尊が貝塚本願寺に帰寺する。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月5日 |
細川幽斎の妻・麝香が上洛する。 |
出典:『兼見卿記』同年月日条 |