人 物 史

中村一氏 なかむら かずうじ
生 没 年?-慶長5年(1600)7/17
出 身-幼 名-
別 称孫平次
法 名-
戒 名大龍院殿一源心公大禅定門
中村一政-
兄 弟 姉 妹中村一氏、中村一栄、女(横田村詮の妻)
配 偶 者せん(安養院 池田恒興の娘)
中村一忠、中村甚左衛門
官 位式部少輔
役 職-
城 郭岸和田城(和泉国)、水口岡山城(近江国)、駿府城(駿河国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる中村一氏の呼称
中村一氏の関連文化財
中村一氏の家臣
中村一氏 年表
- -年 -月-日 
中村一氏が生まれる。
出典:-

天正10年 1582年 10月25日 
根来寺衆の泉南侵攻にともない、羽柴勢の先勢として浅野長政中村一氏、伊藤掃部、筒井順慶、若江三人衆、三好信吉三好康長が泉南に出陣する。
出典:天正10年10月22日付羽柴秀吉書状(『浅野家文書』9号)

天正11年 1583年 7月4日 
雑賀衆の案内により紀伊から貝塚(和泉国)に移る。雑賀衆のうち貝塚までは平太夫、根太夫、明道、船頭の佐之助が、嘉祥寺までは刑部助、刑部大夫、刑部大夫弟が案内する。
羽柴秀吉へ音信として円山内匠を遣わし大樽10を贈る。浅野長政石田佐吉堀秀政羽柴秀長にも書状を遣わす。ただし長政には以前に送った音信が留守のため渡せなかったので、下間頼廉の書状にて音信として銀5枚を贈る。
岸和田城(和泉国)の中村一氏へ頼廉の折紙を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 11月20日 
本願寺顕如中村一氏のもとへ益田照従を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 1月16日 
中村一氏が年頭の礼として貝塚本願寺にいる本願寺顕如のもとを訪れる。顕如は一氏に対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 1月21日 
本願寺顕如中村一氏に年頭の礼の返礼として音信を遣わす。使者は下間頼廉下間仲孝
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 3月21日 
根来寺衆、雑賀奥衆が和泉国に攻め入る。雑賀衆が中村一氏の籠る岸和田城(和泉国)を攻めるが、一氏が退ける。
出典:『宇野主水記』同年月日条、『多聞院日記』同年月22日条

天正12年 1584年 3月22日 
中村一氏が貝塚本願寺にいる本願寺顕如のもとに礼としてやってくる。顕如は一氏と御影堂にて対面し盃を与える。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 4月9日 
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正12年 1584年 8月4日 
羽柴秀吉に烏帽子形城(河内国)の普請を命じられた中村一氏のもとに本願寺顕如が音信として鍬50丁を送る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 1月5日 
浅野長政中村一氏本願寺顕如のもとへ礼として赴く。顕如は両名に対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 3月17日 
羽柴秀吉が雑賀(紀伊国)攻めにつき、警固船を動員した小早川隆景に対し、羽柴方の船大将である中村一氏仙石秀久九鬼嘉隆と相談の上、軍事行動をとる事、軍勢および水主の兵粮を羽柴方から供出することを伝える。
出典:(天正13年)3月17日付羽柴秀吉書状(『小早川家文書』1-280号)

天正13年 1585年 3月25日 
羽柴秀吉が雑賀(紀伊国)に到着する。紀三井寺に参詣する。
秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)に使者として中村一氏と案内者として鈴木重秀を遣わし、降伏を勧めるが、左近はその申し出を拒否する。
出典:『宇野主水記』同年月日条、『太田水責記』

天正13年 1585年 3月26日 
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにすることとし、朝から城廻りに柵および堤防の普請を始める。
出典:『太田水責記』

天正13年 1585年 4月1日 
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにすべく、宮井・小倉井より注水を開始する。
出典:『太田水責記』

天正13年 1585年 4月9日 
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにしている最中、酉刻(17-19時)、宇喜多秀家持ち場の堤防が切れる。
出典:『太田水責記』

天正13年 1585年 4月13日 
本願寺顕如が紀伊国奥郡に出陣中の中村一氏に音信として小袖3、馬、樽3を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月22日 
蜂須賀正勝、前野長康が起請文をもって、水攻め中の太田城(紀伊国)に籠る太田左近と和睦する。和睦の条件は、羽柴勢が51名戦死したため、太田城側も左近をはじめ主要の者51名の切腹を条件とする。
羽柴秀吉が鉄砲筒・腰刀を徴発する(原刀狩令)。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 5月8日 
本願寺顕如が、岸和田(和泉国)から甲賀(近江国)に移封となった中村一氏のもとに音信として下間頼廉を遣わし、縮20端・道服を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 7月11日 
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 11月25日 
中村一氏本願寺顕如のもとに礼に訪れる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正18年 1590年 3月29日 
豊臣秀吉が箱根山に着陣する。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 3月29日 
豊臣秀次が松田康長が籠る山中城(伊豆国)攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀次[大将]、中村一氏[先陣]、一柳直末[先陣](戦死)、渡辺了[中村一氏勢]、薮内匠[中村一氏勢]。
北条勢:松田康長[大将](戦死)。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 3月29日 
豊臣勢が韮山城(伊豆国)を包囲する。
豊臣勢[44100]:織田信雄[軍勢17000]、織田信包[軍勢3200]、蒲生氏郷[軍勢4000]、稲葉貞通[軍勢1200]、細川忠興[軍勢2700]、森忠政[軍勢2100]、中川秀政[軍勢2000]、山崎・岡本良勝[軍勢2200]、筒井定次[軍勢1500]、生駒親正[軍勢2200]、蜂須賀家政[軍勢2500]、福島正則[軍勢1800]、戸田勝隆[軍勢1700]。
北条勢:富田直久(戦死)。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 12月28日 
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

文禄4年 1595年 7月3日 
豊臣秀次に謀叛の疑いがあるとして、豊臣秀吉前田玄以富田一白増田長盛石田三成を秀次のもとに遣わす。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月8日 
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

慶長3年 1598年 8月18日 
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 1月18日 
朝、舟橋秀賢中村一氏のもとに年始の礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長5年 1600年 6月16日 
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 6月25日 
徳川家康駿府城(駿河国)二ノ丸にて城主・中村一氏の名代・横田村詮の饗応を受ける。その後、輿に乗って訪れた一氏と対面し、一氏を労わる。夜、清見寺(駿河国)に宿泊する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月2日 
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月17日 
中村一氏が死去する。
出典:-

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