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事項 |
出典 |
永禄7年 | 1564 | 1 | 22 | 1 | 顕尊が生まれる。 | 『大谷嫡流実記』「顕尊」の項 |
永禄12年 | 1569 | 8 | 20 | 6 | 顕尊が本願寺門跡の脇門跡に補任される。 | 『大谷本願寺通紀』巻2「証如」の項 |
元亀1年 | 1570 | 9 | 12 | 7 | 足利義昭、織田信長が海老江(摂津国)に陣を移し、三好長逸、岩成友通、三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、斎藤龍興、長井道利の籠る野田・福島(摂津国)を攻める。長逸等は信長に降伏を申し出るが信長に断られる。 本願寺顕如が義昭、信長を攻撃する。 | 『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条 |
元亀1年 | 1570 | 9 | 13 | 7 | 本願寺顕如が織田方の楼の岸砦、川口砦に攻め入る。 | 『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」 |
元亀1年 | 1570 | 9 | 14 | 7 | 本願寺顕如が天満が森に攻め入る。かすがゐ堤の合戦で織田信長と大坂本願寺勢が戦い、信長が本願寺勢を退ける。この戦いで織田勢の第1陣を佐々成政が、第2陣を前田利家がつとめる。成政は負傷し撤退する。 | 『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」 |
元亀1年 | 1570 | 9 | 23 | 7 | 織田信長が和田惟政、柴田勝家に殿を命じ、野田・福島(摂津国)を引き払い京都に向かう。江口を経由して足利義昭とともに帰洛する。 信長は吉田兼見に白川と山中の通路を封鎖するように命じる。兼見は白川、浄土寺にその旨を命じる。 | 『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」 |
天正2年 | 1574 | 4 | 3 | 11 | 大坂本願寺にて本願寺顕如が率いる一向一揆が織田信長に対し挙兵する。 | 『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事 |
天正2年 | 1574 | 7 | 20 | 11 | 中島(摂津国)にて荒木村重と一向一揆勢が戦い、一揆勢が勝利する。 | 『多聞院日記』同年月24日条 |
天正2年 | 1574 | 9 | 29 | 11 | 織田信長の願証寺(長島)包囲につき、餓死者が続出する。これにより信長に降伏を申し入れ、船にて寺を退散する一向一揆勢が鉄砲にて撃たれる。信長は中江城、屋長島に籠る一向一揆勢の男女20000人を包囲し火をつけ焼き殺す。この戦いで織田勢は織田信広が戦死する。 | 『信長公記』巻7(10)「樋口夫婦御生害の事」 |
天正3年 | 1575 | 4 | 13 | 12 | 織田信長が大坂本願寺を攻めるため、畿内、若狭国、近江国、美濃国、尾張国、伊勢国、丹後国、丹波国、播磨の国衆、根来寺衆を率い、天王寺、住吉、遠里小野に陣取る。 | 『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」 |
天正3年 | 1575 | 4 | 14 | 12 | 織田信長が大坂本願寺近くの作毛を薙ぎ捨てる。 | 『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」 |
天正3年 | 1575 | 4 | 16 | 12 | 織田信長が遠里小野に陣取り、田畠の作毛を刈り取る。 | 『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」 |
天正3年 | 1575 | 10 | 21 | 12 | 織田信長と本願寺顕如が三好康長、松井友閑を介して和睦する。顕如が小玉鑑、枯木・花の絵を信長に贈られる。笑岩が茶壺三日月を信長に進上する。 | 『信長公記』巻8(8)「大坂三軸進上の事」 |
天正4年 | 1576 | 4 | 14 | 13 | 本願寺顕如及び一向一揆が籠る大坂本願寺への路次を封鎖するため、荒木村重へ同寺の北にあたる野田(摂津国)に砦の普請を、明智光秀・細川藤孝へ同寺東南にあたる森口・森河内(河内国)に砦の普請を、原田直政へ天王寺に砦を築き、木津を抑えて大坂本願寺への通路を遮断するように命じる。天王寺砦には佐久間信栄、光秀および検使の猪子高就、大津長昌を置く。 | 『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」 |
天正4年 | 1576 | 5 | 3 | 13 | 早朝、原田直政が先陣に三好笑岩・根来寺衆・和泉国衆を、次陣に直政率いる大和・山城国衆をもって木津の一向一揆勢の砦を攻めるが、楼の岸砦より出撃した一向一揆勢と戦い、直政は奮戦するも戦死する。他に塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎が討死する。一向一揆勢は余勢をかり、明智光秀、佐久間信栄、荒木村重、猪子高就、大津長昌等が籠る天王寺砦を攻める。 | 『多聞院日記』同年月日・4日条、『兼見卿記』同年月日・4日条、『言継卿記』同年月4日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」 |
天正4年 | 1576 | 5 | 5 | 13 | 辰刻(7-9時)、織田信長が大坂本願寺に向けて2000の軍勢を引き連れ出陣する。午刻(11-13時)、八幡を通る。先陣の佐久間信盛が若江城(河内国)に攻め入る。 筒井順慶は信長の大坂本願寺攻めにつき、奈良中の15-60歳の男性を総動員するため一乗院尊政、大乗院尋憲に許可を得るべく飯田出羽入道・松田を遣わす。 | 『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条 |
天正4年 | 1576 | 5 | 6 | 13 | 織田信長が若井(若江)(河内国)に在城する。 奈良(大和国)にて筒井順慶および松永久通の無事が伝わる。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正4年 | 1576 | 5 | 7 | 13 | 早朝より織田信長が総勢で住吉口より出陣する。先陣は佐久間信盛、松永久秀、細川藤孝、若江衆、二陣は滝川一益、蜂屋頼隆、羽柴秀吉、丹羽長秀、稲葉一鉄、氏家直昌、安藤守就、三陣は馬廻衆。午刻(11-13時)に天王寺に入り、大坂本願寺に籠る一向一揆勢と合戦。2000余を討つ勝利を収めたという。信長はこの戦いで足に鉄砲があたり負傷する。戦後、天王寺砦に佐久間信盛、佐久間信栄、進藤山城守、松永久秀、松永久通、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿を置く。また、住吉浜に要害を築き、真鍋貞友、沼野伝内を置く。 | 『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻9(4)「後後巻再三御合戦の事」 |
天正4年 | 1576 | 5 | 8 | 13 | 織田信長と本願寺顕如の大坂本願寺周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる下間頼廉・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報) 根来寺を経由し大坂本願寺に入城しようとした吉野飯貝の一向衆が捕らえられる。 | 『多聞院日記』同年月日条 |
天正5年 | 1577 | 7 | 9 | 14 | 弟・准如が生まれる。 | - |
天正6年 | 1578 | 4 | 4 | 15 | 織田信長が、織田信忠を大将とし、北畠信雄、織田信包、神戸信孝、津田信澄、明智光秀、滝川一益、蜂屋頼隆、丹羽長秀を加えた大坂本願寺攻めの軍勢を編成する。 | 『信長公記』巻11(5)「相撲の事」 |
天正6年 | 1578 | 4 | 5 | 15 | 織田信長が大坂本願寺周辺の麦苗を悉くなぎ捨てる。 | 『信長公記』巻11(5)「相撲の事」 |
天正6年 | 1578 | 4 | 6 | 15 | 織田信長が大坂本願寺周辺の麦苗を悉くなぎ捨てる。 | 『信長公記』巻11(5)「相撲の事」 |
天正6年 | 1578 | 4 | 8 | 15 | 織田信忠が大坂本願寺より京都に帰陣する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 6 | 26 | 15 | 九鬼嘉隆が大船7艘を熊野浦に出す。大坂へと回漕中、淡輪の海上にて大船の行く手を阻むべく、雑賀・淡輪浦の小船が嘉隆の大船を襲撃するが、九鬼の大船が大鉄砲にて小船を一掃。以後、九鬼への襲撃が止む。 | 『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」 |
天正6年 | 1578 | 7 | 17 | 15 | 九鬼嘉隆が率いる大船7艘が堺に着岸。見物人を驚愕させる。 | 『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」 |
天正6年 | 1578 | 7 | 18 | 15 | 九鬼嘉隆が率いる大船7艘が大坂へと出航。海上に留まり、大坂本願寺への海路を封鎖する。 | 『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」 |
天正6年 | 1578 | 7 | 20 | 15 | 堺浦に伊勢から5000を乗船した大船が到着する。幅7間、長さ12-13間の「鉄ノ船」で「テツハウ」を通さない作り。大坂本願寺の通路を遮断するためという。 | 『多聞院日記』同年月日・21日条 |
天正6年 | 1578 | 11 | 6 | 15 | 毛利家の水軍衆が木津へ向かってくるが、九鬼嘉隆の率いる大船7艘が応戦。毛利水軍衆の大将が乗る船を大鉄砲で打ち崩したため、水軍衆は九鬼の大船に近寄らなくなる。見物人は九鬼の手柄と称賛する。 | 『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正7年 | 1579 | 9 | 29 | 16 | 天王寺にて、織田信長勢と大坂本願寺の一向一揆勢が戦う。 | 『多聞院日記』同年10月6日条 |
天正8年 | 1580 | 2 | 20 | 17 | 織田信長が大坂本願寺を攻めるため上洛する。妙覚寺に宿泊する。 | 『多聞院日記』同年月21日条、『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」 |
天正8年 | 1580 | 8 | 2 | 17 | 大坂本願寺に籠城を継続していた教如が織田信長に同寺を明け渡す。勅使として近衛前久、勧修寺晴豊、庭田重保が、信長からの使者として松井友閑、佐久間信盛、矢部家定が大坂本願寺に赴く。教如は雑賀(紀伊国)に移る。この日の夜、大坂本願寺が焼ける。 | 『多聞院日記』同年月5日条、『信長公記』巻13(9)「大坂退散の事」 |
天正13年 | 1585 | 2 | 5 | 22 | 興正寺顕尊が薪能を見物する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 3 | 21 | 22 | 教如・興正寺顕尊兄弟が根来寺・雑賀衆攻めのため大坂城(摂津国)を出立した羽柴秀吉を大津(和泉国)にて迎える。顕如は病のため見舞いに赴けず。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 4 | 3 | 22 | 本願寺顕如が、子・教如、興正寺顕尊を紀伊国にいる羽柴秀吉のもとへ陣中見舞いとして遣わす。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 4 | 4 | 22 | 本願寺顕如が遣わした子・教如、興正寺顕尊が土橋平之丞の城内にいた羽柴秀吉と対面する。教如より猩々皮1枚、道服2、銀50枚、顕尊より縮30端、瓶10対を秀吉に贈る。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 4 | 5 | 22 | 子・教如、興正寺顕尊が貝塚本願寺に帰寺する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 4 | 25 | 22 | 羽柴秀吉の雑賀・根来寺攻めの軍勢開陣につき、本願寺顕如が子・教如、興正寺顕尊とともに茶屋で一献を進上する。秀吉は顕如・教如・顕尊の4人のみで一献を受ける。 施薬院全宗が礼にやってくる。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 5 | 4 | 22 | 羽柴秀吉が天満本願寺の縄張り打ちをする。敷地は中嶋天満宮の会所から東の河際までの7町、北へ5町で、大坂本願寺より広大となる。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 6 | 12 | 22 | 興正寺顕尊が天満本願寺の屋敷普請につき大坂へ下向する。下間頼廉が随従する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 6 | 15 | 22 | 興正寺顕尊が貝塚本願寺に帰寺する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 7 | 11 | 22 | 羽柴秀吉への関白宣下が行われる。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 8 | 30 | 22 | 羽柴秀吉より寺地として得た中島(摂津国)に本願寺(天満本願寺)を移転する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 9 | 8 | 22 | 本願寺顕如、教如、興正寺顕尊が羽柴秀吉のもとに礼に訪れる。座敷にて湯漬け、三之膳でもてなす。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 9 | 10 | 22 | 脇坂安治、宮木藤左衛門が本願寺顕如のもとに礼に訪れる。安治・藤左衛門に顕如は子・教如、興正寺顕尊とともに対面する。 石田三成が顕如のもとに礼に訪れ、顕如に1腰・馬を、教如に太刀・馬代を、顕尊に1腰・馬代を贈る。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 9 | 12 | 22 | 施薬院全宗が今井宗久・今井隼人を同道して本願寺顕如のもとに礼に訪れる。全宗は顕如・教如・興正寺顕尊に銀5枚を贈る。顕如は子・教如、顕尊とともに全宗・宗久・隼人に対面する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 9 | 14 | 22 | 羽柴秀吉が有馬(摂津国)に湯治のため向かう途中、天満本願寺に立ち寄る。石田三成、増田長盛、大谷吉継、千抛筅斎、施薬院全宗、今井宗久、今井宗薫等が随従する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 10 | 7 | 22 | 子・准尊が生まれる。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 10 | 23 | 22 | 羽柴秀吉の大坂城(摂津国)帰城につき、本願寺顕如、教如、興正寺顕尊が川向かいにて出迎える。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 1 | 8 | 23 | 本願寺顕如、教如、興正寺顕尊、下間頼廉が長宗我部元親のもとを訪れる。元親は9日、土佐国に向けて出港予定とされる。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 1 | 23 | 23 | 本願寺顕如が子・興正寺顕尊のもとを訪れる。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 4 | 3 | 23 | 本願寺顕如が湯治のため十津川(大和国)に赴くべく、天満本願寺を出立する。今井(大和国)に逗留する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 4 | 5 | 23 | 本願寺顕如が下市(大和国)に赴く。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 4 | 6 | 23 | 本願寺顕如が下市(大和国)を発つ。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 4 | 8 | 23 | 本願寺顕如が十津川(大和国)に到着する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 4 | 27 | 23 | 本願寺顕如が十津川(大和国)より天満本願寺に帰寺する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 6 | 1 | 23 | 天満本願寺の地築が始まる。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 6 | 4 | 23 | 天満本願寺の地築につき石を据える。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 6 | 26 | 23 | 天満本願寺の御影堂柱立が始まる。 | 『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」 |
天正14年 | 1586 | 6 | 28 | 23 | 天満本願寺の御影堂棟上が行われる。 | 『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」 |
天正14年 | 1586 | 7 | 19 | 23 | 天満本願寺の御影堂棟上式が行われる。 | 『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」 |
天正14年 | 1586 | 8 | 3 | 23 | 親鸞木像を天満本願寺の阿弥陀堂から御影堂に移徙する。 | 『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」 |
天正14年 | 1586 | 8 | 19 | 23 | 天満に造営した興正寺の御堂の棟上が行われる。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 9 | 23 | 23 | 興正寺顕尊が三河国に下向するべく天満(摂津国)を発つ。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 10 | 1 | 23 | 興正寺顕尊は三河国に下向する予定であったが、羽柴秀吉と徳川家康の関係が整わなかったため天満(摂津国)に帰る。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 10 | 27 | 23 | 興正寺顕尊が羽柴秀長邸にいた徳川家康のもとを訪れる。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 10 | 30 | 23 | 大坂滞在中の徳川家康が、本願寺顕如、教如、興正寺顕尊に音信として松平忠右衛門を遣わし、顕如に1腰、馬を、教如・顕尊に馬を贈る。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 11 | 13 | 23 | 本願寺顕如、教如、興正寺顕尊が参内する。顕如は准后に、教如は僧正に任じられる。 | 『宇野主水記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条 |
天正14年 | 1586 | 11 | 27 | 23 | 本願寺顕如が痢病を患い通仙院に逗留する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正19年 | 1591 | 1 | 22 | 28 | 本願寺顕如、如春尼、教如、准如が興正寺顕尊の饗応を受ける。 | 『言経卿記』同年月日条 |
天正19年 | 1591 | 2 | 3 | 28 | 天満本願寺の御堂において准如が得度する。 | 『言経卿記』同年月日条 |
天正20年 | 1592 | 2 | - | 29 | 本願寺(京都六条)の釿始が執行される。 | 『紫雲殿由縁記』 |
天正20年 | 1592 | 11 | 18 | 29 | 本願寺(京都六条)にて移徙供養が執行される。 | 『紫雲殿由縁記』 |
天正20年 | 1592 | 11 | 24 | 29 | 報恩講の期間中、父・顕如が中風により死去する。 | 『大谷嫡流実記』「顕如」の項 |
文禄1年 | 1592 | 12 | 10 | 29 | 七条東河原にて顕如の葬礼が行われる。 | 『大谷嫡流実記』「顕如」の項 |
文禄1年 | 1592 | 12 | 25 | 29 | 顕如の遺骨が大谷本願寺の旧地に納骨される。 | 『大谷嫡流実記』「顕如」の項 |
慶長4年 | 1599 | 3 | 3 | 36 | 顕尊が死去する。 | 『大谷嫡流実記』「顕尊」の項 |