天正13年 1585年 4月10日 |
右大臣となる。 |
出典:『系図纂要』「今出川」 |
天正13年 1585年 4月13日 |
本願寺顕如が紀伊国奥郡に出陣中の中村一氏に音信として小袖3、馬、樽3を贈る。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月16日 |
丹羽長秀が死去する。 |
出典:- |
天正13年 1585年 4月18日 |
徳川於義伊が陣中見舞いとして羽柴秀吉のいる雑賀(紀伊国)にやってくる。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月19日 |
青蓮院尊朝が日吉祭につき座主奉幣使として承仕・善暁を遣わす。 |
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』) |
天正13年 1585年 4月19日 |
積善寺城に籠る根来寺衆について、羽柴秀長に仕える者は18日に魚を喰らい還俗し、出家する者は自由にさせ、死罪を免じる。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月19日 |
日吉祭が行われる。 |
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』) |
天正13年 1585年 4月20日 |
羽柴秀長が積善寺城を破却する。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月21日 |
羽柴秀吉が太田城(紀伊国)を水攻めにする。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月22日 |
蜂須賀正勝、前野長康が起請文をもって、水攻め中の太田城(紀伊国)に籠る太田左近と和睦する。和睦の条件は、羽柴勢が51名戦死したため、太田城側も左近をはじめ主要の者51名の切腹を条件とする。 羽柴秀吉が鉄砲筒・腰刀を徴発する(原刀狩令)。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月1月23日日 |
羽柴秀吉の命により長宗我部元親を討伐すべく讃岐国に向かう宇喜多秀家の軍勢15000、蜂須賀正勝・黒田孝高・仙石秀久・尾藤知宣・杉原家次・小西行長の軍勢8000が屋島(讃岐国)に着陣する。 |
出典:『南海通紀』巻17「備前播磨軍将出陣讃州記」 |
天正13年 1585年 4月24日 |
羽柴秀長が長宗我部元親を攻めるため、阿波国に向けて堺より出船する。 |
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」 |
天正13年 1585年 4月25日 |
羽柴秀吉の雑賀・根来寺攻めの軍勢開陣につき、本願寺顕如が子・教如、興正寺顕尊とともに茶屋で一献を進上する。秀吉は顕如・教如・顕尊の4人のみで一献を受ける。 施薬院全宗が礼にやってくる。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月25日 |
雑賀・根来寺攻めの軍勢を開陣する。 本願寺顕如より茶屋にて一献を受ける。相伴は教如・興正寺顕尊のみ。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月25日 |
施薬院全宗が本願寺顕如のもとに礼に赴く。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月25日 |
羽柴秀長率いる軍勢が福良(淡路国)を経由し土佐泊(阿波国)に到着する。 |
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」 |
天正13年 1585年 4月-日 |
羽柴秀次が長宗我部元親を攻めるべく丹波国の軍勢を率い播磨国を経由し岩屋(淡路国)に到着する。 |
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」 |
天正13年 1585年 4月26日 |
赤松広秀が本願寺顕如のもとに礼にやってくる。 顕如が堺にいるとされる羽柴秀吉のもとに、下間頼廉、円山内匠を遣わす。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月26日 |
本願寺顕如が堺にいるとされる羽柴秀吉のもとに、下間頼廉、円山内匠を遣わす。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月27日 |
羽柴秀吉が大坂城(摂津国)にいたため、本願寺顕如の使者である下間頼廉、円山内匠が大坂城に赴く。秀吉は頼廉・内匠に城内を案内し、施薬院全宗・千宗易・孝蔵主・東殿と天守・女中部屋・納戸・雪隠・風呂をと廻る。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月28日 |
羽柴秀吉のもとに遣わしていた下間頼廉、円山内匠が貝塚本願寺に帰寺する。頼廉・内匠は秀吉より渡辺(摂津国)に本願寺を移すように命じられたことを伝える。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 4月28日 |
羽柴秀吉が下間頼廉に茶を点てる。 頼廉、円山内匠が貝塚本願寺に帰寺する。両名は顕如に秀吉より渡辺(摂津国)に本願寺を移すよう命じられたと伝える。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 5月2日 |
伊達政宗が原田宗時に軍勢を付し猿倉峠に遣わす。宗時は蘆名勢と戦い敗れる。 |
出典:『伊達日記』上 |
天正13年 1585年 5月3日 |
本願寺顕如が羽柴秀吉より渡辺(摂津国)に与えられた寺内屋敷地を請取るため(移転承知の旨を伝えるため)、下間頼廉・円山内匠・益田照従を秀吉のもとに遣わす。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 5月3日 |
伊達政宗が檜原(陸奥国)に出陣する。 |
出典:『伊達日記』上 |
天正13年 1585年 5月4日 |
羽柴秀吉が天満本願寺の縄張り打ちをする。敷地は中嶋天満宮の会所から東の河際までの7町、北へ5町で、大坂本願寺より広大となる。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 1585年 5月4日 |
羽柴秀吉が天満本願寺の縄張り打ちをする。敷地は中嶋天満宮の会所から東の河際までの7町、北へ5町で、大坂本願寺より広大となる。 秀吉が黒田孝高に、長宗我部元親成敗につき、6月3日に四国へ向けて出陣・渡海するので、先勢として出陣するように命じる。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条、『黒田家譜』巻2「孝高記」 |
天正13年 1585年 5月4日 |
羽柴秀吉が黒田孝高に、長宗我部元親成敗につき、6月3日に四国へ向けて出陣・渡海するので、先勢として出陣するように命じる。 |
出典:『黒田家譜』巻2「孝高記」 |
天正13年 1585年 5月5日 |
毛利元秋が死去する。 |
出典:- |
天正13年 1585年 5月6日 |
本願寺顕如の体調不良につき遊仙軒が京都より下向する。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |