人 物 史

下間頼廉 しもつま らいれん
生 没 年天文6年(1537)-寛永3年(1626)6/20
出 身-幼 名虎寿
別 称源十郎
法 名了入、了悟
戒 名-
下間頼康下間頼次の娘
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
下間頼亮、下間宗清、下間仲玄、下間仲世の妻、牧長勝の妻、端坊明勝の妻、川那辺宗甫の妻
官 位右衛門尉、刑部卿
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
下間頼廉 年表
和暦 西暦 年齢 事項 出典
天文6年1537--1下間頼廉が生まれる。-
元亀1年157091234足利義昭織田信長が海老江(摂津国)に陣を移し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、斎藤龍興、長井道利の籠る野田・福島(摂津国)を攻める。長逸等は信長に降伏を申し出るが信長に断られる。
本願寺顕如が義昭、信長を攻撃する。
『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条
元亀1年157091334本願寺顕如が織田方の楼の岸砦、川口砦に攻め入る。『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」
元亀1年157091434本願寺顕如が天満が森に攻め入る。かすがゐ堤の合戦で織田信長と大坂本願寺勢が戦い、信長が本願寺勢を退ける。この戦いで織田勢の第1陣を佐々成政が、第2陣を前田利家がつとめる。成政は負傷し撤退する。『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」
元亀1年157092334織田信長和田惟政柴田勝家に殿を命じ、野田・福島(摂津国)を引き払い京都に向かう。江口を経由して足利義昭とともに帰洛する。
信長は吉田兼見に白川と山中の通路を封鎖するように命じる。兼見は白川、浄土寺にその旨を命じる。
『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」
天正3年1575102139織田信長本願寺顕如三好康長松井友閑を介して和睦する。顕如が小玉鑑、枯木・花の絵を信長に贈られる。笑岩が茶壺三日月を信長に進上する。『信長公記』巻8(8)「大坂三軸進上の事」
天正4年157641440本願寺顕如及び一向一揆が籠る大坂本願寺への路次を封鎖するため、荒木村重へ同寺の北にあたる野田(摂津国)に砦の普請を、明智光秀細川藤孝へ同寺東南にあたる森口・森河内(河内国)に砦の普請を、原田直政天王寺に砦を築き、木津を抑えて大坂本願寺への通路を遮断するように命じる。天王寺砦には佐久間信栄、光秀および検使の猪子高就大津長昌を置く。『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」
天正4年15765340早朝、原田直政が先陣に三好笑岩根来寺衆・和泉国衆を、次陣に直政率いる大和・山城国衆をもって木津の一向一揆勢の砦を攻めるが、楼の岸砦より出撃した一向一揆勢と戦い、直政は奮戦するも戦死する。他に塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎が討死する。一向一揆勢は余勢をかり、明智光秀佐久間信栄荒木村重猪子高就大津長昌等が籠る天王寺砦を攻める。『多聞院日記』同年月日・4日条、『兼見卿記』同年月日・4日条、『言継卿記』同年月4日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」
天正4年15765540辰刻(7-9時)、織田信長大坂本願寺に向けて2000の軍勢を引き連れ出陣する。午刻(11-13時)、八幡を通る。先陣の佐久間信盛が若江城(河内国)に攻め入る。
筒井順慶は信長の大坂本願寺攻めにつき、奈良中の15-60歳の男性を総動員するため一乗院尊政大乗院尋憲に許可を得るべく飯田出羽入道・松田を遣わす。
『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条
天正4年15765640織田信長が若井(若江)(河内国)に在城する。
奈良(大和国)にて筒井順慶および松永久通の無事が伝わる。
『兼見卿記』同年月日条
天正4年15765740早朝より織田信長が総勢で住吉口より出陣する。先陣は佐久間信盛松永久秀細川藤孝、若江衆、二陣は滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀稲葉一鉄氏家直昌安藤守就、三陣は馬廻衆。午刻(11-13時)に天王寺に入り、大坂本願寺に籠る一向一揆勢と合戦。2000余を討つ勝利を収めたという。信長はこの戦いで足に鉄砲があたり負傷する。戦後、天王寺砦に佐久間信盛佐久間信栄、進藤山城守、松永久秀、松永久通、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿を置く。また、住吉浜に要害を築き、真鍋貞友、沼野伝内を置く。『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻9(4)「後後巻再三御合戦の事」
天正4年15765840織田信長本願寺顕如大坂本願寺周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる下間頼廉・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報)
根来寺を経由し大坂本願寺に入城しようとした吉野飯貝の一向衆が捕らえられる。
『多聞院日記』同年月日条
天正4年157671240毛利家警固衆・小早川家警固衆・村上水軍衆の木梨元恒・村上吉充・生口景守・児玉就英戸川秀安・村上武満・粟屋元如・井上春忠・包久景勝・桑原元勝・村上景広・香川広景・村上吉継・乃美宗勝・村上元吉が岩屋(淡路国)を出航し、貝塚(和泉国)に着岸する。(天正4年7月15日付村上元吉他十四名連署注進状(『戦国遺文』瀬戸内水軍編460号「毛利家文書」)
天正4年157671340大坂本願寺に兵糧を運び入れるため、毛利家警固衆・小早川家警固衆・村上水軍衆の木梨元恒・村上吉充・生口景守・児玉就英・村上武満・粟屋元如・井上春忠・包久景勝・桑原元勝・村上景広・香川広景・村上吉継・乃美宗勝・村上元吉、宇喜多家の戸川秀安が雑賀衆ととともに津より住吉(摂津国)に出船した際、木津川河口にて織田家の水軍衆に遭遇する。織田方は真鍋貞友、沼野伝内、沼野伊賀、沼野大隅守、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、尼崎小畑、野口が300艘にて応戦。14日早朝まで戦闘が繰り広げられる。村上水軍衆の焙烙火矢により織田方の船が焼き崩される。織田信長も当地に向かうが、向った時には毛利勢による兵糧の運び入れが終わっていたため撤退する。(天正4年7月15日付村上元吉他十四名連署注進状(『戦国遺文』瀬戸内水軍編460号「毛利家文書」)、『信長公記』巻9(5)「西国より大船を催し木津浦船軍歴々討死の事」、(天正4年)7月27日付吉川元春書状(『上杉家文書』2-646号)
天正6年15784442織田信長が、織田信忠を大将とし、北畠信雄織田信包神戸信孝津田信澄明智光秀滝川一益蜂屋頼隆丹羽長秀を加えた大坂本願寺攻めの軍勢を編成する。『信長公記』巻11(5)「相撲の事」
天正6年15784542織田信長大坂本願寺周辺の麦苗を悉くなぎ捨てる。『信長公記』巻11(5)「相撲の事」
天正6年15784642織田信長大坂本願寺周辺の麦苗を悉くなぎ捨てる。『信長公記』巻11(5)「相撲の事」
天正6年15784842織田信忠大坂本願寺より京都に帰陣する。『兼見卿記』同年月日条
天正6年157862642九鬼嘉隆が大船7艘を熊野浦に出す。大坂へと回漕中、淡輪の海上にて大船の行く手を阻むべく、雑賀・淡輪浦の小船が嘉隆の大船を襲撃するが、九鬼の大船が大鉄砲にて小船を一掃。以後、九鬼への襲撃が止む。『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」
天正6年157871742九鬼嘉隆が率いる大船7艘がに着岸。見物人を驚愕させる。『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」
天正6年157871842九鬼嘉隆が率いる大船7艘が大坂へと出航。海上に留まり、大坂本願寺への海路を封鎖する。『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」
天正6年157872042浦に伊勢から5000を乗船した大船が到着する。幅7間、長さ12-13間の「鉄ノ船」で「テツハウ」を通さない作り。大坂本願寺の通路を遮断するためという。『多聞院日記』同年月日・21日条
天正6年157811642毛利家の水軍衆が木津へ向かってくるが、九鬼嘉隆の率いる大船7艘が応戦。毛利水軍衆の大将が乗る船を大鉄砲で打ち崩したため、水軍衆は九鬼の大船に近寄らなくなる。見物人は九鬼の手柄と称賛する。『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正7年15794643下間頼廉大坂本願寺へ雑賀御坊惣中に雑賀鉄砲衆300名の派兵を再度請う。(天正7年)4月6日付下間頼廉書状(『戦国遺文』三好氏編3巻-参考138号、「鷺森別院文書」)
天正8年158022044織田信長大坂本願寺を攻めるため上洛する。妙覚寺に宿泊する。『多聞院日記』同年月21日条、『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」
天正8年1580閏3644織田信長安土城(近江国)より天王寺に入る。『信長公記』巻13(3)「大坂退散御請け誓紙の事」
天正10年15826246本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)。
『多聞院日記』同年月日・3日条
天正11年15834847羽柴秀吉下間頼廉に加賀国で一向一揆を起こすよう要請する。(天正11年)4月8日付豊臣秀吉書状(『増訂加能古文書』同年月日条「本願寺文書」)
天正11年158391547本願寺顕如が、貝塚動座の礼として羽柴秀吉下間頼廉、寺内若狭、増田照従を遣わす。両名はに到着。頼廉は浅野長政への音信の添状と、岸和田城(和泉国)城主・中村一氏への添状を調える。『宇野主水記』同年月日条
天正11年158391747貝塚動座の礼として本願寺顕如羽柴秀吉へ遣わした下間頼廉、寺内若狭、益田照従大坂城(摂津国)にて秀吉に対面する。対面時の相伴の衆は松井友閑前田利家千宗易津田宗及荒木道薫。頼廉は秀吉より馬を賜る。『宇野主水記』同年月日条
天正11年1583102147根来寺惣分が本願寺顕如に音信として大樽10荷・肴3種を贈る。使者は良永で宇野主水・下間頼廉とともに対面する。『宇野主水記』同年月日条
天正11年158311147大坂城(摂津国)へ人質として赴いていた吉川広家本願寺顕如に音信として太刀1腰・緞子10巻を贈る。顕如は宇野主水・下間頼廉とともに広家の使者・森脇又左衛門と対面する。『宇野主水記』同年月日条
天正11年158311247大坂城(摂津国)へ人質として赴いていた小早川秀包本願寺顕如に音信として太刀1腰・緞子10巻を贈る。顕如は宇野主水・下間頼廉とともに秀包の使者・桂川民部少輔と対面する。『宇野主水記』同年月日条
天正12年158412148本願寺顕如中村一氏に年頭の礼の返礼として音信を遣わす。使者は下間頼廉下間仲孝『宇野主水記』同年月日条
天正12年158442048羽柴秀吉が貝塚本願寺にいる本願寺顕如に鵜飼八蔵を遣わす。鵜飼は北伊勢での一向一揆蜂起につき、本願寺の関与を問い質す秀吉の書状(下間頼廉益田照従宛)を持参する。秀吉の書状は頼廉・照従宛であったが、顕如が直札をもって北伊勢一向一揆蜂起の不関与を弁明する。『宇野主水記』同年月日条
天正12年158442448本願寺顕如羽柴秀吉に陣中見舞いとして河野越中を遣わす。加えて秀吉より問い質された北伊勢一向一揆蜂起の件について、北伊勢坊主中に御書を遣わしよくよく言い聞かせるようにすることを伝えさせる。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158531649下間頼廉邸の庭で花見に本願寺顕如教如父子が赴く。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158532349本願寺顕如が紀伊国に出征中の羽柴秀吉に礼として下間頼廉、下間豊前を遣わす。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158532749本願寺顕如が紀伊国にいる羽柴秀吉のもとに遣わした下間頼廉、下間豊前が貝塚本願寺に帰城する。『宇野主水記』同年月日条
天正13年15854249本願寺顕如羽柴秀吉のもとへ下間頼廉を遣わす。
前田利家より、先に顕如から寺内相模を音信として派遣したことに対する返礼の使者として金沢在京人・念西の門徒がやってくる。太刀・馬・綿30把・蝋燭50挺が利家より贈られる。
『宇野主水記』同年月日条
天正13年158542649本願寺顕如にいるとされる羽柴秀吉のもとに、下間頼廉円山内匠を遣わす。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158542749羽柴秀吉大坂城(摂津国)にいたため、本願寺顕如の使者である下間頼廉円山内匠が大坂城に赴く。秀吉は頼廉・内匠に城内を案内し、施薬院全宗千宗易・孝蔵主・東殿と天守・女中部屋・納戸・雪隠・風呂をと廻る。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158542849羽柴秀吉下間頼廉に茶を点てる。
頼廉、円山内匠が貝塚本願寺に帰寺する。両名は顕如に秀吉より渡辺(摂津国)に本願寺を移すよう命じられたと伝える。
『宇野主水記』同年月日条
天正13年15855349本願寺顕如羽柴秀吉より渡辺(摂津国)に与えられた寺内屋敷地を請取るため(移転承知の旨を伝えるため)、下間頼廉円山内匠益田照従を秀吉のもとに遣わす。『宇野主水記』同年月日条
天正13年15855849本願寺顕如が、岸和田(和泉国)から甲賀(近江国)に移封となった中村一氏のもとに音信として下間頼廉を遣わし、縮20端・道服を贈る。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158561249興正寺顕尊が天満本願寺の屋敷普請につき大坂へ下向する。下間頼廉が随従する。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158583049羽柴秀吉より寺地として得た中島(摂津国)に本願寺(天満本願寺)を移転する。『宇野主水記』同年月日条
天正13年1585閏82749下間頼廉大坂城(摂津国)に帰城する豊臣秀吉を迎えるとして橋本(山城国)にて控えていたところ、秀吉より御座船に招かれ話し相手となる。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158592349本願寺顕如が湯治に赴く。子・准如下間頼廉、宇野主水が随従する。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158510849本願寺顕如が湯治より天満本願寺に帰寺する。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158511204919日に小早川隆景吉川元長に着津したのをうけ、本願寺顕如が隆景、元長に馬2疋(羽柴秀吉よりの馬と教如よりの馬)を贈る。使者は下間頼廉『宇野主水記』同年月日条
天正14年15861350本願寺顕如羽柴秀吉のもとへ礼に赴く。下間頼廉が供をする。
堀秀政森忠政が顕如のもとを訪れる。頼廉が取り次ぐ。
『宇野主水記』同年月日条
天正14年15861950九鬼嘉隆津田宗及本願寺顕如のもとを訪れる。下間頼廉が取り次ぐ。『宇野主水記』同年月日条
天正14年15864350本願寺顕如が湯治のため十津川(大和国)に赴くべく、天満本願寺を出立する。今井(大和国)に逗留する。『宇野主水記』同年月日条
天正14年15864550本願寺顕如が下市(大和国)に赴く。『宇野主水記』同年月日条
天正14年15864650本願寺顕如が下市(大和国)を発つ。『宇野主水記』同年月日条
天正14年15864850本願寺顕如が十津川(大和国)に到着する。『宇野主水記』同年月日条
天正14年158642750本願寺顕如が十津川(大和国)より天満本願寺に帰寺する。『宇野主水記』同年月日条
天正14年15866150天満本願寺の地築が始まる。『宇野主水記』同年月日条
天正14年15866450天満本願寺の地築につき石を据える。『宇野主水記』同年月日条
天正14年158662650天満本願寺の御影堂柱立が始まる。『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」
天正14年158662850天満本願寺の御影堂棟上が行われる。『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」
天正14年158671950天満本願寺の御影堂棟上式が行われる。『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」
天正14年15868350親鸞木像を天満本願寺の阿弥陀堂から御影堂に移徙する。『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」
天正20年15922-56本願寺(京都六条)の釿始が執行される。『紫雲殿由縁記』
天正20年1592111856本願寺(京都六条)にて移徙供養が執行される。『紫雲殿由縁記』
天正20年1592112456報恩講の仏事の最中、本願寺顕如が中風により死去する。『大谷嫡流実記』「顕如」の項
文禄1年1592121056七条東河原にて顕如の葬礼が行われる。『大谷嫡流実記』「顕如」の項
文禄1年1592122556顕如の遺骨が大谷本願寺の旧地に納骨される。『大谷嫡流実記』「顕如」の項
文禄2年1593閏91557本願寺教如大坂城(摂津国)に到着する。施薬院全宗長束正家、山中長俊が豊臣秀吉の使者として教如のもとを訪れる。全宗等からは、大坂に居所を拵えること、織田信長にとって教如は「大敵」であったこと、秀吉の代となり雑賀から貝塚、天満、七条(京都)へ本願寺が移転したことを秀吉の「御恩」と思うべきこと、教如の不行儀は父・顕如から秀吉に度々報告があったこと、顕如が本願寺住持職を准如に譲ると記した譲状が存在すること、顕如が折檻した家臣を教如が召し抱えていること、教如の妻女のこと、教如は心から不届きの心中を改めるべきこと、心を改めたのであれば今後10年は教如を門跡として認め、10年経った後は弟・准如に本願寺住持職を譲りること、この処置は教如を一方的に処罰するものであるが秀吉が教如に目をかけているからこそのことであること、もし改心しないのであれば3000石を下付し無役にして秀吉の茶の湯友達として奉公すること、以上の事を言い渡される。教如は上記の要件を承知し10年後に准如へ住持職を譲ることを返事する。しかし、その場にいた家臣が譲状の存在に疑義を呈したため、秀吉の怒りを買い、すぐに退隠するよう命じられる。『駒井日記』同年月16日条
文禄2年1593閏91657豊臣秀吉が本願寺の住持職について、譲状に基づき、本願寺教如を退け、弟・准如に相続させるよう命じる。『駒井日記』同年月日条・同年月17日条
文禄2年1593111257豊臣秀吉下間頼廉を赦免する。『文禄二年十月ヨリノ日次記』同年月日条
文禄2年1593111457下間頼廉本願寺准如の家督相続の礼をする。『文禄二年十月ヨリノ日次記』同年月日条
文禄2年1593111857本願寺准如下間頼廉を奏者役に命じる。『文禄二年十月ヨリノ日次記』同年月日条
慶長3年159881862豊臣秀吉が死去する。『当代記』巻3同年月日条
寛永3年162662090下間頼廉が死去する。-
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