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事項 |
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大永6年 | 1526 | - | - | 1 | 施薬院全宗が生まれる。 | - |
- | - | - | - | 15 | 施薬院全宗が延暦寺横川検校のもとで剃髪。 | 『東塔』 |
元亀2年 | 1571 | 9 | 12 | 46 | 織田信長が延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。 | 『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 5 | 4 | 47 | 吉田兼見、施薬院全宗が織田信長に枇杷1折を贈る。木下秀吉が信長に披露する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 9 | 15 | 47 | 明智光秀が上洛し施薬院全宗の所に逗留する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 9 | 27 | 47 | 施薬院全宗が体調を崩した吉田兼右の脈を診る。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀3年 | 1572 | 10 | 22 | 47 | 吉田兼見が病の父・兼右の薬について施薬院全宗に相談するため訪れる。全宗は薬を調合して兼見に渡す。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正3年 | 1575 | 4 | 23 | 50 | 施薬院全宗のところにいた羽柴秀吉のもとに吉田兼見が訪れる。兼見は秀吉に饅頭50を贈る。 | 『言継卿記』同年5/4条 |
天正5年 | 1577 | 9 | 15 | 52 | 明智光秀、吉田兼見が施薬院全宗のもとを訪れる。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正12年 | 1584 | 2 | 11 | 59 | 豪盛が延暦寺復興のため西国に勧進に赴くにあたり、その活動を認める綸旨と令旨を賜るよう施薬院全宗が鳥居小路大蔵卿に請う。 | 2月11日付施薬院全宗書状(「曼殊院文書」『大』11-5 同年月日条) |
天正12年 | 1584 | 5 | 1 | 59 | 延暦寺根本中堂・戒壇院の造営につき、延暦寺僧の豪盛・施薬院全宗を本願として再興するようにと命じる。 | 天正12年5月1日付羽柴秀吉判物(『山門復興文書』) |
天正13年 | 1585 | 3 | 3 | 60 | 羽柴秀吉が仙洞御所に赴く。その後、施薬院全宗邸に赴く。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 3 | 10 | 60 | 羽柴秀吉が施薬院全宗所より参内する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 3 | 25 | 60 | 吉田兼見が施薬院全宗に音信を遣わす。諸方から音信を受けるているという。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 4 | 1 | 60 | 施薬院全宗が吉田兼見に音信として鯛5、海老20、下樽桶2と書状を送る。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 4 | 25 | 60 | 施薬院全宗が本願寺顕如のもとに礼に赴く。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 4 | 27 | 60 | 羽柴秀吉が大坂城(摂津国)にいたため、本願寺顕如の使者である下間頼廉、円山内匠が大坂城に赴く。秀吉は頼廉・内匠に城内を案内し、施薬院全宗・千宗易・孝蔵主・東殿と天守・女中部屋・納戸・雪隠・風呂をと廻る。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 7 | 11 | 60 | 羽柴秀吉への関白宣下が行われる。施薬院全宗のもとに赴く。その後、秀吉がその礼として参内する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 7 | 13 | 60 | 稲葉一鉄・前田玄以・松井友閑・施薬院全宗が昇殿する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 閏8 | 26 | 60 | 羽柴秀吉が施薬院全宗のもとで茶湯を催す。全宗の所に近衛龍山、大覚寺尊信、大乗院尋憲、一条内基、梶井宮最胤、飛鳥井雅春、日野輝資、烏丸光宣、吉田兼見が参礼として訪れる。龍山等が秀吉に進上した菓子を前田玄以が披露する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 9 | 12 | 60 | 施薬院全宗が今井宗久・今井隼人を同道して本願寺顕如のもとに礼に訪れる。全宗は顕如・教如・興正寺顕尊に銀5枚を贈る。顕如は子・教如、顕尊とともに全宗・宗久・隼人に対面する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 9 | 14 | 60 | 羽柴秀吉が有馬(摂津国)に湯治のため向かう途中、天満本願寺に立ち寄る。石田三成、増田長盛、大谷吉継、千抛筅斎、施薬院全宗、今井宗久、今井宗薫等が随従する。 | 『宇野主水記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | 10 | 4 | 60 | 細川幽斎が施薬院全宗の所で茶会を催す。その茶会に羽柴秀吉が参会する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正13年 | 1585 | - | - | 60 | 延暦寺根本中堂が再興する。 | 『東塔五谷堂舎並各坊世譜』「根本中堂」の項(『天台宗全書』) |
天正16年 | 1588 | 7 | 24 | 63 | 毛利輝元、小早川隆景、吉川広家が聚楽第(山城国)に登城し豊臣秀吉に謁す。輝元は太刀1腰・馬1疋(月毛)・鷹5連・白銀3000枚を、隆景は太刀1腰・白糸3折・白銀500枚を、広家は太刀1腰・馬1疋(粕毛)・白銀500枚を秀吉に進上する。奏者は前野長康。この場に聖護院道澄、前田利家、安国寺恵瓊、細川忠興、池田輝政、島津義久、立花宗茂、龍造寺政家、金森長近、施薬院全宗、蜂屋頼隆、穂井田元清、福原元俊、口羽春良が列席する。 | 『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」 |
天正17年 | 1589 | 6 | 16 | 64 | 伊達政宗が、蘆名義広と戦い勝利し、会津(陸奥国)を領有したことを前田利家・富田一白・施薬院全宗に書状をもって伝える。使者は坂東屋道有。 | (天正17年)7月13日付富田一白書状(『伊達家文書』1-425号)、(天正17年)7月22日付坂東屋道有書状(『伊達家文書』1-429号) |
天正17年 | 1589 | 7 | 21 | 64 | 前田利家が伊達政宗に、蘆名義広を破り、会津(陸奥国)を領有したことに理解を示しつつも、会津は蘆名義広の領有を認める朱印状を発給済であり、豊臣秀吉も、政宗が自身の都合で蘆名領に侵攻したことについて不審に思っているので、秀吉に利家からも執り成しをするので、使者を京都に遣わし、施薬院全宗、富田一白と相談の上、事情を説明するように書状をもって促す。 | (天正17年)7月21日付前田利家書状(『伊達家文書』1-426号) |
天正17年 | 1589 | 7 | 22 | 64 | 施薬院全宗が伊達政宗及び片倉景綱に、蘆名義広はすでに豊臣秀吉に礼をし、秀吉の支配下の者であるので、政宗が秀吉の了解を得ることなしに、自身の都合で一戦し、会津(陸奥国)に居住することについて、秀吉はよく思っていないことを書状をもって伝える。 | (天正17年)7月22日付施薬院全宗書状(『伊達家文書』1-427号)、(天正17年)7月22日付施薬院全宗書状(『伊達家文書』1-428号) |
天正18年 | 1590 | 1 | 21 | 65 | 豊臣秀吉が浅野長政のもとを訪れ、能楽を見物する。秀吉に今出川晴季、勧修寺晴豊、中山、日野、高倉、前田利家、施薬院全宗が相伴する。 | 『晴豊記』同年月日条、能楽番組書(『伊達家文書』1-468号) |
文禄2年 | 1593 | 閏9 | 15 | 68 | 本願寺教如が大坂城(摂津国)に到着する。施薬院全宗、長束正家、山中長俊が豊臣秀吉の使者として教如のもとを訪れる。全宗等からは、大坂に居所を拵えること、織田信長にとって教如は「大敵」であったこと、秀吉の代となり雑賀から貝塚、天満、七条(京都)へ本願寺が移転したことを秀吉の「御恩」と思うべきこと、教如の不行儀は父・顕如から秀吉に度々報告があったこと、顕如が本願寺住持職を准如に譲ると記した譲状が存在すること、顕如が折檻した家臣を教如が召し抱えていること、教如の妻女のこと、教如は心から不届きの心中を改めるべきこと、心を改めたのであれば今後10年は教如を門跡として認め、10年経った後は弟・准如に本願寺住持職を譲りること、この処置は教如を一方的に処罰するものであるが秀吉が教如に目をかけているからこそのことであること、もし改心しないのであれば3000石を下付し無役にして秀吉の茶の湯友達として奉公すること、以上の事を言い渡される。教如は上記の要件を承知し10年後に准如へ住持職を譲ることを返事する。しかし、その場にいた家臣が譲状の存在に疑義を呈したため、秀吉の怒りを買い、すぐに退隠するよう命じられる。 | 『駒井日記』同年月16日条 |
文禄2年 | 1593 | 10 | 5 | 68 | 豊臣秀吉、前田利家が施薬院全宗所に赴く。茶の湯の後、全宗が名護屋(肥前国)にて購入した壺を25枚(金?)にて召し上げる。 参内する。禁裏にて能を催す。 全宗所に帰る。 | 『駒井日記』同年月日条 |
文禄3年 | 1594 | 4 | 2 | 69 | 豊臣秀吉が施薬院全宗所を訪問する。その後、秀吉は甥・秀次に対面する。 | 『駒井日記』同年月日条 |
文禄3年 | 1594 | 4 | 5 | 69 | 豊臣秀吉が施薬院全宗所から前田玄以所を訪れる。 | 『駒井日記』同年月日条 |
文禄3年 | 1594 | 4 | 8 | 69 | 豊臣秀吉が施薬院全宗所から正式に前田利家邸を訪問する。能あり。全宗所に帰る。 | 『駒井日記』同年月日条 |
文禄3年 | 1594 | 4 | 10 | 69 | 施薬院全宗所から豊臣秀吉が前田玄以を召し連れ前田利家邸を訪問する。 | 『駒井日記』同年月日条 |
慶長2年 | 1597 | 4 | 25 | 72 | 豊臣秀吉が施薬院全宗所に入る。 | 『左大史孝亮記』同年月日条 |
慶長2年 | 1597 | 5 | 22 | 72 | 豊臣秀吉が上洛する。屋敷の縄張りを行う。施薬院全宗所に入る。 | 『義演准后日記』・『鹿苑日録』・『左大史孝亮記』同年月日条 |
慶長2年 | 1597 | 8 | 29 | 72 | 28日に足利義昭が死去したとの報告を施薬院全宗より受ける。 | 『鹿苑日録』同年月日条 |
慶長4年 | 1599 | 12 | 10 | 74 | 施薬院全宗が死去する。 | 『東塔』 |