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人 物 史
施薬院全宗
やくいん ぜんそう
生 没 年
大永6年(1526)-慶長4年(1599)12/10
出 身
-
幼 名
-
別 称
徳雲軒
法 名
-
戒 名
-
父
丹波宗忠
母
-
兄 弟 姉 妹
-
配 偶 者
-
子
-
官 位
-
役 職
-
城 郭
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
施薬院全宗 年表
大永6年 1526年 -月-日 1歳
施薬院全宗
が生まれる。
出典:-
享禄1年 1528年 8月20日 3歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-
天文1年 1532年 7月29日 7歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-
- -年 -月-日 15歳
施薬院全宗
が
延暦寺
横川検校のもとで剃髪。
出典:『東塔』
弘治1年 1555年 10月23日 30歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-
弘治4年 1558年 2月28日 33歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-
元亀1年 1570年 4月23日 45歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-
元亀2年 1571年 9月12日 46歳
織田信長
が
延暦寺
、和邇、堅田、
坂本
(近江国)を焼き討ちする。
明智光秀
を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条
元亀3年 1572年 5月4日 47歳
吉田兼見、
施薬院全宗
が
織田信長
に枇杷1折を贈る。
木下秀吉
が信長に披露する。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀3年 1572年 9月15日 47歳
明智光秀
が上洛し
施薬院全宗
の所に逗留する。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀3年 1572年 9月27日 47歳
施薬院全宗
が体調を崩した
吉田兼右
の脈を診る。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀3年 1572年 10月22日 47歳
吉田兼見が病の父・
兼右
の薬について
施薬院全宗
に相談するため訪れる。全宗は薬を調合して兼見に渡す。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正1年 1573年 7月28日 48歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-
天正3年 1575年 4月23日 50歳
施薬院全宗
のところにいた
羽柴秀吉
のもとに吉田兼見が訪れる。兼見は秀吉に饅頭50を贈る。
出典:『言継卿記』同年5/4条
天正5年 1577年 9月15日 52歳
明智光秀
、吉田兼見が
施薬院全宗
のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正12年 1584年 2月11日 59歳
豪盛
が
延暦寺
復興のため西国に勧進に赴くにあたり、その活動を認める綸旨と令旨を賜るよう
施薬院全宗
が鳥居小路大蔵卿に請う。
出典:2月11日付施薬院全宗書状(「曼殊院文書」『大』11-5 同年月日条)
天正12年 1584年 5月1日 59歳
延暦寺
根本中堂・戒壇院の造営につき、延暦寺僧の
豪盛
・
施薬院全宗
を本願として再興するようにと命じる。
出典:天正12年5月1日付羽柴秀吉判物(『山門復興文書』)
天正13年 1585年 3月3日 60歳
羽柴秀吉
が仙洞御所に赴く。その後、
施薬院全宗
邸に赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正13年 1585年 3月10日 60歳
羽柴秀吉
が
施薬院全宗
所より参内する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正13年 1585年 3月25日 60歳
吉田兼見が
施薬院全宗
に音信を遣わす。諸方から音信を受けるているという。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正13年 1585年 4月1日 60歳
施薬院全宗が吉田兼見に音信として鯛5、海老20、下樽桶2と書状を送る。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正13年 1585年 4月25日 60歳
施薬院全宗
が
本願寺顕如
のもとに礼に赴く。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正13年 1585年 4月27日 60歳
羽柴秀吉
が
大坂城
(摂津国)にいたため、
本願寺顕如
の使者である
下間頼廉
、
円山内匠
が大坂城に赴く。秀吉は頼廉・内匠に城内を案内し、
施薬院全宗
・
千宗易
・孝蔵主・東殿と天守・女中部屋・納戸・雪隠・風呂をと廻る。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正13年 1585年 7月11日 60歳
羽柴秀吉
への関白宣下が行われる。
施薬院全宗
のもとに赴く。その後、秀吉がその礼として参内する。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正13年 1585年 7月13日 60歳
稲葉一鉄
・
前田玄以
・
松井友閑
・
施薬院全宗
が昇殿する。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正13年 1585年 閏8月26日 60歳
羽柴秀吉
が
施薬院全宗
のもとで茶湯を催す。全宗の所に
近衛龍山
、
大覚寺尊信
、
大乗院尋憲
、
一条内基
、梶井宮最胤、
飛鳥井雅春
、日野輝資、
烏丸光宣
、吉田兼見が参礼として訪れる。龍山等が秀吉に進上した菓子を
前田玄以
が披露する。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正13年 1585年 9月12日 60歳
施薬院全宗
が
今井宗久
・今井隼人を同道して
本願寺顕如
のもとに礼に訪れる。全宗は顕如・
教如
・
興正寺顕尊
に銀5枚を贈る。顕如は子・教如、顕尊とともに全宗・宗久・隼人に対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正13年 1585年 9月14日 60歳
羽柴秀吉
が有馬(摂津国)に湯治のため向かう途中、天満本願寺に立ち寄る。
石田三成
、
増田長盛
、
大谷吉継
、
千抛筅斎
、
施薬院全宗
、
今井宗久
、今井宗薫等が随従する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正13年 1585年 10月4日 60歳
細川幽斎
が
施薬院全宗
の所で茶会を催す。その茶会に
羽柴秀吉
が参会する。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正13年 1585年 -月-日 60歳
延暦寺
根本中堂が再興する。
出典:『東塔五谷堂舎並各坊世譜』「根本中堂」の項(『天台宗全書』)
天正16年 1588年 7月24日 63歳
毛利輝元
、
小早川隆景
、
吉川広家
が
聚楽第
(山城国)に登城し
豊臣秀吉
に謁す。輝元は太刀1腰・馬1疋(月毛)・鷹5連・白銀3000枚を、隆景は太刀1腰・白糸3折・白銀500枚を、広家は太刀1腰・馬1疋(粕毛)・白銀500枚を秀吉に進上する。奏者は前野長康。この場に
聖護院道澄
、
前田利家
、
安国寺恵瓊
、
細川忠興
、
池田輝政
、
島津義久
、
立花宗茂
、龍造寺政家、
金森長近
、
施薬院全宗
、
蜂屋頼隆
、
穂井田元清
、
福原元俊
、
口羽春良
が列席する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」
天正17年 1589年 6月16日 64歳
伊達政宗
が、
蘆名義広
と戦い勝利し、会津(陸奥国)を領有したことを
前田利家
・
富田一白
・
施薬院全宗
に書状をもって伝える。使者は坂東屋道有。
出典:(天正17年)7月13日付富田一白書状(『伊達家文書』1-425号)、(天正17年)7月22日付坂東屋道有書状(『伊達家文書』1-429号)
天正17年 1589年 7月21日 64歳
前田利家
が
伊達政宗
に、
蘆名義広
を破り、会津(陸奥国)を領有したことに理解を示しつつも、会津は蘆名義広の領有を認める朱印状を発給済であり、
豊臣秀吉
も、政宗が自身の都合で蘆名領に侵攻したことについて不審に思っているので、秀吉に利家からも執り成しをするので、使者を京都に遣わし、
施薬院全宗
、
富田一白
と相談の上、事情を説明するように書状をもって促す。
出典:(天正17年)7月21日付前田利家書状(『伊達家文書』1-426号)
天正17年 1589年 7月22日 64歳
施薬院全宗
が
伊達政宗
及び片倉景綱に、
蘆名義広
はすでに
豊臣秀吉
に礼をし、秀吉の支配下の者であるので、政宗が秀吉の了解を得ることなしに、自身の都合で一戦し、会津(陸奥国)に居住することについて、秀吉はよく思っていないことを書状をもって伝える。
出典:(天正17年)7月22日付施薬院全宗書状(『伊達家文書』1-427号)、(天正17年)7月22日付施薬院全宗書状(『伊達家文書』1-428号)
天正18年 1590年 1月21日 65歳
豊臣秀吉
が
浅野長政
のもとを訪れ、能楽を見物する。秀吉に
今出川晴季
、
勧修寺晴豊
、中山、日野、高倉、
前田利家
、
施薬院全宗
が相伴する。
出典:『晴豊記』同年月日条、能楽番組書(『伊達家文書』1-468号)
文禄1年 1592年 12月8日 67歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-
文禄2年 1593年 閏9月15日 68歳
本願寺教如
が
大坂城
(摂津国)に到着する。
施薬院全宗
、
長束正家
、山中長俊が
豊臣秀吉
の使者として教如のもとを訪れる。全宗等からは、大坂に居所を拵えること、
織田信長
にとって教如は「大敵」であったこと、秀吉の代となり雑賀から貝塚、天満、七条(京都)へ本願寺が移転したことを秀吉の「御恩」と思うべきこと、教如の不行儀は父・
顕如
から秀吉に度々報告があったこと、顕如が本願寺住持職を
准如
に譲ると記した譲状が存在すること、顕如が折檻した家臣を教如が召し抱えていること、教如の妻女のこと、教如は心から不届きの心中を改めるべきこと、心を改めたのであれば今後10年は教如を門跡として認め、10年経った後は弟・准如に本願寺住持職を譲りること、この処置は教如を一方的に処罰するものであるが秀吉が教如に目をかけているからこそのことであること、もし改心しないのであれば3000石を下付し無役にして秀吉の茶の湯友達として奉公すること、以上の事を言い渡される。教如は上記の要件を承知し10年後に准如へ住持職を譲ることを返事する。しかし、その場にいた家臣が譲状の存在に疑義を呈したため、秀吉の怒りを買い、すぐに退隠するよう命じられる。
出典:『駒井日記』同年月16日条
文禄2年 1593年 10月5日 68歳
豊臣秀吉
、
前田利家
が
施薬院全宗
所に赴く。茶の湯の後、全宗が名護屋(肥前国)にて購入した壺を25枚(金?)にて召し上げる。
参内する。禁裏にて能を催す。
全宗所に帰る。
出典:『駒井日記』同年月日条
文禄3年 1594年 4月2日 69歳
豊臣秀吉
が
施薬院全宗
所を訪問する。その後、秀吉は甥・
秀次
に対面する。
出典:『駒井日記』同年月日条
文禄3年 1594年 4月5日 69歳
豊臣秀吉
が
施薬院全宗
所から
前田玄以
所を訪れる。
出典:『駒井日記』同年月日条
文禄3年 1594年 4月8日 69歳
豊臣秀吉
が
施薬院全宗
所から正式に
前田利家
邸を訪問する。能あり。全宗所に帰る。
出典:『駒井日記』同年月日条
文禄3年 1594年 4月10日 69歳
施薬院全宗
所から
豊臣秀吉
が
前田玄以
を召し連れ
前田利家
邸を訪問する。
出典:『駒井日記』同年月日条
慶長1年 1596年 10月27日 71歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-
慶長2年 1597年 4月25日 72歳
豊臣秀吉
が
施薬院全宗
所に入る。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条
慶長2年 1597年 5月22日 72歳
豊臣秀吉
が上洛する。屋敷の縄張りを行う。
施薬院全宗
所に入る。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』・『左大史孝亮記』同年月日条
慶長2年 1597年 8月29日 72歳
28日に
足利義昭
が死去したとの報告を
施薬院全宗
より受ける。
出典:『鹿苑日録』同年月日条
慶長4年 1599年 12月10日 74歳
施薬院全宗
が死去する。
出典:『東塔』
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