人 物 史

施薬院全宗 やくいん ぜんそう
生 没 年大永6年(1526)-慶長4年(1599)12/10
出 身-幼 名-
別 称徳雲軒
法 名-
戒 名-
丹波宗忠-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
-
官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
施薬院全宗 年表
和暦 西暦 年齢 事項 出典
大永6年1526--1施薬院全宗が生まれる。-
----15施薬院全宗延暦寺横川検校のもとで剃髪。『東塔』
元亀2年157191246織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条
元亀3年15725447吉田兼見、施薬院全宗織田信長に枇杷1折を贈る。木下秀吉が信長に披露する。『兼見卿記』同年月日条
元亀3年157291547明智光秀が上洛し施薬院全宗の所に逗留する。『兼見卿記』同年月日条
元亀3年157292747施薬院全宗が体調を崩した吉田兼右の脈を診る。『兼見卿記』同年月日条
元亀3年1572102247吉田兼見が病の父・兼右の薬について施薬院全宗に相談するため訪れる。全宗は薬を調合して兼見に渡す。『兼見卿記』同年月日条
天正3年157542350施薬院全宗のところにいた羽柴秀吉のもとに吉田兼見が訪れる。兼見は秀吉に饅頭50を贈る。『言継卿記』同年5/4条
天正5年157791552明智光秀、吉田兼見が施薬院全宗のもとを訪れる。『兼見卿記』同年月日条
天正12年158421159豪盛延暦寺復興のため西国に勧進に赴くにあたり、その活動を認める綸旨と令旨を賜るよう施薬院全宗が鳥居小路大蔵卿に請う。2月11日付施薬院全宗書状(「曼殊院文書」『大』11-5 同年月日条)
天正12年15845159延暦寺根本中堂・戒壇院の造営につき、延暦寺僧の豪盛施薬院全宗を本願として再興するようにと命じる。天正12年5月1日付羽柴秀吉判物(『山門復興文書』)
天正13年15853360羽柴秀吉が仙洞御所に赴く。その後、施薬院全宗邸に赴く。『兼見卿記』同年月日条
天正13年158531060羽柴秀吉施薬院全宗所より参内する。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158532560吉田兼見が施薬院全宗に音信を遣わす。諸方から音信を受けるているという。『兼見卿記』同年月日条
天正13年15854160施薬院全宗が吉田兼見に音信として鯛5、海老20、下樽桶2と書状を送る。『兼見卿記』同年月日条
天正13年158542560施薬院全宗本願寺顕如のもとに礼に赴く。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158542760羽柴秀吉大坂城(摂津国)にいたため、本願寺顕如の使者である下間頼廉円山内匠が大坂城に赴く。秀吉は頼廉・内匠に城内を案内し、施薬院全宗千宗易・孝蔵主・東殿と天守・女中部屋・納戸・雪隠・風呂をと廻る。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158571160羽柴秀吉への関白宣下が行われる。施薬院全宗のもとに赴く。その後、秀吉がその礼として参内する。『兼見卿記』同年月日条
天正13年158571360稲葉一鉄前田玄以松井友閑施薬院全宗が昇殿する。『兼見卿記』同年月日条
天正13年1585閏82660羽柴秀吉施薬院全宗のもとで茶湯を催す。全宗の所に近衛龍山大覚寺尊信大乗院尋憲一条内基、梶井宮最胤、飛鳥井雅春、日野輝資、烏丸光宣、吉田兼見が参礼として訪れる。龍山等が秀吉に進上した菓子を前田玄以が披露する。『兼見卿記』同年月日条
天正13年158591260施薬院全宗今井宗久・今井隼人を同道して本願寺顕如のもとに礼に訪れる。全宗は顕如・教如興正寺顕尊に銀5枚を贈る。顕如は子・教如、顕尊とともに全宗・宗久・隼人に対面する。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158591460羽柴秀吉が有馬(摂津国)に湯治のため向かう途中、天満本願寺に立ち寄る。石田三成増田長盛大谷吉継千抛筅斎施薬院全宗今井宗久、今井宗薫等が随従する。『宇野主水記』同年月日条
天正13年158510460細川幽斎施薬院全宗の所で茶会を催す。その茶会に羽柴秀吉が参会する。『兼見卿記』同年月日条
天正13年1585--60延暦寺根本中堂が再興する。『東塔五谷堂舎並各坊世譜』「根本中堂」の項(『天台宗全書』)
天正16年158872463毛利輝元小早川隆景吉川広家聚楽第(山城国)に登城し豊臣秀吉に謁す。輝元は太刀1腰・馬1疋(月毛)・鷹5連・白銀3000枚を、隆景は太刀1腰・白糸3折・白銀500枚を、広家は太刀1腰・馬1疋(粕毛)・白銀500枚を秀吉に進上する。奏者は前野長康。この場に聖護院道澄前田利家安国寺恵瓊細川忠興池田輝政島津義久立花宗茂、龍造寺政家、金森長近施薬院全宗蜂屋頼隆穂井田元清福原元俊口羽春良が列席する。『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」
天正17年158961664伊達政宗が、蘆名義広と戦い勝利し、会津(陸奥国)を領有したことを前田利家富田一白施薬院全宗に書状をもって伝える。使者は坂東屋道有。(天正17年)7月13日付富田一白書状(『伊達家文書』1-425号)、(天正17年)7月22日付坂東屋道有書状(『伊達家文書』1-429号)
天正17年158972164前田利家伊達政宗に、蘆名義広を破り、会津(陸奥国)を領有したことに理解を示しつつも、会津は蘆名義広の領有を認める朱印状を発給済であり、豊臣秀吉も、政宗が自身の都合で蘆名領に侵攻したことについて不審に思っているので、秀吉に利家からも執り成しをするので、使者を京都に遣わし、施薬院全宗富田一白と相談の上、事情を説明するように書状をもって促す。(天正17年)7月21日付前田利家書状(『伊達家文書』1-426号)
天正17年158972264施薬院全宗伊達政宗及び片倉景綱に、蘆名義広はすでに豊臣秀吉に礼をし、秀吉の支配下の者であるので、政宗が秀吉の了解を得ることなしに、自身の都合で一戦し、会津(陸奥国)に居住することについて、秀吉はよく思っていないことを書状をもって伝える。(天正17年)7月22日付施薬院全宗書状(『伊達家文書』1-427号)、(天正17年)7月22日付施薬院全宗書状(『伊達家文書』1-428号)
天正18年159012165豊臣秀吉浅野長政のもとを訪れ、能楽を見物する。秀吉に今出川晴季勧修寺晴豊、中山、日野、高倉、前田利家施薬院全宗が相伴する。『晴豊記』同年月日条、能楽番組書(『伊達家文書』1-468号)
文禄2年1593閏91568本願寺教如大坂城(摂津国)に到着する。施薬院全宗長束正家、山中長俊が豊臣秀吉の使者として教如のもとを訪れる。全宗等からは、大坂に居所を拵えること、織田信長にとって教如は「大敵」であったこと、秀吉の代となり雑賀から貝塚、天満、七条(京都)へ本願寺が移転したことを秀吉の「御恩」と思うべきこと、教如の不行儀は父・顕如から秀吉に度々報告があったこと、顕如が本願寺住持職を准如に譲ると記した譲状が存在すること、顕如が折檻した家臣を教如が召し抱えていること、教如の妻女のこと、教如は心から不届きの心中を改めるべきこと、心を改めたのであれば今後10年は教如を門跡として認め、10年経った後は弟・准如に本願寺住持職を譲りること、この処置は教如を一方的に処罰するものであるが秀吉が教如に目をかけているからこそのことであること、もし改心しないのであれば3000石を下付し無役にして秀吉の茶の湯友達として奉公すること、以上の事を言い渡される。教如は上記の要件を承知し10年後に准如へ住持職を譲ることを返事する。しかし、その場にいた家臣が譲状の存在に疑義を呈したため、秀吉の怒りを買い、すぐに退隠するよう命じられる。『駒井日記』同年月16日条
文禄2年159310568豊臣秀吉前田利家施薬院全宗所に赴く。茶の湯の後、全宗が名護屋(肥前国)にて購入した壺を25枚(金?)にて召し上げる。
参内する。禁裏にて能を催す。
全宗所に帰る。
『駒井日記』同年月日条
文禄3年15944269豊臣秀吉施薬院全宗所を訪問する。その後、秀吉は甥・秀次に対面する。『駒井日記』同年月日条
文禄3年15944569豊臣秀吉施薬院全宗所から前田玄以所を訪れる。『駒井日記』同年月日条
文禄3年15944869豊臣秀吉施薬院全宗所から正式に前田利家邸を訪問する。能あり。全宗所に帰る。『駒井日記』同年月日条
文禄3年159441069施薬院全宗所から豊臣秀吉前田玄以を召し連れ前田利家邸を訪問する。『駒井日記』同年月日条
慶長2年159742572豊臣秀吉施薬院全宗所に入る。『左大史孝亮記』同年月日条
慶長2年159752272豊臣秀吉が上洛する。屋敷の縄張りを行う。施薬院全宗所に入る。『義演准后日記』・『鹿苑日録』・『左大史孝亮記』同年月日条
慶長2年15978297228日に足利義昭が死去したとの報告を施薬院全宗より受ける。『鹿苑日録』同年月日条
慶長4年1599121074施薬院全宗が死去する。『東塔』
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