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慶長5年 1600年 9月20日
徳川秀忠が草津(近江国)に到着する。夜、大津城(近江国)に陣取っていた父・家康のもとに赴くが、すぐに草津に戻る。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月20日
池田輝政福島正則の連署をもって芦浦村への軍勢の狼藉、山林の伐採、放火刃傷質取を禁止する禁制を発給する。
出典:慶長5年9月20日付池田輝政・福島正則連署禁制(「芦浦観音寺文書」)

慶長5年 1600年 9月21日
毛利輝元増田長盛黒田長政井伊直政を介し徳川家康との和睦を請う。家康は和睦の申し出を受け入れる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月21日
徳川家康が法度三ヶ条を定める。
出典:『東塔五谷堂舎並各坊世譜』「根本中堂」の項(『天台宗全書』)

慶長5年 1600年 9月21日
加藤清正宇土城(肥後国)を攻める。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」

慶長5年 1600年 9月-日
田中吉政の家臣が石田三成を捕縛する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月22日
早朝、島津義弘が大隅国に帰国すべく、住吉(摂津国)の田辺屋道与邸を出立する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」の項

慶長5年 1600年 9月23日
大坂城(摂津国)西ノ丸に居た毛利輝元が木津(和泉国)に退く。西ノ丸を井伊直政本多忠勝福島正則池田輝政浅野幸長藤堂高虎が請け取る。
田中吉政警固のもと石田三成の身柄が大津(近江国)に居る徳川家康のもとへ引き渡される。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月23日
増田長盛大坂城(摂津国)を出て、居城・大和郡山城(大和国)に蟄居する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月23日
黒田如水に垣見理右衛門・藤井九左衛門の守る富来城(豊後国)を攻める。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月24日
黒田如水に垣見理右衛門・藤井九左衛門の守る富来城(豊後国)を鉄砲にて砲撃する。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月25日
徳川家康が大津(近江国)にて、子・秀忠と対面する。伏見城(山城国)に入る。
増田長盛の死罪を免じ、所領を没収する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月25日
徳川家康の裁定により、増田長盛は死罪をまぬがれるが、所領を没収され、高野山に蟄居する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月27日
徳川家康が大津(近江国)を出て淀(山城国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月27日
徳川家康が藤森(山城国)にて酒井重忠忠利兄弟に大津城(近江国)の守備を命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第61「酒井忠利」能項

慶長5年 1600年 9月28日
教如が大坂に下向する。
出典:『御堂日記』(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長5年 1600年 9月28日
徳川家康が淀(山城国)を発し、申刻(15-17時)、大坂城(摂津国)西ノ丸に入る。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月28日
徳川秀忠伏見城(山城国)を発し、大坂城(摂津国)に入り二ノ丸に居す。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月28日
徳川秀忠大坂城(摂津国)に入城し、二ノ丸に居す。申刻(15-17時)、徳川家康が大坂城西ノ丸に入る。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月29日
摂関家、公家衆が大坂城(摂津国)にいる徳川家康秀忠父子のもとへ礼に訪れる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 -月-日
徳川家康の命により保科正光が北之庄城(越前国)に城番として入り、越前国の政務を取り仕切る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正光」の項

慶長5年 1600年 10月1日
石田三成小西行長安国寺恵瓊大坂城(摂津国)より京都に送られ、洛中にて引き回しのうえ、六条河原にて処刑される。3名の首は三条橋にて晒される。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻11「長政記」

慶長5年 1600年 10月1日
徳川家康が能勢頼次に摂津国能勢郡内で6800石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第272「能勢頼次」の項

慶長5年 1600年 10月2日
石田三成小西行長安国寺恵瓊の首を三条橋にさらす。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

慶長5年 1600年 10月2日
加藤清正浅野幸長に、関ヶ原の戦いの戦勝を祝す。また、清正が攻撃中の宇土城(肥後国)は二ノ丸まで落としたので間もなく落とせること、立花宗茂柳川城(筑後国)に入ったので、宇土城攻略後は柳川城攻めに入ること、九州及び畿内の石田三成方は絶対に赦免しないで欲しいことを伝える。
出典:(慶長5年)10月2日付加藤清正書状

慶長5年 1600年 10月2日
黒田如水が垣見一直の居城・富来城(豊後国)を攻め落とす。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 10月2日
大垣城(美濃国)にて垣見一直が殺害されたことを伝える垣見家の使者が富来城(豊後国)を包囲中の黒田如水勢に捕縛される。如水は使者を富来城に遣わす。一直の死を知った垣見理右衛門・藤井九左衛門は富来城(豊後国)を如水に明け渡す。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 10月3日
近江国にて長束正家が切腹する。首は三条橋にさらされる。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

慶長5年 1600年 10月3日
島津義弘富隈城(大隅国)に到着する。義弘は兄・義久に対面し、自身が石田三成方に与したことを詫びる。その後、義弘は桜島に蟄居する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」の項

慶長5年 1600年 10月4日
黒田如水が富来城(豊後国)を発ち、広津山(豊前国)に陣取る。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」、『関原始末記』

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