慶長5年 1600年 9月8日 |
徳川家康が白須賀(遠江国)に宿泊する。加賀国、能登国、越中国の視察に赴いていた三枝守英が家康のもとに戻り、前田利長が家康方として二心が無い旨を報告する。 |
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第1152「三枝守英」の項 |
慶長5年 1600年 9月9日 |
徳川家康が岡崎城(三河国)に宿泊する。 |
出典:『関原始末記』 |
慶長5年 1600年 9月9日 |
辰刻(7-9時)、黒田如水が豊後国に攻め入るべく中津城(豊前国)より出陣する。備一番は母里友信、二番は黒田直之、三番は栗山利安・黒田五郎右衛門、四番は井上之房、五番は野村市右衛門・後藤左門、六番は母里与三兵衛・時枝平大夫、七番は久野次左衛門・曽我部五右衛門・池田九郎兵衛・黒田安大夫の総勢9000余。中津城には黒田利則を、感田城(豊前国)には衣笠景延・高橋彦次郎を、馬ヶ嶽城(豊前国)には桐山信行・宮崎助大夫をを置く。如水勢は高森城にて一宿する。 |
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」 |
慶長5年 1600年 9月10日 |
徳川家康が熱田(尾張国)に宿泊する。 |
出典:『関原始末記』 |
慶長5年 1600年 9月10日 |
伊勢口より毛利秀元、長宗我部盛親、長束正家、豊臣秀頼の弓・鉄砲衆、軍勢総じて30000が南宮山(美濃国)に着陣する。 |
出典:『細川忠興軍功記』 |
慶長5年 1600年 9月10日 |
黒田如水勢が高田城(豊後国)の竹中重信の軍勢と合流し、赤根峠に陣取る。 夜、大友義統が浜脇(豊後国)に到着する。大友勢は松井康之・有吉立行の籠る杵築城(豊後国)を攻める。孝高は井上之房・久野次左衛門・野村市右衛門・後藤左門・時枝平大夫・母里与三兵衛・曽我部五右衛門・池田九郎兵衛・黒田安大夫の軍勢3000を援軍として遣す。 |
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」 |
慶長5年 1600年 9月11日 |
徳川家康が清須城(尾張国)に宿泊する。 |
出典:『関原始末記』 |
慶長5年 1600年 9月11日 |
黒田如水が垣見理右衛門・藤井九左衛門の籠る富来城(豊後国)を包囲する。如水は杵築城(豊後国)の救援に向かうため、同城より引き上げる。 |
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」 |
慶長5年 1600年 9月11日 |
大津城(近江国)の京極高次を攻めるため立花宗茂、毛利秀包が大坂(摂津国)より出陣する。 |
出典:『関原陣輯録』「大津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年) |
慶長5年 1600年 9月12日 |
徳川家康が清須城(尾張国)に逗留する。 |
出典:『関原始末記』 |
慶長5年 1600年 9月12日 |
小野木重次率いる軍勢15000が細川幽斎の籠る田辺城(丹後国)を包囲する中、藤孝が死に古今伝授が途絶えることを危惧した禁裏が、勅使として中院通勝・三条実脩・烏丸光広を遣わし、幽斎に降伏を説く。幽斎は勅使の説得を受け入れ田辺城を開城し、亀山城(丹波国)に移る。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川藤孝」の項 |
慶長5年 1600年 9月12日 |
末次元康、毛利秀包、立花宗茂、筑紫広門、南条元忠、石川頼明、多賀秀種、吉川蔵人が京極高次の籠る大津城(近江国)を攻め、二ノ丸を落とす。 |
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原陣輯録』「大津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年) |
慶長5年 1600年 9月12日 |
末次元康、毛利秀包、立花宗茂、立花直次、筑紫広門、南条元忠、石川頼明、多賀秀種、吉川蔵人が京極高次の籠る大津城(近江国)を攻め、二ノ丸を落とす。 |
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原陣輯録』「大津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年)、『寛政重修諸家譜』巻第113「立花直次」の項目 |
慶長5年 1600年 9月12日 |
黒田如水が安岐城(豊後国)の近くに陣取る。如水勢と安岐城を守っていた熊谷次郎介が戦う。 |
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」 |
慶長5年 1600年 9月13日 |
徳川家康が清須城(尾張国)より岐阜城(美濃国)に移る。 |
出典:『関原始末記』、『細川忠興軍功記』 |
慶長5年 1600年 9月13日 |
石垣原の合戦で黒田如水と大友義統が戦い、如水が勝利する。 |
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」、『関原始末記』 |
慶長5年 1600年 9月13日 |
末次元康、毛利秀包、立花宗茂、立花直次、筑紫広門、南条元忠、石川頼明、多賀秀種、吉川蔵人が京極高次の籠る大津城(近江国)本丸を攻める。 |
出典:慶長5年9月18日付毛利秀包感状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号75)、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原陣輯録』「大津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年)、『寛政重修諸家譜』巻第113「立花直次」の項目 |
慶長5年 1600年 9月14日 |
宇喜多秀家、小西行長、長束正家、石田三成、大谷吉継、安国寺恵瓊の連名で、小早川秀秋に対し、豊臣秀頼が15歳になるまで関白職と天下の進退を秀秋に委ねること、播磨国を給付すること、秀秋家老の稲葉佐渡守・平岡頼勝に近江国内で10万石と金子300枚を給付することを記した誓詞を発給する。 深夜、南宮山に陣取る。 |
出典:『関原始末記』 |
慶長5年 1600年 9月14日 |
宇喜多秀家、小西行長、長束正家、石田三成、大谷吉継、安国寺恵瓊の連名で、小早川秀秋に対し、豊臣秀頼が15歳になるまで関白職と天下の進退を秀秋に委ねること、播磨国を給付すること、秀秋家老の稲葉佐渡守・平岡頼勝に近江国内で10万石と金子300枚を給付することを記した誓詞を発給する。 深夜、大垣城(美濃国)を発し、牧田通を経て、関ヶ原に赴き、小関宿の北の山際に陣取る。 |
出典:『関原始末記』 |
慶長5年 1600年 9月14日 |
宇喜多秀家、小西行長、長束正家、石田三成、大谷吉継、安国寺恵瓊の連名で、小早川秀秋に対し、豊臣秀頼が15歳になるまで関白職と天下の進退を秀秋に委ねること、播磨国を給付すること、秀秋家老の稲葉佐渡守・平岡頼勝に近江国内で10万石と金子300枚を給付することを記した誓詞を発給する。 深夜、関ヶ原に陣取る。 |
出典:『関原始末記』 |
慶長5年 1600年 9月14日 |
脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠とともに松尾山(美濃国)に陣取る。 宇喜多秀家、小西行長、長束正家、石田三成、大谷吉継、安国寺恵瓊の連名で、豊臣秀頼が15歳になるまで関白職と天下の進退を秀秋に委ねること、播磨国を給付すること、秀秋家老の稲葉佐渡守・平岡頼勝に近江国内で10万石と金子300枚を給付することを記した誓詞が秀秋に発給される。 |
出典:『関原始末記』 |
慶長5年 1600年 9月14日 |
深夜、甥・豊久とともに関ヶ原に陣取る。 |
出典:『関原始末記』 |
慶長5年 1600年 9月14日 |
徳川家康が赤坂(美濃国)に着陣する。岡山を本陣と定める。 京極高次の大津城(近江国)が落ちる。 |
出典:『関原始末記』 |
慶長5年 1600年 9月14日 |
徳川家康が赤坂(美濃国)に着陣する。岡山を本陣と定める。 杭瀬川で島清興と中村一忠、有馬豊氏が戦い、清興が勝利する。苦戦する一忠、豊氏を本多忠勝が救出する。 |
出典:『関原始末記』 |
慶長5年 1600年 9月14日 |
深夜、南宮山に陣取る。 |
出典:『関原始末記』 |
慶長5年 1600年 9月15日 |
関ヶ原の合戦で徳川家康と石田三成が戦い、家康が勝利する。 家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政・加藤嘉明・細川忠興・金森長近が石田三成と、福島正則・松平忠吉・井伊直政が宇喜多秀家・小西行長と、藤堂高虎が大谷吉継と戦い、池田輝政・浅野幸長が南宮山の毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘・島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。 徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。 石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。 |
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜』 |
慶長5年 1600年 9月15日 |
関ヶ原の合戦で徳川家康と石田三成が戦い、家康が勝利する。 家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政・加藤嘉明・細川忠興・金森長近が石田三成と、福島正則・松平忠吉・井伊直政が宇喜多秀家・小西行長と、藤堂高虎が大谷吉継と戦い、池田輝政・浅野幸長が南宮山の毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘・島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。 徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。 石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。 |
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜』 |
慶長5年 1600年 9月15日 |
関ヶ原の合戦で徳川家康と石田三成が戦い、家康が勝利する。 家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政・加藤嘉明・細川忠興・金森長近が石田三成と、福島正則・松平忠吉・井伊直政が宇喜多秀家・小西行長と、藤堂高虎が大谷吉継と戦い、池田輝政・浅野幸長が南宮山の毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘・島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。 徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。 石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。 |
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜』 |
慶長5年 1600年 9月15日 |
関ヶ原の合戦で徳川家康と石田三成が戦い、家康が勝利する。 家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政・加藤嘉明・細川忠興・金森長近が石田三成と、福島正則・松平忠吉・井伊直政が宇喜多秀家・小西行長と、藤堂高虎が大谷吉継と戦い、池田輝政・浅野幸長が南宮山の毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘・島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。 徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。 石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。 |
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜』 |
慶長5年 1600年 9月15日 |
関ヶ原の合戦で徳川家康と石田三成が戦い、家康が勝利する。 家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政・加藤嘉明・細川忠興・金森長近が石田三成と、福島正則・松平忠吉・井伊直政が宇喜多秀家・小西行長と、藤堂高虎が大谷吉継と戦い、池田輝政・浅野幸長が南宮山の毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘・島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。 徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。 石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。 |
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜』 |