人 物 史

浅野幸長 あさの よしなが
生 没 年天正4年(1576)-慶長18年(1613)8/25
出 身近江国幼 名-
別 称長満、長慶、長継
法 名-
戒 名-
浅野長政やや(長生院)(浅野長勝の娘)
兄 弟 姉 妹浅野幸長浅野長晟、浅野長重、娘(杉原長房の妻)、娘(堀親良の妻)、娘(松平定綱の妻)、養女(多羅尾光定の妻)
配 偶 者三好吉房の娘、前田利家の娘・与米、池田恒興の娘
-
官 位紀伊守、左京大夫
役 職-
城 郭甲府城(甲斐国)、和歌山城(紀伊国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ浅野幸長の関連文化財
浅野幸長の家臣
史料にみえる浅野幸長の呼称
浅野幸長 年表
天正4年 1576年 -月-日 1歳
浅野幸長が生まれる。
出典:-

天正12年 1584年 4月9日 9歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正13年 1585年 7月11日 10歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正14年 1586年 1月28日 11歳
弟・長晟が近江国滋賀郡坂本にて生まれる。
出典:-

天正14年 1586年 10月27日 11歳
徳川家康羽柴秀吉のもとを訪れ臣従の礼をする。金100枚、縮100端を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正15年 1587年 1月25日 12歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 12歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 12歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 12歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 12歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 12歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 12歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 12歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 12歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 12歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 12歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 12歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 12歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 12歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 12歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 12歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 12歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 12歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 12歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 12歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 12歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 12歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 12歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正17年 1589年 11月10日 14歳
浅野長継が、夏に伊達政宗より書状・馬(大黒)1疋を贈ってくれたことへの礼状を発給する。
出典:(天正17年)11月10日付浅野幸長書状

天正18年 1590年 3月1日 15歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 4月5日 15歳
徳川家康小田原城(相模国)早川口に陣取った浅野幸長に当口の様子をうかがうとともに、攻撃は機を合わせるようにしようと伝える。
出典:(天正18年)4月5日付徳川家康書状(『浅野家文書』23号)

天正18年 1590年 7月6日 15歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 15歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正20年 1592年 3月13日 17歳
豊臣秀吉浅野幸長に名護屋城(肥前国)への在陣を命じる。
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』77号)

文禄1年 1592年 12月8日 17歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 3月10日 18歳
豊臣秀吉が釜山浦に在陣中の浅野長政増田長盛に城普請を命じる。釜山浦に在陣の衆は、長政・浅野幸長伊達政宗(軍勢4900)、織田秀信(軍勢6000)、長盛(軍勢1000)、長盛麾下の宇都宮国綱(軍勢300)、長盛麾下の里見義康(軍勢150)、長盛麾下の那須資晴・成田氏長(軍勢220)の総勢12600。
出典:文禄3年3月10日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』263号)

文禄2年 1593年 5月20日 18歳
豊臣秀吉が牧使城の包囲を命じる。包囲の衆は、鍋島直茂(軍勢7642)、黒田長政(軍勢5082)、加藤清正・相良頼房(軍勢6790)、毛利吉成(軍勢1671)、島津義弘(軍勢2128)、高橋元種(軍勢741)、秋月種長(軍勢388)、島津忠豊(476)、伊東祐兵(706)の総勢30980と小西行長宗義智・松浦鎮信・大村喜前・五島純玄・有馬晴信(軍勢7415)、長谷川秀一(軍勢2470)、細川忠興(軍勢2296)、昌原十一人衆(軍勢4400)、浅野長政長継父子(軍勢4000)、織田秀信(軍勢4018)、伊達政宗(軍勢1258)、黒田孝高(軍勢325)の総勢52000。
出典:文禄3年5月20日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』955号)

文禄2年 1593年 11月20日 18歳
豊臣秀吉浅野長政幸長父子に甲斐国一国を給付すること、伊達政宗、南部信直、宇都宮国綱、那須資晴、成田氏長を与力として付すことを伝える。
出典:同年月日付豊臣秀吉判物(『浅野家文書』321号)

文禄4年 1595年 7月8日 20歳
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 20歳
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 20歳
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 20歳
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 21歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 2月21日 22歳
豊臣秀吉が朝鮮攻めの陣立を定める。
1・2番 加藤清正(軍勢10000)、小西行長(軍勢7000)、宗義智(軍勢1000)、松浦鎮信(軍勢3000)、有馬晴信(軍勢2000)、大村喜前(軍勢1000)、五島純玄(軍勢700)
3番 黒田長政(軍勢5000)、毛利吉成・勝永(軍勢2000)、島津豊久(軍勢800)、高橋元種(軍勢600)、秋月種長(軍勢300)、伊東祐兵(軍勢500)、相良長毎(軍勢800)
4番 鍋島直茂勝茂(軍勢12000)
5番 島津義弘(軍勢10000)
6番 長宗我部元親(軍勢3000)、藤堂高虎(軍勢2800)、池田秀氏(軍勢2800)、加藤嘉明(軍勢2400)、来島通総(軍勢600)、中川秀成(軍勢1500)、菅達長(軍勢200)
7番 蜂須賀家政(軍勢7200)、生駒親正(軍勢2700)、脇坂安治(軍勢1200)
8番 毛利秀元(軍勢30000)、宇喜多秀家(軍勢10000)
釜山かい城在番 小早川秀秋(軍勢10000)
あんこうらいの城在番 立花宗茂(軍勢5000)
加徳城在番 高橋直次(軍勢500)、筑紫広門(軍勢500)
竹島城在番 毛利秀包(軍勢1000)
西生浦城在番 浅野幸長(軍勢3000)
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』271号)

慶長2年 1597年 6月10頃日 22歳
浅野幸長勢が朝鮮に向けて大坂(摂津国)を出航する。
出典:浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号)

慶長2年 1597年 7月20頃日 22歳
浅野幸長勢が西生浦に到着する。
出典:浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号)

慶長2年 1597年 9月-日 22歳
浅野幸長加藤清正より蔚山城を請け取り、本丸の普請をする。
出典:浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号)

慶長2年 1597年 10月12日 22歳
加藤清正太田一吉が蔚山に城を築くべく縄張り打ちをする。一吉は浅野幸長宍戸元続安国寺恵瓊に持ち場を割り当て普請を急がせる。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 11月10日 22歳
浅野幸長加藤清正が蔚山城の普請を始める。監視役として豊臣秀吉のもとから太田一吉が同城に遣わされる。
出典:浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号)

慶長2年 1597年 11月-日 22歳
蔚山城が完成する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 12月2日 22歳
明・朝鮮の軍勢が浅野幸長加藤清正等の籠る蔚山城を攻める。
出典:浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号)

慶長2年 1597年 12月22日 22歳
卯刻(5-7時)、明・朝鮮軍が蔚山城を攻める。先陣をつとめる中国衆に明・朝鮮軍が攻めかかる。巳下刻(10時)、中国衆が先陣から撤退し、蔚山城惣構に入る。浅野幸長加藤清正太田一吉宍戸元続が防戦する。 夜、蔚山城を攻めていた明・朝鮮軍が同城の南1里半のところにある「うぢ山」や「東の山まきの島」に陣取る。清正は幸長と談合し、西生浦にいる日本勢に援軍を要請する。
出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)、『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 12月23日 22歳
浅野幸長宍戸元続が築城した蔚山城を加藤清正に引き渡す。
卯刻(5-7時)、明・朝鮮軍が蔚山城の総構の東を攻める。巳下刻(10時)、蔚山城の惣構を明・朝鮮軍が破ったため、籠城していた清正、幸長、太田一吉は本丸・二ノ丸に撤退する。
夜、明・朝鮮軍が蔚山城に攻め寄せる。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)、浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号)、浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長2年 1597年 12月24日 22歳
辰下刻(8時)、浅野幸長加藤清正等の籠る蔚山城に明・朝鮮の軍勢が大責めをかけるが、幸長・清正等が防戦し、申刻(15-17時)、明・朝鮮軍が撤退する。
出典:浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号)、浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長2年 1597年 12月25日 22歳
西生浦から蔚山城に日本勢が援軍として到着する。
出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長2年 1597年 12月26日 22歳
明・朝鮮軍が蔚山城の三ノ丸を攻める。三ノ丸の守備を担った加藤重次は、竹束でもって攻め入る明・朝鮮軍に対し、竹束を焼き払う。
出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長2年 1597年 12月27日 22歳
毛利吉成、山口宗永が船にて蔚山城の様子をうかがう。船と城とで馬印を振り会う。吉成、宗永は西生浦に戻る。
出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長2年 1597年 12月28日 22歳
明・朝鮮軍が蔚山城の三ノ丸を攻める。明・朝鮮軍は三ノ丸の櫓を焼き払うべく柴も持ち出すが、日本勢が退ける。
出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長2年 1597年 12月29日 22歳
未刻(13-15時)、毛利秀元黒田長政、竹中源介、山口宗永が船から蔚山城の様子をうかがう。秀元等は西生浦に戻る。
出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月1日 23歳
蔚山城に籠る加藤清正浅野長慶が、蔚山城の普請が未完のまま、兵粮も少ない中で明軍の攻撃を受けているが、例え援軍がなくても戦い抜くので、その旨を豊臣秀吉に報告してほしいと小早川秀秋毛利秀元蜂須賀家政竹中重利、早川長政、熊谷直盛、垣見家純、毛利高政、福原長堯に伝える。
出典:同年月日付加藤清正・浅野幸長連署状(『浅野家文書』87号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月2日 23歳
巳刻(9-11時)、長宗我部元親盛親父子が船20・30叟にて蔚山城に到着する。未刻(13-15時)、池田秀氏が船にて蔚山城に到着する。
出典:浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月3日 23歳
子刻(23-1時)、明・朝鮮軍が蔚山城を攻める。辰刻(7-9時)、明・朝鮮軍が城攻めを止める。
出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月4日 23歳
巳刻(9-11時)、浅野幸長加藤清正等の籠る蔚山城を攻めていた明・朝鮮の軍勢が撤退する。夜、蔚山城の救援に赴いていた日本勢が蔚山城に入城する。
出典:浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号)、浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月6日 23歳
蔚山城に籠城していた日本勢が、同城を発ち、西生浦まで移る。
出典:浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月17日 23歳
1月4日の蔚山城の合戦について報告を受けた豊臣秀吉毛利輝元増田長盛、因幡国衆、但馬国衆、紀伊国衆、大和国衆、九鬼嘉隆守隆父子を同城に遣わしたこと、蔚山を始め諸城の普請を徹底すること、兵粮・弾薬を補充し、少なければ申し出ること、浅野幸長太田一吉は帰国することを伝える朱印状を発給する。
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』82号)

慶長3年 1598年 3月2日 23歳
浅野幸長が西生浦を発ち、釜山浦まで船で移動する。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月3日 23歳
浅野幸長が梁山に到着する。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月4日 23歳
浅野幸長が梁山に逗留する。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月5日 23歳
浅野幸長が昌原に到着する。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月6日 23歳
浅野幸長が唐島の瀬戸に留まる。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月7日 23歳
浅野幸長が南海の瀬戸に留まる。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月8日 23歳
浅野幸長が順天、さらに泗川に移る。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月9日 23歳
浅野幸長が南海に移る。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月10日 23歳
浅野幸長が固城に移る。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月11日 23歳
浅野幸長が釜山浦に移る。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月12日 23歳
浅野幸長が西生浦に移る。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月16日 23歳
浅野幸長がしいの木島に移る。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月18日 23歳
浅野幸長が住吉瀬戸に移る。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月20日 23歳
浅野幸長が風本(壱岐国)に移る。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月21日 23歳
浅野幸長が名護屋城(肥前国)に到着する。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月22日 23歳
浅野幸長があいの島に到着する。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月23日 23歳
浅野幸長が下関(長門国)に到着する。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月24日 23歳
浅野幸長が室積に到着する。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月25日 23歳
浅野幸長が上関(周防国)に到着する。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月26日 23歳
浅野幸長が津和に到着する。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月27日 23歳
浅野幸長が鞆(備後国)に到着する。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月28日 23歳
浅野幸長が白石に到着する。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月29日 23歳
浅野幸長が濃地島に到着する。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長3年 1598年 3月30日 23歳
浅野幸長が室(播磨国)に到着する。
出典:浅野幸長高麗陣雑事覚書(『浅野家文書』256号)

慶長4年 1599年 1月10日 24歳
豊臣秀頼伏見城(山城国)から大坂城(摂津国)に移る。徳川家康前田利家等が供奉する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長4年 1599年 閏3月7日 24歳
石田三成佐和山城(近江国)に隠居させられる。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 閏3月10日 24歳
石田三成佐和山城(近江国)に隠居させられる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 6月16日 25歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 7月2日 25歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 8月1日 25歳
池田輝政による石田三成討伐に賛同した浅野幸長池田輝政加藤嘉明黒田長政福島正則細川忠興清須城(尾張国)に向けて江戸城(武蔵国)を発す。井伊直政本多忠勝が目付として同じく江戸城を発つ。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 8月14日 25歳
浅野幸長池田輝政加藤嘉明黒田長政福島正則細川忠興井伊直政本多忠勝清須城(尾張国)に到着する。
出典:『関原始末記』、『黒田家記』巻10「長政記」

慶長5年 1600年 8月22日 25歳
浅野幸長が織田家家臣・木造左衛門佐と戦い、幸長が勝利する。
池田輝政が河向に在陣中、織田家家老・百々綱家が池田輝政勢を攻める。米野(美濃国)にて織田秀信勢と輝政・一柳直盛が戦い、輝政が勝利する。輝政は瑞龍寺口まで織田勢を追撃する。
織田秀信勢:飯沼長資(戦死)。
池田輝政勢:池田輝政、伊木忠次池田長吉(飯沼長資を討取る)。
出典:『関原始末記』、(慶長5年)8月24日付福島正則書状(『浅野家文書』114号)

慶長5年 1600年 8月23日 25歳
福島正則池田輝政細川忠興加藤嘉明浅野幸長山内一豊井伊直政本多忠勝等が織田秀信の籠る岐阜城(美濃国)を攻め、同城を落とす。
攻衆:井伊直政[惣奉行][瑞龍寺出丸]、本多忠勝[総奉行][瑞龍寺出丸]、福島正則[大手町口]、加藤嘉明[大手町口]、細川忠興[浄土口]、山内一豊[浄土口]、浅野幸長[瑞龍寺出丸]、池田輝政[長良川の城搦手](一番乗)、細川忠隆[細川忠興勢]、細川興秋[細川忠興勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]。
織田秀信勢:織田秀信[大将]。
出典:『関原始末記』、(慶長5年)8月24日付福島正則書状(『浅野家文書』114号)、『寛政重修諸家譜』巻第105「細川忠隆」、同105「細川興秋」の項、同263「池田利隆」の項、同267「池田長吉」の項、同773「加藤嘉明」の項

慶長5年 1600年 8月28日 25歳
浅野幸長黒田長政が連署状でもって小早川秀秋石田三成方から徳川家康方に与するよう説得する。
出典:(慶長5年)8月28日付浅野幸長・黒田長政連署状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号143)

慶長5年 1600年 9月15日 25歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長5年 1600年 9月19日 25歳
福島正則池田輝政浅野幸長が、徳川家康の命を受け、上洛し禁裏を警固する。また、洛中・洛外に三名連署の制札を発給する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月23日 25歳
大坂城(摂津国)西ノ丸に居た毛利輝元が木津(和泉国)に退く。西ノ丸を井伊直政本多忠勝福島正則池田輝政浅野幸長藤堂高虎が請け取る。
田中吉政警固のもと石田三成の身柄が大津(近江国)に居る徳川家康のもとへ引き渡される。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 10月2日 25歳
加藤清正浅野幸長に、関ヶ原の戦いの戦勝を祝す。また、清正が攻撃中の宇土城(肥後国)は二ノ丸まで落としたので間もなく落とせること、立花宗茂柳川城(筑後国)に入ったので、宇土城攻略後は柳川城攻めに入ること、九州及び畿内の石田三成方は絶対に赦免しないで欲しいことを伝える。
出典:(慶長5年)10月2日付加藤清正書状

慶長8年 1603年 2月12日 28歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 30歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長10年 1605年 9月-日 30歳
京都より江戸城(武蔵国)に帰城途上の徳川家康掛川城(遠江国)の松平定勝のもとを訪れる。その際、家康が定勝に対し、子・定行に島津忠恒の娘を、子・定綱に浅野長政の娘を娶るよう命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項

慶長14年 1609年 1月11日 34歳
浅野幸長が、豊臣秀頼淀殿に年頭の礼をするため和歌山城(紀伊国)を発する。
出典:(慶長14年)2月10日付浅野長政書状(『浅野家文書』116号)

慶長15年 1610年 4月9日 35歳
浅野幸長が尾張国に向かうため伏見(山城国)を発つ。
出典:同年月19日付浅野長晟書状(『浅野家文書』194号)

慶長16年 1611年 4月7日 36歳
父・長政が死去する。
出典:-

慶長16年 1611年 9月19日 36歳
伊達政宗が大鷹を、浅野幸長が父・長政遺物の刀(銘 長光)・茶壺(銘 鎮西)を、最上家親が大鷹を徳川家康に進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月28日 37歳
徳川家康名古屋城(尾張国)の屋敷普請、堀普請を命じる。
浅野幸長が使者をもって家康に御服5領を献上する。家康は幸長に鶴を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月3日 38歳
駿府城(駿河国)にて三献の祝が行われる。徳川義利徳川頼宣、徳川頼房が参席する。前田利長上杉景勝毛利宗瑞池田輝政島津家久伊達政宗佐竹義宣蒲生忠郷・京極忠高・京極高知・南部利直最上義光森忠政・毛利秀就・細川忠利池田利隆浅野幸長蜂須賀至鎮福島正則黒田長政堀尾忠晴山内忠義田中忠政鍋島勝茂加藤嘉明生駒正俊の名代が徳川家康に太刀を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 3月28日 38歳
浅野幸長が病気療養のため相国寺鹿苑院に宿泊する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長18年 1613年 4月9日 38歳
病気療養のため相国寺鹿苑院に宿泊中の浅野幸長を道安が診察する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長18年 1613年 8月24日 38歳
未刻(13-15時)、浅野幸長の病が再発する。
出典:『駿府記』同年月29日条

慶長18年 1613年 8月25日 38歳
辰刻(7-9時)、浅野幸長和歌山(紀伊国)にて死去する。
出典:『駿府記』同年9月1日条、『当代記』同年月日条、『慶長年録』同年月日条、『浅野考譜』

慶長18年 1613年 10月8日 
富田信高坂崎直盛を訴えた件につき、江戸城(武蔵国)南殿にて徳川家康秀忠父子が直盛勝訴の裁許を出す。
夜、浅野幸長の遺物として玉堂肩衝茶入・脇差(銘 吉光)・キネノオレ・古銅花入が家康に進上したことを本多正信が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月18日 
辰刻(7-9時)、徳川家康が復調により江戸城(武蔵国)本丸に赴く。本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝松平正久後藤光次、医師衆、近習衆100名程が供奉する。
申刻(15-17時)、浅野長晟が江戸城(武蔵国)にいる家康の前に召し出され、兄・幸長の実子がいなかったため遺領を継ぐことが認められる。
出典:『駿府記』同年月日条

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