天文8年 1539年 5月12日 |
釜山浦鎮 慶尚左道水軍僉節制使と東莱県令に倭館の大庁で会見する。酒宴が催される。 |
出典:『大願寺尊海渡海日記』 |
天文8年 1539年 5月17日 |
三好政長の被官・唐木崎開康が買得した大徳寺領正親町万里小路4丁町内の地について足利義晴より大徳寺に返付するようにとの命が下ったことを受け、大徳寺に返付する旨を伝える書状を発給する。 |
出典:(天文8年)5月17日付三好政長書状案(『戦国遺文』三好氏編第1巻-114号「大徳寺文書」) |
天文8年 1539年 5月18日 |
北野社の宮仕能久が蜷川親俊のもとへ巻数を届ける。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 5月25日 |
蜷川親俊が代官を北野社に遣わす。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 6月1日 |
細川晴元、伊勢貞孝が幕府に出仕する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 6月5日 |
三好政長が清凉寺に軍勢の乱暴・狼藉、寺内竹木の伐採、盗賊の禁止、臨時課役の賦課、喧嘩の禁止を保障する禁制を発給する。 |
出典:天文8年6月5日付三好宗三禁制(『戦国遺文』三好氏編第1巻-116号「清凉寺文書」) |
天文8年 1539年 6月8日 |
漢城より通事(司訳院)の張氏が釜山にやってくる。 |
出典:『大願寺尊海渡海日記』 |
天文8年 1539年 6月10日 |
足利義晴が細川典厩に先例があるとして築地の修復を命じるも、典厩は先例はなく、また手元如意につき拒否をする。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 6月11日 |
尊海一行に役只(まかない)が振る舞われる。 |
出典:『大願寺尊海渡海日記』 |
天文8年 1539年 6月12日 |
尊海一行が接待を受ける。 |
出典:『大願寺尊海渡海日記』 |
天文8年 1539年 6月14日 |
尊海一行が接待を受ける。 |
出典:『大願寺尊海渡海日記』 |
天文8年 1539年 6月15日 |
河舟の衆7人を調達する。漢城まで運ぶ荷物の総量は93駄。 |
出典:『大願寺尊海渡海日記』 |
天文8年 1539年 6月15日 |
陸衆8人を調達する。また釜山浦鎮 慶尚左道水軍僉節制使)と東莱県令による酒宴あり。梁山に到着する。 |
出典:『大願寺尊海渡海日記』 |
天文8年 1539年 6月20日 |
左近衛大将となる。 |
出典:『系図纂要』「三条」 |
天文8年 1539年 6月23日 |
三好長慶の母死去につき、中島(摂津国)の崇禅寺にて仏事を勤行する。本願寺証如が長慶に香典1000疋を送る。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 6月25日 |
蜷川親俊が北野社に参詣する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 6月28日 |
足利千歳丸が興福寺一乗院に入ることが決まる。 |
出典:『大舘常興日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 6月28日 |
弟・千歳丸が興福寺一乗院に入ることが決まる。 |
出典:『大舘常興日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 6月28日 |
子・千歳丸が興福寺一乗院に入ることが決まる。 |
出典:『大舘常興日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 閏6月3日 |
大村純前が足利義晴に太刀1腰(国宗)、馬代10000疋(100貫)を進上する。義晴は座敷にて純前に対面する。純前に剣を下賜したところ、さらに太刀1腰(菊一文字)、馬の進上を受ける。また、純前は足利菊童丸に馬・太刀を進上する。菊童丸にも対面する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 閏6月13日 |
三好長慶と三好政長が決裂する。これにつき、長慶に足利義晴より六角定頼から細川晴元に交渉をするので出陣を延期するようにと伝える御内書が発給される。また、長慶に与同する伊丹次郎、池田筑後守、柳本孫七郎、三宅国村、芥川豊後守、木沢長政へも御内書が発給される。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 閏6月16日 |
足利菊童丸、母・慶寿院が八瀬(山城国)へ赴く。供は大舘晴光、朽木稙綱、伊勢貞孝。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 閏6月16日 |
三好利長(長慶)が摂津国上郡に出陣する。 利長が清水寺・同門前に軍勢の乱暴狼藉、矢銭・兵糧の賦課、山林竹木の伐採、一揆乱入、課役の賦課を禁じる禁制を発給する。 |
出典:『天文日記』同年月日条、天文8年閏6月16日付三好利長禁制(『戦国遺文』三好氏編第1巻-120号「成就院文書」) |
天文8年 1539年 閏6月17日 |
三好利長(長慶)と三好政長の確執により、細川晴元が高雄(山城国)に引き退く。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条、『巌助往年記』同年月条、『大舘常興日記』同年7月1日条 |
天文8年 1539年 閏6月17日 |
三好利長(長慶)と三好政長の確執により、細川晴元が高雄(山城国)に引き退く。 利長が大山崎(山城国)に軍勢の乱暴狼藉、山林竹木の伐採、押買・所質取りを禁じる禁制を発給する。 利長が大徳寺に軍勢の乱暴狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁じる禁制を発給する。 |
出典:天文8年閏6月17日付三好利長禁制写(『戦国遺文』三好氏編第1巻-121号「疋田家本離宮八幡宮文書」) |
天文8年 1539年 閏6月18日 |
高雄(山城国)滞在中の細川晴元のもとに野依二郎左衛門尉が遣わされる。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 閏6月20日 |
三好利長(長慶)が知恩寺に軍勢の乱暴狼藉、寄宿や矢銭・兵糧米の賦課、山林竹木の伐採・放火を禁じる禁制を発給する。 |
出典:天文8年閏6月20日付三好利長禁制(『戦国遺文』三好氏編第1巻-123号「知恩寺文書」) |
天文8年 1539年 閏6月24日 |
伊勢貞孝が陸奥国南部の商人 左藤掃部助時吉と面会する。樽代100疋、太刀が時吉より進上される。時吉に肩衣を下賜し、盃を遣わす。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 閏6月26日 |
伊勢貞孝が清水寺に参詣する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 7月6日 |
伊勢貞孝が高雄(山城国)にいる細川晴元に音信として5種10荷を遣わす。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |