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人 物 史
上野信孝
うえの のぶたか
生 没 年
?-永禄6年(1563)
出 身
-
幼 名
-
別 称
-
法 名
-
戒 名
-
父
上野尚長
母
-
兄 弟 姉 妹
-
配 偶 者
-
子
上野清信
官 位
民部大輔
役 職
室町幕府 御供衆 奉公衆
城 郭
鬼邑城(備中国)
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
上野信孝 年表
- -年 -月-日
上野信孝
が生まれる。
出典:-
天文19年 1550年 5月1日
足利義晴
は自身の病が悪化したため、
上野信孝
、
伊勢貞孝
、
三淵晴員
、
飯川信堅
、
大舘晴光
、
摂津元造
を召し、怨敵である
三好長慶
を退治し子・
義藤
を上洛させるようにと遺言を残す。
出典:『足利季世記』巻4「前将軍薨逝ノ事」
天文19年 1550年 5月4日
辰刻(7-9時)、
足利義晴
が死去する。
出典:『言継卿記』同年月日条
天文21年 1552年 1月28日
足利義藤
が比叡辻の宝泉寺より、未下刻(14:00頃)、入洛する。
伊勢貞孝
被官の蜷川弥三郎・堤三郎兵衛を先頭に三宝院、奉公衆、同朋衆、
大舘晴光
、
上野信孝
、大舘晴忠、
朽木稙綱
、細川中務大輔、
伊勢貞孝
、縁阿弥、高倉永家、慶寿院(義輝正室)、遊佐勘解由左衛門、
近衛稙家
、大覚寺義俊が付き従う。細川聡明丸も上洛する。
義藤、聡明丸の上洛につき、
三好長慶
が麾下の国衆を辻固めに動員し、
三好長逸
、
松永久秀
を遣わして逢坂にて出迎える。
六角義賢
の軍勢に守られた聡明丸が、戌刻(19-21時)に
東寺
に到着する。
三好千熊丸
が聡明丸を出迎える。
細川晴元
は
足利義藤
の帰洛に随行せず若狭に向かうため堅田から葛川に向かったとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方三好和談之事」
天文22年 1553年 7月29日
足利義藤
が西院(山城国)に野伏せりを仕掛ける。
細川晴元
の家臣・内藤彦七、
香西元成
、
三好政勝
、十河左介、宇津二郎左衛門が談合のため義藤の陣所を訪れる。義藤は彼らに酒を振舞う。
大舘晴光
、
上野信孝
、上野与三郎、杉原晴盛も談合に参加。同朋衆に酌をさせる。
下京
に1町につき結橋2つを賦課する。
出典:『言継卿記』同年月日・7月30日条条
天文22年 1553年 7月30日
足利義藤
が北山(山城国)より
北野社
右近馬場を経て西京東南角の松之本に布陣する。西院小泉城(山城国)を内藤彦七らに率いられた細川勢3000-4000とともに包囲する。西七条・鳥羽あたりで火が上がったため西院城への三好の後詰に備えたが、三好勢が来なかったため再度、西院城を包囲し、城の東北に布陣した奉公衆の
上野信孝
と杉原晴盛に城攻めを命じるが、兵の損耗を嫌った両者は攻撃をせず。夕方、北山に帰陣する。
三好長慶
が、申刻(16時)、鳥羽(山城国)に布陣し、
東寺
にて野伏せりをする。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄6年 1563年 -月-日
上野信孝
が死去する。
出典:-
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