和暦 |
西暦 |
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年齢 |
事項 |
出典 |
明応6年 | 1497 | - | - | 1 | 進藤貞治が生まれる。 | - |
天文1年 | 1532 | 8 | 23 | 36 | 法華衆および六角定頼の軍勢30000-40000が山科本願寺を包囲する。定頼は同寺の東に陣取る。矢合わせが行われる。 | 『二水記』同年月日条、『経厚法印日記』同年月日条 |
天文2年 | 1533 | 6 | 18 | 37 | 平岡にて細川晴国と薬師寺国長・三雲資胤・蒲生定秀・進藤貞治が戦い、晴国が勝利する。薬師寺国長は戦死する。 | 『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』151号) |
天文3年 | 1534 | 5 | 18 | 38 | 永原、進藤貞治が南禅寺に陣取る。 | 『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』153号) |
天文3年 | 1534 | 5 | 23 | 38 | 南禅寺に陣取る永原、進藤貞治のもとに木沢長政が訪れ、密々の話し合いをする。 | 『兼右卿記』同年月23日条(『ビブリア』153号) |
天文5年 | 1536 | 7 | 11 | 40 | 延暦寺と法華衆の確執について木沢長政と進藤貞治が申し合わせをする。 | 『巌助往年記 上』同年月日条 |
天文8年 | 1539 | 8 | 13 | 43 | 三好利長(長慶)と三好政長の対立のことにつき、六角定頼が坂本(近江国)に赴く。 | 『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 | 1539 | 9 | 13 | 43 | 三好利長(長慶)と三好政長の対立の仲裁に乗り出した六角定頼が進藤貞治と永原重隆に軍勢800を付し芥川山城(摂津国)に遣わす。 | 『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 | 1539 | 11 | 28 | 43 | 進藤貞治が北野社の遷座を取り仕切る。 | 『巌助往年記 上』同年月日条、『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文15年 | 1546 | 12 | 9 | 50 | 坂本(近江国)の樹下成保邸にて足利義藤の元服式が執り行われることに先立ち、六角定頼が加冠役を勤めることから、六角家家臣が諸役を担う。進藤貞治は成保邸の普請を、蒲生定秀・楢崎賢道は妙見寺などの辻固めを命じられる。 | 『厳助往年記』同年月日条 |
天文15年 | 1546 | 12 | 13 | 50 | 本願寺証如が六角定頼、平井、進藤貞治に歳暮として書状・梅染を送る。使者は中間。 | 『天文日記』同年月日条 |
天文16年 | 1547 | 6 | 17 | 51 | 本圀寺日泰・法華寺日要・本能寺日宗が六角家重臣進藤貞治・平井高好に、法華衆と延暦寺との和睦の条件について、白袈裟・素絹・朱柄笠・塗足駄を用いて徘徊しないこと、紫以上の袈裟を寺内であっても着用しないこと、地下人の葬送の際に勅会の際に着用する装束は着ないこと、輿に乗って洛中を徘徊しないこと、平絹の白五条を着用すること、僧俗ともに法席以外で一般人に対し「法理」と言って争論をしないことを提示する。また、日吉祭の祭礼費用として法華衆が毎年3月に100貫文を坂本(近江国)にて進納することを伝える。 これを受け、六角定頼は、法華衆の和睦条件を延暦寺三院執行代御坊中に伝える。 | 延暦寺・日蓮衆徒講話文書案(『蜷川家文書』3-605号) |
天文16年 | 1547 | 閏7 | 3 | 51 | 細川晴元が細川国慶の籠る高雄城(山城国)を攻撃するため20000の軍勢を率い出陣する。晴元は龍安寺を陣所とする。晴元の出陣につき、六角定頼が進藤貞治・永原・三雲・蒲生定秀・青地ら軍勢500を援軍として送る。 | 『厳助往年記』同年同月条 |
天文16年 | 1547 | 閏7 | 5 | 51 | 細川晴元が細川国慶の籠る高雄城(山城国)を攻め落とす。この戦いで神護寺の堂舎全てが放火される。 | 『厳助往年記』同年同月条 |
天文16年 | 1547 | 11 | 4 | 51 | 進藤貞治が上洛する。 | (天文16年)11月7日付三好宗三書状案(「大徳寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-204号) |
天文18年 | 1549 | 6 | 25 | 53 | 六角義賢が細川晴元の援軍として進藤貞治ら軍勢36000を率い西ノ岳・鳥羽・竹田・山崎・神南(山城国)に軍勢を駐屯させ自身は東寺に布陣する。しかし、24日の江口の合戦で晴元が敗れたとの報が入り、義賢は北白川(山城国)まで撤退する。 晴元は夕方に上洛する。 | 『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」 |
天文20年 | 1551 | - | - | 55 | 進藤貞治が死去する。 | - |