人 物 史

伊達輝宗 だて てるむね
生 没 年天文13年(1544)-天正13年(1585)10/8
出 身陸奥国伊達郡西山城幼 名彦太郎
別 称総次郎、次郎
法 名受心
戒 名覚範寺殿性山受心大居士
伊達晴宗久保(岩城重隆の娘)
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者義(最上義守の娘)
伊達政宗、伊達政道、千子、娘、伊達秀雄
官 位左京大夫
役 職-
城 郭米沢城(出羽国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ伊達輝宗の家臣
伊達輝宗 年表
天文13年 1544年 -月-日 1歳
伊達輝宗が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 12歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 15歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄8年 1565年 5月19日 22歳
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 6月19日 22歳
丸森城(陸奥国)にて祖父・稙宗が死去する。
出典:『性山公治家記録』

永禄8年 1565年 -月-日 22歳
伊達晴宗が子・輝宗に家督を譲る。輝宗は米沢城(出羽国)に在城し、晴宗は杉目城(陸奥国)に隠居する。
出典:『性山公治家記録』

永禄9年 1566年 1月10日 23歳
蘆名止々斎が伊達輝宗との和睦につき、輝宗に起請文を発給する。また、伊達家と蘆名家の和睦につき、蘆名家重臣の富田滋実・佐瀬常藤・平田実範・松本氏輔が、伊達家重臣の牧野久仲・浜田宗景・中野宗時に起請文を発給する。
出典:同年月日付蘆名盛氏起請文(『伊達家文書』1-266号)、同年月日付富田滋実他3名連署起請文(『伊達家文書』1-267号)

永禄9年 1566年 2月1日 23歳
蘆名盛興が伊達輝宗との和睦につき、輝宗に起請文を発給する。
出典:同年月日付蘆名盛興起請文(『伊達家文書』1-268号)

永禄10年 1567年 8月3日 24歳
子・政宗が出羽国置賜郡長井荘の米沢城内にて生まれる。
出典:『性山公治家記録』同年月日条

永禄10年 1567年 11月-日 24歳
伊達輝宗が亀岡八幡宮を伊達郡西山から同郡梁川に移し、宝殿を造営するにあたり、一家・一族に奉加として100疋を供出を命じる。
出典:『性山公治家記録』同年月条

永禄11年 1568年 4月3日 25歳
小島(陸奥国伊達郡)にて伊達輝宗と相馬盛胤が戦う。参戦者は伊達方が瀬上景康。
出典:『性山公治家記録』同年月日条

永禄12年 1569年 4月23日 26歳
北条氏政伊達輝宗に、武田信玄と交戦中であること、それにともない北条家に上杉謙信が一味することを伝える。
出典:(永禄12年)4月23日付北条氏政書状(『伊達家文書』1-270号)

永禄12年 1569年 5月20日 26歳
北条氏照伊達輝宗に、4月24日、薩埵山にて武田信玄と戦い数百人を討ち取ったこと、北条家と上杉謙信との和睦が調いそうであることを伝える。
出典:(永禄12年)5月20日付北条氏照書状(『伊達家文書』1-269号)

永禄13年 1570年 4月4日 27歳
新田景綱が子・義直を捕らえ主君・伊達輝宗のもとに送り、中野宗時・牧野久仲の謀叛計画を暴く。
出典:『性山公治家記録』同年月日条

永禄13年 1570年 4月5日 27歳
伊達輝宗が謀叛を起こした中野宗時・牧野久仲を討つため、久仲の居城・小松城(陸奥国)に新田景綱・小梁川宗秀を遣わし攻める。先陣の宗秀は戦死する。宗時・久仲は相馬氏を便り城より逃亡する。
出典:『性山公治家記録』同年月日条

元亀1年 1570年 4月23日 27歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 5月-日 27歳
伊達輝宗に叛いた中野宗時・牧野久仲が小松城(陸奥国)より相馬領に向かって逃亡した後、両名と戦った亘理元宗・重宗父子の戦功を賞し、輝宗は元宗・重宗父子に出羽国置賜郡長井荘河原沢村、陸奥国名取郡小川村、同笠島村、同国伊具郡小田村を給付する。
出典:『性山公治家記録』同年月日条

元亀1年 1570年 9月-日 27歳
伊達輝宗に叛いた中野宗時・牧野久仲を取り逃がしたとして輝宗の勘気を蒙った小梁川盛宗が、舅である伊達晴宗と伊達実元の執り成しにより赦免される。また、盛宗と同罪とされていた白石宗利、宮内宗忠、田手宗光も赦免される。
出典:『性山公治家記録』

天正1年 1573年 7月28日 30歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正2年 1574年 9月2日 31歳
織田信長伊達輝宗に、鷹の進上の返礼として金襴10端・緞子10端・褶20端・紅糸10斤・虎皮3枚を贈る。
出典:(天正2年)9月2日付織田信長書状・同朱印状(『伊達家文書』1-300号)

天正3年 1575年 10月19日 32歳
伊達輝宗織田信長に進物として送ったがんぜき馬、白石鹿毛、鷹2足が届く。信長が清水寺に参詣する
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正5年 1577年 7月3日 34歳
伊達輝宗が進上した鷹が織田信長のもとに届く。
出典:『信長公記』巻10(3)「御名物被召置の事」

天正5年 1577年 閏7月5日 34歳
織田信長伊達輝宗に、上杉謙信を追伐する旨を伝え、本庄雨順斎と相談し謙信を攻めるよう要請する。
出典:(天正5年)閏7月23日付織田信長朱印状(『伊達家文書』1-302号)

天正5年 1577年 11月15日 34歳
伊達梵天丸米沢城(出羽国)において元服をする。「藤次郎政宗」と名乗る。
出典:『性山公治家記録』同年月日条

天正5年 1577年 12月5日 34歳
父・晴宗杉目城(陸奥国)において死去する。
出典:『性山公治家記録』同年月日条

天正9年 1581年 5月-日 38歳
相馬義胤が亘理(陸奥国)に侵攻したことにともない、伊達輝宗政宗父子が応戦する(政宗の初陣)。
出典:『性山公治家記録』同年月条

天正10年 1582年 4月-日 39歳
伊達政宗が相馬氏攻めのため角田(陸奥国)に在陣する。
出典:『性山公治家記録』同年月日条

天正10年 1582年 5月11日 39歳
田村清顕が、伊達輝宗政宗父子の仲介により佐竹義重蘆名盛隆と和睦できたことについて、輝宗に礼をする。
出典:(天正10年)5月11日付田村清顕書状(『伊達家文書』1-246・247号)

天正10年 1582年 6月2日 39歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正11年 1583年 2月6日 40歳
伊達政宗が金山城・丸森城(陸奥国)を攻める。
出典:『伊達性山治家記録』『白石家戦陣略記』(『大』11-3 p598)

天正12年 1584年 8月14日 41歳
6日に大内定綱に勝利した舅・田村清顕の戦勝を祝す書状を伊達輝宗政宗父子が発給する。
出典:(天正12年)8月14日付伊達輝宗・政宗連署状(「大越文書」『伊達政宗卿伝記史料』)

天正12年 1584年 10月6日 41歳
蘆名盛隆が死去する。
出典:-

天正12年 1584年 10月-日 41歳
伊達輝宗が家督を子・政宗に譲る。
出典:『伊達日記』上

天正12年 1584年 -月-日 41歳
伊達輝宗政宗父子が小斎(陸奥国)へ出陣する。亘理元宗を先陣として新地城、駒嶺城(陸奥国)を攻める。
出典:『性山公治家記録』同年月日条

天正13年 1585年 10月6日 42歳
畠山義継が伊達輝宗のいる宮森を訪れ、伊達政宗への赦免の執り成しを請う。政宗は輝宗の説得により義継を赦免する。
出典:『伊達日記』上

天正13年 1585年 10月8日 42歳
伊達輝宗が畠山義継に拉致される。子・政宗は高田にて義継一行に追いつくも、同地にて乱闘となり、輝宗が殺害される。輝宗の遺体は、その後、資福寺に送る。
出典:『伊達日記』上

天正13年 1585年 10月9日 
朝、伊達政宗が父・輝宗の遺体とともに小浜城(陸奥国)に戻る。
出典:『伊達日記』上

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