人 物 史

津金胤卜 つがね たねうら
生 没 年天正18年(1590)-寛永5年(1628)2/11
出 身-幼 名-
別 称助之進
法 名俊英
戒 名-
津金胤久-
兄 弟 姉 妹津金胤卜、津金種親、津金信久
配 偶 者-
娘、津金胤清、津金胤安、津金乙吉、娘
官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ-
津金胤卜 年表
天正18年 1590年 -月-日 1歳
津金胤卜が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第173「津金胤卜」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第173「津金胤卜」の項

文禄1年 1592年 12月8日 3歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 7歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 9歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 14歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 16歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長19年 1614年 10月23日 25歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
供奉衆:酒井忠世青木信安野呂守景米倉信継木内蕃正津金胤卜酒依昌吉が随従する。
江戸城の留守居として酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同巻第161「青木信安」の項、同巻第169「米倉信継」の項、同174「酒依昌吉」の項、同964「木内蕃正」の項

慶長19年 1614年 11月15日 25歳
卯刻(5-7時)、徳川家康大坂城(摂津国)攻めに赴くべく、二条城(山城国)より出陣する。未刻(13-15時)、家康は木津(山城国)に到着するが、旅館狭小につき、急遽、奈良(大和国)まで進む。
秀忠が大坂城を攻めるべく伏見城(山城国)を出陣し枚方(河内国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月17日 25歳
徳川家康が住吉(摂津国)に陣取る。
徳川秀忠が平野(河内国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 12月4日 25歳
徳川家康が住吉(摂津国)より天王寺茶臼山に陣替えする。徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣替えする。徳川義俊徳川頼宣天王寺(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。
朝、松平忠直本多富正・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて大坂城(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は安藤直次を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。
井伊直孝勢が大坂城の真田信繁の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。徳川秀忠の命により井伊勢は撤退する。
未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。本多正純の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。
家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。
家康は藤堂高虎の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。
夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月19日 25歳
徳川家康徳川秀忠父子と豊臣秀頼の間で和睦がなる。
家康が藤堂高虎仙石忠政と対面する。
家康が松平甲斐守、前田利光松平忠直加藤明成福島忠勝、松平河内守と対面する。
家康が南光坊天海と対面する。
家康が落馬して負傷した子・頼宣の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。
黒田忠長が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。井上之房、小河玄蕃允が忠長に供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『菅氏世譜

慶長20年 1615年 4月10日 26歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。供奉衆:野呂守景米倉信継木内蕃正津金胤卜酒依昌吉。江戸城の留守居に酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同173「津金胤卜」の項、同174「酒依昌吉」の項、同963「木内蕃正」の項、同1153「野呂守景」の項

元和1年 1615年 7月13日 26歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 27歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和8年 1622年 8月18日 33歳
父・胤久が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第173「津金胤久」の項

寛永1年 1624年 2月30日 35歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永2年 1625年 7月27日 36歳
徳川秀忠津金胤卜に武蔵国榛沢郡内にて750石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第173「津金胤卜」の項

寛永5年 1628年 2月11日 39歳
津金胤卜が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第173「津金胤卜」の項

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.