人 物 史

青木信安 あおき のぶやす
生 没 年永禄7年(1564)-元和9年(1623)8/20
出 身-幼 名-
別 称弥七郎 与兵衛
法 名玉英
戒 名-
青木信時-
兄 弟 姉 妹青木信安
配 偶 者馬場信忠の娘
青木信就
官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ-
青木信安 年表
永禄7年 1564年 -月-日 1歳
青木信安が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信安」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信安」の項

永禄10年 1567年 10月19日 4歳
武田義信が自害する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「清和源氏 義光流 武田」「武田義信」の項

永禄12年 1569年 10月4日 6歳
武田信玄北条氏康北条氏政父子の籠る小田原城(相模国)の攻略を諦め、同地より撤退する。
出典:(永禄12年)10月16日付北条氏康書状(『上杉家文書』1-585号)

永禄12年 1569年 10月8日 6歳
三増峠(相模国)にて武田信玄北条氏照・氏邦・綱成等が戦い、信玄が勝利する。
武田勢:山高信親
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「山高信親」の項

元亀1年 1570年 4月23日 7歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀3年 1572年 12月22日 9歳
三方ヶ原(遠江国)にて武田信玄徳川家康が戦い、信玄が勝利する。
武田信玄勢:真田昌幸土屋昌続横手信俊[山県昌景勢]、山高信親(戦死)。
徳川家康勢:酒井忠次酒井正親榊原康政[先鋒]、小栗忠政鳥居忠広(戦死)・野々山元政(戦死)、石川正俊(戦死)、渥美友勝、加藤正信(戦死)、加藤比禰丞(戦死)。
織田勢:平手汎秀(戦死)。
浜松城(遠江国)留守居衆:石川家成、小笠原広重。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井忠次」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同118「石川家成」の項、同122「石川正俊」の項、同110「野々山元政」の項、同160「山高信親」の項、同163「柳沢信俊」の項、同191「小笠原広重」の項、同777「加藤比禰丞」の項、同777「加藤正信」の項、同961「渥美友勝」の項

元亀4年 1573年 4月12日 10歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

天正1年 1573年 7月28日 10歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 5月20日 12歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 12歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正10年 1582年 3月11日 19歳
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」

天正10年 1582年 6月2日 19歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 -月-日 19歳
青木信時信安父子が徳川家康に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信安」の項

天正11年 1583年 4月21日 20歳
徳川家康青木信安の所領を甲斐国大田輪60貫の地に所替えする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信安」の項

天正13年 1585年 閏8月2日 22歳
大久保忠世鳥居元忠が率いる徳川勢が真田昌幸の籠る上田城(信濃国)を攻める。国分寺(信濃国)にて徳川勢と真田勢が戦い、真田勢が勝利する。
徳川勢:保科正直、三枝守英折井次昌[大久保忠世勢]、青木信時[大久保忠世勢]、青木信安山高信直[大久保忠世勢]、山寺信昌[大久保忠世勢]、柳沢信俊[大久保忠世勢]、米倉忠継[大久保忠世勢]、米倉信継[大久保忠世勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次
真田勢:成瀬甚右衛門(戦死)。
出典:(天正13年)閏8月13日付真田信幸書状(「恩田文書」)、『寛政重修諸家譜』巻第160「山高信直」の項、同161「青木信時」の項、同161「青木信安」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次昌」の項、同169「米倉忠継」の項、同169「米倉信継」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同250「保科正直」の項

天正18年 1590年 6月13日 27歳
祖父・信親が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信親」の項

文禄1年 1592年 12月8日 29歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 33歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 35歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 9月1日 37歳
徳川家康が東海道より上方に向け江戸城(武蔵国)を発つ。徳川秀忠が東山道より上方に向け江戸城を発つ。
秀忠勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利、石川康長、牧野貞成、神尾守世青木信安真田信幸仙石秀久、日根野吉重、森忠政折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重[大久保忠隣勢]、山寺信光、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
江戸城の留守居として松平康元を置く。
出典:『関原始末記』、『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」、同398「辻久吉」の項

慶長5年 1600年 9月4日 37歳
徳川秀忠の軍勢が小諸城(信濃国)に到着する。
出典:『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」

慶長5年 1600年 9月5日 37歳
徳川秀忠真田昌幸の持ち城である砥石城(信濃国)を占拠し、真田信幸を入れ置く。
出典:(慶長5年)9月5日付徳川秀忠書状(『浅野家文書』112)

慶長5年 1600年 9月7日 37歳
徳川秀忠真田昌幸信繁父子の籠る上田城(信濃国)を攻めも、昌幸・信繁が秀忠勢を退ける。
徳川勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利神尾守世青木信安岩間正時折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重(大久保忠隣勢)、木内蕃正[本多正信勢]、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
出典:『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第3「松平忠利」の項、同59「酒井忠世」の項、同61「酒井忠利」の項、同61「酒井忠勝」の項、同65「酒井家次」の項、同126「森忠政」の項、同160「山高親重」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」の項、同964「岩間正時」の項、同巻第964「木内蕃正」の項、同1043「神尾守世」の項

慶長5年 1600年 11月2日 37歳
父・信時が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信時」の項

慶長8年 1603年 -月-日 40歳
徳川家康青木信安に甲斐国武川の地を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信安」の項

慶長8年 1603年 -月-日 40歳
徳川義直青木信安を付す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信安」の項

慶長9年 1604年 3月2日 41歳
徳川秀忠青木信安に武蔵国内にて80石を新たに給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信安」の項

慶長12年 1607年 閏4月26日 44歳
徳川義直名古屋(尾張国)への転封につき、青木信安甲府城(甲斐国)在番となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信安」の項

慶長19年 1614年 10月23日 51歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
供奉衆:酒井忠世青木信安野呂守景米倉信継木内蕃正津金胤卜酒依昌吉が随従する。
江戸城の留守居として酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同巻第161「青木信安」の項、同巻第169「米倉信継」の項、同174「酒依昌吉」の項、同964「木内蕃正」の項

慶長20年 1615年 5月5日 52歳
巳刻(9-11時)、徳川家康二条城(山城国)より出陣する。
二条城留守居衆:松平定勝青木信安
家康が淀(山城国)にて細川忠興に会う。申刻(15-17時)、枚方・星田(河内国)に陣取り、宿泊する。
徳川秀忠伏見城(山城国)より出陣し、申刻(15-17時)、砂・星田(河内国)に陣取る。秀忠は家康と対面し徳川方諸勢の陣所について協議する。本多正信藤堂高虎土井利勝安藤重信がその協議に参加する。
小笠原秀政が久宝寺村(河内国)に陣取る。
井伊直孝が松原(河内国)に陣取る。
藤堂高虎勢が千塚に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項、同161「青木信安」の項、同188「小笠原秀政」の項

慶長20年 1615年 5月8日 52歳
豊臣秀頼大坂城サキ島の堀西方にある唐物倉にて淀殿大野治長速水守久等とともに残り、徳川家に和を乞うが、井伊直孝安藤重信が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、大蔵卿局、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、速水守久、速水出来、津川左近、大野治長、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、松平忠直が、真田信繁、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、二条城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19

元和1年 1615年 7月13日 52歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 53歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和9年 1623年 8月20日 60歳
青木信安が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信安」の項

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