人 物 史

野呂守景 のろ もりかげ
生 没 年永禄7年(1564)-寛永17年(1640)11/20
出 身-幼 名-
別 称彦兵衛
法 名梅応
戒 名-
野呂正景北畠具教の娘
兄 弟 姉 妹野呂守景、伏見長景、野呂勝景、野呂行景
配 偶 者駒井浄慶の娘
野呂真景、野呂正俊、野呂正富、野呂清景、娘(山本勝次の妻)
官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第7輯 刊本
関 連 デ ー タ-
野呂守景 年表
永禄7年 1564年 -月-日 1歳
野呂守景が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第1153「野呂守景」の項にみえる没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第1153「野呂守景」の項

元亀1年 1570年 4月23日 7歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 10歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正4年 1576年 11月25日 13歳
祖父・北畠具教が死去する。
出典:-

天正4年 1576年 -月-日 13歳
野呂守景が初めて徳川家康に対面する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第1153「野呂守景」の項

天正5年 1577年 9月14日 14歳
三枚橋(駿河国)にて徳川家康勢と武田勝頼勢が戦う。
徳川勢:野呂正景(戦死)。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第1153「野呂正景」の項

天正10年 1582年 6月2日 19歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正12年 1584年 4月9日 21歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

文禄1年 1592年 12月8日 29歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 33歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長19年 1614年 10月23日 51歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
供奉衆:酒井忠世青木信安野呂守景米倉信継木内蕃正津金胤卜酒依昌吉が随従する。
江戸城の留守居として酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同巻第161「青木信安」の項、同巻第169「米倉信継」の項、同174「酒依昌吉」の項、同964「木内蕃正」の項

慶長20年 1615年 4月10日 52歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。供奉衆:野呂守景米倉信継木内蕃正津金胤卜酒依昌吉。江戸城の留守居に酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同173「津金胤卜」の項、同174「酒依昌吉」の項、同963「木内蕃正」の項、同1153「野呂守景」の項

慶長20年 1615年 5月8日 52歳
豊臣秀頼大坂城サキ島の堀西方にある唐物倉にて淀殿大野治長速水守久等とともに残り、徳川家に和を乞うが、井伊直孝安藤重信が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、大蔵卿局、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、速水守久、速水出来、津川左近、大野治長、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、松平忠直が、真田信繁、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、二条城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19

元和1年 1615年 7月13日 52歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和5年 1619年 10月-日 56歳
駿府城(駿河国)の守衛として野呂守景を置く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第1153「野呂守景」の項

寛永1年 1624年 2月30日 61歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永2年 1625年 -月-日 62歳
徳川秀忠徳川忠長の家臣として野呂守景を付ける。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第1153「野呂守景」の項

寛永17年 1640年 11月20日 77歳
野呂守景が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第1153「野呂守景」の項

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