人 物 史

米倉信継 よねくら のぶつぐ
生 没 年天文17年(1548)-寛永13年(1636)4/8
出 身-幼 名-
別 称六郎右衛門、種継
法 名道心
戒 名-
米倉重継米倉忠継[養父]牧野原氏の娘
兄 弟 姉 妹米倉晴継米倉忠継米倉信継、米倉豊継、米倉利継、娘、娘、米倉満継
配 偶 者-
米倉永時、米倉重種、娘
官 位丹後守
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ-
米倉信継 年表
天文17年 1548年 -月-日 1歳
米倉信継が生まれる。*『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉信継」の項にみえる没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉信継」の項

弘治1年 1555年 10月23日 8歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 11歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄12年 1569年 4月28日 22歳
薩埵山にて北条氏政武田信玄が戦う。
武田信玄勢:米倉晴継(戦死)。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉晴継」の項

元亀1年 1570年 4月23日 23歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀4年 1573年 4月12日 26歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

天正1年 1573年 7月28日 26歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 5月20日 28歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 28歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正10年 1582年 6月2日 35歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 12月7日 35歳
徳川家康米倉信継に甲斐国白須・宮脇等にて125貫の地を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉信継」の項

天正13年 1585年 閏8月2日 38歳
大久保忠世鳥居元忠が率いる徳川勢が真田昌幸の籠る上田城(信濃国)を攻める。国分寺(信濃国)にて徳川勢と真田勢が戦い、真田勢が勝利する。
徳川勢:保科正直、三枝守英折井次昌[大久保忠世勢]、青木信時[大久保忠世勢]、青木信安山高信直[大久保忠世勢]、山寺信昌[大久保忠世勢]、柳沢信俊[大久保忠世勢]、米倉忠継[大久保忠世勢]、米倉信継[大久保忠世勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次
真田勢:成瀬甚右衛門(戦死)。
出典:(天正13年)閏8月13日付真田信幸書状(「恩田文書」)、『寛政重修諸家譜』巻第160「山高信直」の項、同161「青木信時」の項、同161「青木信安」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次昌」の項、同169「米倉忠継」の項、同169「米倉信継」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同250「保科正直」の項

文禄1年 1592年 12月8日 45歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 49歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 51歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 56歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 58歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長19年 1614年 10月23日 67歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
供奉衆:酒井忠世青木信安野呂守景米倉信継木内蕃正津金胤卜酒依昌吉が随従する。
江戸城の留守居として酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同巻第161「青木信安」の項、同巻第169「米倉信継」の項、同174「酒依昌吉」の項、同964「木内蕃正」の項

慶長20年 1615年 4月10日 68歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。供奉衆:野呂守景米倉信継木内蕃正津金胤卜酒依昌吉。江戸城の留守居に酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同173「津金胤卜」の項、同174「酒依昌吉」の項、同963「木内蕃正」の項、同1153「野呂守景」の項

元和1年 1615年 7月13日 68歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 69歳
徳川家康が死去する。
出典:-

寛永1年 1624年 2月30日 77歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永9年 1632年 1月24日 85歳
徳川秀忠が死去する。
出典:-

寛永13年 1636年 4月8日 89歳
米倉信継が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉信継」の項

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