人 物 史

福原元俊(上総介) ふくばら もととし
生 没 年天文10年(1541)-天正19年(1591)10/3
出 身-幼 名-
別 称弥五郎
法 名常貴
戒 名-
福原貞俊-
兄 弟 姉 妹福原元俊、娘、娘、娘(三吉隆経の妻)、娘(平賀元相の妻)、娘(熊谷元実の妻)
配 偶 者-
福原広俊、福原元頼
官 位式部少輔、出羽守、上総介
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる福原元俊(上総介)の呼称
福原元俊(上総介) 年表
天文10年 1541年 -月-日 1歳
福原元俊が生まれる。
出典:-

天文24年 1555年 10月1日 15歳
厳島(安芸国)に滞在中の陶晴賢毛利元就が急襲し、晴賢は自害する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」、同巻28「陶全羨最後之事」

弘治1年 1555年 10月23日 15歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治3年 1557年 1月10日 17歳
祖父・広俊が死去する。
出典:-

弘治3年 1557年 3月2日 17歳
毛利元就隆元吉川元春小早川隆景父子が防府(周防国)に陣取る。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)

弘治4年 1558年 2月28日 18歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄6年 1563年 8月4日 23歳
毛利隆元が佐々部(安芸国)にて死去する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄10年 1567年 -月-日 27歳
子・広俊が生まれる。
出典:-

永禄11年 1568年 11月5日 28歳
吉川元春小早川隆景が長野兵部太輔の籠る三ツ嶽城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳記』巻42「豊前国三ツ嶽没落之事」

元亀1年 1570年 4月23日 30歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 6月14日 31歳
毛利元就が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

天正1年 1573年 7月28日 33歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正10年 1582年 6月4日 42歳
高松城(備中国)に籠城していた清水宗治、清水宗知、難波宗忠、末近信賀が、毛利・羽柴両軍が見守る中で切腹する。
出典:-

天正16年 1588年 7月12日 48歳
巳刻(9-11時)、毛利輝元が鞆(備後国)を出立する。船中にて連歌会を催す。以笋軒春盛、井原元良、佐世元嘉が参会する。未刻(13-15時)、塩飽(讃岐国)に到着する。福原元俊口羽春良が合流する。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月13日 48歳
毛利輝元が順風でない(東風)ため塩飽(讃岐国)に逗留する。午刻(11-13時)、村上弾正忠が茶屋を立て輝元を饗応する。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月14日 48歳
辰刻(7-9時)、毛利輝元が塩飽(讃岐国)を出立する。日比中島(備前国)にて潮待ちをする。申刻(15-17時)、牛窓(備前国)に到着する。当所に黒田孝高の使者として久野五兵衛が、安国寺恵瓊の使者として佐武三郎右衛門が輝元のもとに到着し、京都・大坂の様子を伝える。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月15日 48歳
巳刻(9-11時)、毛利輝元が牛窓(備前国)を出立する。片上島(備前国)にて潮待ちをする。未刻(13-15時)、室(播磨国)に到着する。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月16日 48歳
巳刻(9-11時)、毛利輝元が室(播磨国)を出立する。絵島・岩屋(淡路国)にて潮待ちをする。申刻(15-17時)、兵庫(摂津国)に到着する。船を和田岬(摂津国)に停泊させ、正直屋宗養(豊臣秀吉定宿)に宿泊する。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正16年 1588年 7月17日 48歳
毛利輝元が兵庫(摂津国)に逗留する。輝元のもとに豊臣秀長の迎えの使者として藤堂高虎が、豊臣秀次の使者として白井権太夫が訪れる。秀次は輝元に熊皮のあをり3口、さらし帷子20を贈る。また、下代官の増田六右衛門、玉拳入道が輝元に大樽10荷、鱧100喉、鱸10喉、昆布1折を進上する。申刻(15-17時)、蜂須賀家政が輝元の迎えとして兵庫に到着する。
出典:『天正記』同年月日条、『毛利輝元上洛日記』同年月日条

天正16年 1588年 7月18日 48歳
辰刻(7-9時)、毛利輝元吉川広家小早川隆景蜂須賀家政が朝食をともにする。酉刻(17-19時)、輝元は松王小茅ヶ御影堂を見物する。
出典:『天正記』同年月日条、『毛利輝元上洛日記』同年月日条

天正16年 1588年 7月24日 48歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家聚楽第(山城国)に登城し豊臣秀吉に謁す。輝元は太刀1腰・馬1疋(月毛)・鷹5連・白銀3000枚を、隆景は太刀1腰・白糸3折・白銀500枚を、広家は太刀1腰・馬1疋(粕毛)・白銀500枚を秀吉に進上する。奏者は前野長康。この場に聖護院道澄前田利家安国寺恵瓊細川忠興池田輝政島津義久立花宗茂、龍造寺政家、金森長近施薬院全宗蜂屋頼隆穂井田元清福原元俊口羽春良が列席する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正19年 1591年 10月3日 51歳
福原元俊が死去する。
出典:-

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