歴史の目的をめぐって
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歴史
人 物 史
城 郭 史
寺 院 史
神 社 史
地 名
総 年 表
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商用利用可能 文化財画像
書籍
コンテンツ
和暦西暦変換
中世貨幣の価値
年齢計算
誕生年計算
寛政重修諸家譜 索引(製作中)
史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
人 物 史
岩成友通
いわなり ともみち
生 没 年
?-天正1年(1573)8/2
出 身
-
幼 名
-
別 称
長信
法 名
-
戒 名
-
父
-
母
-
兄 弟 姉 妹
岩成友通
配 偶 者
-
子
-
官 位
主税助
役 職
-
城 郭
勝龍寺城
(山城国)
参 考 文 献
○
岩成友通に関する参考文献
関 連 デ ー タ
○
史料にみえる岩成友通の呼称
岩成友通 年表
- -年 -月-日
岩成友通
が生まれる。
出典:-
永禄1年 1558年 6月7日
三好長慶
が
坂本
(近江国)より京都をうかがう
足利義輝
に備えるため、
三好長逸
・
池田長正
・
伊丹親興
・
松永久秀
・
松永法雲軒
率いる15000の兵を河原に出撃させる。
足利義輝
・
細川晴元
が軍勢15000をもって如意嶽に攻め入り矢合わせをする。勝軍地蔵城(山城国)に布陣していた
三好長慶
勢の
伊勢貞孝
・
寺町通昭
・松山重治・
岩成友通
の2000余りの兵は、城を放火し、
東寺
・吉祥寺・
報恩寺
・
四条道場
・等持寺・唱門土村あたりまで撤退する。三好勢の撤退により、義輝は勝軍山城に入城する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条
永禄4年 1561年 3月18日
十河一存
が死去する。
出典:-
永禄5年 1562年 3月5日
久米田(河内国)にて
畠山高政
・
安見宗房
・
遊佐信教
・
根来寺
衆と
三好実休
が戦い、実休が戦死する。実休の辞世「草からす 霜又今朝ノ 日に消て 報の程は 終にのかれず」。
この戦いにより
高屋城
(河内国)が落ちるとともに、
三好長慶
の居城・
飯盛山城
を除く河内国の三好方の諸城が畠山高政方に靡く。
出典:『厳助往年記』同年月6日条、『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」
永禄5年 1562年 3月6日
三好実休
が戦死したため、
安宅冬康
は在番していた
岸和田城
(和泉国)を放棄する。同城は
畠山高政
の支配下となる。
足利義輝
が慶寿院とともに八幡(山城国)に移る。
六角義賢
が勝軍地蔵城(山城国)から清水坂に陣を移す。
三好長慶
は
山崎
(山城国)に撤退する。
出典:『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」
永禄7年 1564年 5月9日
三好長慶
が
飯盛山城
(河内国)にて弟・
安宅冬康
を呼び出し、冬康を自害させる。
出典:『言継卿記』永禄同年月10日条、『足利季世記』巻6「冬康生害之事」
永禄7年 1564年 7月24日
三好長慶
が死去する。養子・
義継
が幼齢であるとして長慶の死は秘匿される。
出典:『足利季世記』巻6「冬康生害之事」
永禄8年 1565年 5月19日
午初点(11時)、
松永久通
ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた
足利義輝
を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、
畠山九郎
、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄8年 1565年 5月21日
三好長逸
が禁裏にお見舞いとして赴く。
足利義輝
殺害を朝廷に説明する。
出典:『晴右記』『言継卿記』同年月日条
永禄8年 1565年 8月2日
内藤宗勝(松永長頼)
が
赤井直正
の籠る
黒井城
(丹波国)を攻めるも、戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月3日条
永禄8年 1565年 11月16日
夕方、
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が
飯盛山城
(河内国)を攻め、長勝軒、金山駿河守を討ち取る。
三好義継
に
松永久秀
と手切れするよう訴える。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄8年 1565年 11月-日
法隆寺
に、三好勢の濫妨狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課、寄宿について停止する旨の禁制を
三好長逸
、加地久勝、
岩成友通
、
三好宗渭
の連署で発給する。
出典:永禄8年11月日付三好長逸等連署禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1214号「法隆寺文書」)
永禄8年 1565年 12月21日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が河内国より乾、脇に軍勢3000余りをもって攻め入る。
松永久秀
が長逸らに応戦するため
多聞山城
(大和国)より軍勢を出す。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄8年 1565年 12月-日
三好長逸
、
岩成友通
、
三好宗渭
が連署で、
大山崎
(山城国)に、三好三人衆勢の濫妨狼藉、山林竹木の伐採、放火、矢銭・兵糧米の賦課、国質所質、荏胡麻油商買の諸職について停止する旨の禁制を発給する。
出典:永禄8年12月日付三好三人衆禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1228号「離宮八幡宮文書」)
永禄9年 1566年 2月17日
上芝の合戦で
三好義継
、
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
、筒井順興と
松永久秀
・
畠山高政
・
安見宗房
が戦い、三好三人衆勢が勝利する。敗れた高政、
安見宗房
は
堺
に逃れる。
出典:『多聞院日記』同年月日・19日条、『言継卿記』同年月18日条
永禄9年 1566年 2月18日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が
高屋城
(河内国)にて上芝の合戦で討ち取った敵の首実検を行う。
出典:『多聞院日記』同年月19日条
永禄9年 1566年 4月4日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が軍勢5000を率い鳥見荘に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄9年 1566年 4月10日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が軍勢4000を率い奈良(大和国)に向かう。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄9年 1566年 4月11日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
、筒井順興が軍勢6000-7000で奈良(大和国)近辺の五本松まで攻め入る。
松永久秀
は
多聞山城
(大和国)に籠城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄9年 1566年 4月21日
矢島(近江国)にて
一乗院覚慶
が還俗し足利義秋と名乗る。左馬頭に任じられる。朝廷へは伝奏を経ず
吉田兼右
を通じて報告をする。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄9年 1566年 4月23日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が陣払いをする。筒井平城(大和国)を攻めるため大安寺南辺に引く。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄9年 1566年 5月18日
松永久秀
が大和国より河内国へ出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄9年 1566年 5月19日
大和国より河内国へ出陣したとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄9年 1566年 5月24日
松永久秀
が河内国に向かったのを受け、筒井平城(大和国)を攻めていた
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が城攻め用の小屋を破却し河内国に向かう。
久秀は河内国で敗北し軍勢を多く失う。
出典:『多聞院日記』同年月日・25日条、『言継卿記』同年月日阿城
永禄9年 1566年 5月30日
堺
にいた
松永久秀
を
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が攻める。久秀は逃亡する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄9年 1566年 6月11日
足利義栄
の先陣として、
篠原長房
率いる軍勢25000が兵庫(摂津)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」
永禄9年 1566年 6月23日
篠原長房
が
越水城
(摂津国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」
永禄9年 1566年 6月24日
未刻(13-15時)、真観寺(河内国)にて
三好長慶
の葬儀を
三好義継
、
三好長逸
が執り行う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条・同年月26日条、『足利季世記』巻6「冬康生害之事」
永禄9年 1566年 7月13日
篠原長房
が
越水城
(摂津国)を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」
永禄9年 1566年 7月14日
三好長逸
、
岩成友通
が大軍を率いて上洛する。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄9年 1566年 閏8月9日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が軍勢1000余を片岡(大和国)に入れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄9年 1566年 9月23日
足利義栄
が
越水城
(摂津国)に入城する。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」
永禄9年 1566年 11月7日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が
山科言継
に内蔵寮領陸路河上四方八口率分高荷諸商売公事役銭を安堵する。
出典:『言継卿記』同年月11日条
永禄9年 1566年 12月8日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が将軍に擁立する
足利義栄
が
越水城
(摂津国)から総持寺(摂津国)に移る。
禁裏に米を進上する。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄9年 1566年 12月16日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が上洛し禁裏へ米30俵を進上する。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄10年 1567年 2月16日
三好義継
が
堺
にて宿所を替える。河内国にて義継が
松永久秀
と同心したと噂される。
出典:『多聞院日記』同年月18日条
永禄10年 1567年 2月28日
三好義継
が
三好長逸
・
岩成友通
・
三好宗渭
が「悪逆無道」を構え、「大忠」の
松永久秀
を討たんとしていることにるいて、久秀に味方することを宣言するとともに、味方してくれた椿井政定、古市播磨守に謝意を示す。
出典:(永禄10年)2月28日付三好義継書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1322号「小林氏所蔵文書」、同1323号「宮坂氏所蔵文書」)
永禄10年 1567年 4月6日
三好義継
、
松永久秀
が
堺
より
信貴山城
(大和国)に入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『足利季世記』巻6「大仏殿焼亡之事」、『陰徳太平記』巻41「三好義誥与松永一味付東大寺炎焼之事」
永禄10年 1567年 4月12日
三好義継
が
多聞山城
(大和国)に入城する。
出典:『陰徳太平記』巻41「三好義誥与松永一味付東大寺炎焼之事」
永禄10年 1567年 4月18日
三好長逸
、
岩成友通
、
三好宗渭
が軍勢10000を率い奈良(大和国)に陣取る。
松永久秀
の在城する
多聞山城
(大和国)に攻め寄せる。三人衆の勢は、古市、鹿野薗を放火し白毫寺辺りに野陣する。
三好義継
、久秀・
久通
父子は大力、辛碓、
東大寺
南大門に布陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)
永禄10年 1567年 4月24日
三好長逸
、
岩成友通
、
三好宗渭
、
筒井順慶
が奈良(大和国)に攻め入りそんき寺から大乗院山に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)
永禄10年 1567年 -月-日
岩成友通
がそんき寺を城にする。
出典:『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)
永禄10年 1567年 5月2日
筒井順慶
の手引きにて
岩成友通
の率いる軍勢10000が
東大寺
大仏殿、念仏堂、二月堂、知足院に陣取る。
松永久秀
は
東大寺
戒壇院に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)
永禄10年 1567年 5月15日
篠原長房
、
池田勝正
が
松永久秀
を攻めるべく大和国に向けて出陣する。
三好宗渭
、高畠が
東大寺
二月堂・同大仏殿に陣取る。それに備えるため
三好義継
、久秀・
久通
父子が
多聞山城
(大和国)、
興福寺
、
東大寺
戒壇院(以上、大和国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄10年 1567年 5月17日
池田勝正
が西方寺(大和国)に、
三好宗渭
が天満山より西ノ坂に、
岩成友通
が念仏堂より氷室山法雲院の後ろの畠に、
筒井順慶
が大乗院山に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 5月18日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
の軍勢が東山より
多聞山城
(大和国)に攻め入るも
松永久秀
が退ける。久秀は三好三人衆の軍勢に陣取りをさせないようにするため般若寺、文殊堂、仏餉屋、妙光院、観音院、松井安芸宿所、西院郷、北水門、南水門を焼く。またこの放火の際に放った火が
東大寺
戒壇院の授戒堂に飛び火する。
夜、久秀が宿院城(大和国)に夜襲をかけ、
池田勝正
勢が損害を出し最福院に逃れる。最福院は破却される。
出典:『多聞院日記』同年月日・19日条
永禄10年 1567年 5月19日
花厳院にて
三好釣閑斎
、
岩成友通
、川人が談合する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 5月23日
朝、
池田勝正
がマメ山に陣を移す。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 5月24日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
の軍勢が法輪院に入る。これを受け、
松永久秀
が宝徳院、妙音院、徳蔵院、金蔵院に火矢を放ち放火する。
夜前、久秀が無量寿院を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 6月4日
夜、
筒井順慶
が
興福寺
寺中に火矢を放つ
出典:『多聞院日記』同年月5日条
永禄10年 1567年 6月5日
筒井順慶
が龍華院方発心院、中蔵院、千手院、大聖院、安養院、谷坊、慈明院に陣取る。千手院の上に城を築くという。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 7月13日
寅刻から卯半刻(3-6時)まで
松永久秀
が今御門、餅飯殿、橋本、角振、小西を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 7月23日
東大寺
にて
三好長逸
・
三好宗渭
・
岩成友通
と
松永久秀
が戦う。この合戦により東大寺戒壇院、千手院が焼失する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月25日条
永禄10年 1567年 7月27日
松永久秀
合力として柳本弾正忠・波多野・赤井ら兵4000が丹波より西岡(京都)に侵攻し西岡衆と戦う。萬石・下山田を焼く。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄10年 1567年 8月2日
松永久秀
が大黒ノ尾に攻め入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 8月2頃日
松永久秀
合力として
根来寺
衆8000が和泉国に侵攻する。また、大和国の井戸、郡山(大和国)の辰巳も久秀に加勢する。
出典:『言継卿記』同年月5日条
永禄10年 1567年 8月16日
午刻(11-13時)、
松永久秀
方の松浦、松永彦十郎が
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
方に寝返る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月25日条
永禄10年 1567年 8月21日
池田勝正
と超昇寺が戦う。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 8月23日
飯盛山城
(河内国)の松山安芸守が、
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
方から
松永久秀
に寝返り、河内国の各所を焼く。
出典:『言継卿記』同年月25日条
永禄10年 1567年 8月26日
岩成友通
、中村為三の軍勢が河内国に向かう。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 9月5日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
、
篠原長房
が
飯盛山城
(河内国)に降伏するよう交渉する。
出典:『多聞院日記』同年月6日条
永禄10年 1567年 9月6日
飯盛山城
(河内国)が
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
、
篠原長房
に降伏すると報告がある。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 9月22日
田原の坂上氏が
松永久通
に寝返る。
松永久秀
が
飯盛山城
(河内国)に軍勢500を入れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 10月10日
松永久秀
が
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
の軍勢が陣取る
東大寺
大仏殿に、子刻初点(11時)夜襲をしかけ三好勢を破る。三好三人衆の軍勢が鑓中村ほか200-300人討死する。この戦いにより穀屋より出た火が法華堂、大仏殿の廻廊に移り、丑刻(1-3時)に大仏殿が炎上する。大仏殿のほか、念仏堂、唐禅院、四聖坊、安楽坊、深井坊が焼失する。
氷室山に陣取っていた別所勢と郡山の辰巳勢は陣所を自ら焼き払う。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月11日条
永禄10年 1567年 10月21日
飯盛山城
(河内国)に籠城していた松山安芸守と山口が
堺
に逃亡する。同城は
三好長逸
と
篠原長房
が請け取り入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 10月26日
池田勝正
が軍勢を少し奈良(大和国)に残し、摂津国に撤収する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 11月2日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
の軍勢と
松永久秀
の軍勢が
春日社
大鳥居にて戦う。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 1月1日
津田城が
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
方から
松永久秀
方に寝返る。
出典:『多聞院日記』同年月5日条
永禄11年 1568年 1月2日
三好千鶴
が
堺
に着陣する。
出典:『多聞院日記』同年月5日条
永禄11年 1568年 1月7日
三好義継
が
多聞山城
(大和国)から津田城へ移る。
出典:『足利季世記』巻6「松山安芸守カ事」
永禄11年 1568年 1月17日
西之城(大和国)の番替えとして
三好長逸
勢と
池田勝正
勢が入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 2月8日
足利義栄
の将軍宣下が行われる。
出典:『晴右記』同年月日条
永禄11年 1568年 3月21日
西陣へ番替えとして高屋衆(三好備中守、大嶋助兵衛、遊佐安芸守、加地六郎兵衛)、三鬼鎰助、カイノ庄助丞、木村宗也ら1500が着陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 3月25日
三好義継
が伴田に移る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 3月-日
三好長逸
、
岩成友通
、
三好宗渭
が連署で、
東福寺
および同門前境内に三好勢の濫妨・狼藉、山林竹木の伐採、寄宿、矢銭・兵粮米の賦課、放火を停止する禁制を発給する。
出典:永禄11年3月日付三好三人衆連署禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1396号「東福寺文書」)
永禄11年 1568年 5月19日
篠原長房
、
三好宗渭
が津田城より山城国を打ち回る。その後、西京に陣取り、奈良(大和国)には入らず。
長房が西京(大和国)あたりに陣取ることを聞いた
筒井順慶
が寺中へ陣取らないようにと長房に要請する。
出典:(永禄11年)5月19日付筒井順慶書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1409号「薬師寺文書」)、『多聞院日記』同年月22日条
永禄11年 1568年 5月29日
篠原長房
、
三好宗渭
が軍勢を奈良(大和国)に少し残し河内国に撤退する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 6月29日
三好康長
が
信貴山城
(大和国)を攻め落とす。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 7月16日
マメ山に布陣していた中村為三と
筒井順慶
勢が入れ替わる。篠原勘介が在番する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 7月25日
織田信長
が
足利義昭
を立政寺(美濃国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻7「信長出張之事」、『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条
永禄11年 1568年 7月27日
立政寺(美濃国)にて
織田信長
が
足利義昭
に謁す。
出典:『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条
永禄11年 1568年 8月18日
松永久秀
方の富野城(山城国)が宇治田原の衛門兵衛に攻め落とされる。富野城(山城国)の落城を聴いた多聞院英俊は、久秀がいよいよ滅亡するのではと評す。
出典:『多聞院日記』同年月21日条
永禄11年 1568年 9月2日
三好康長
が西京(大和国)に布陣する。興福寺からの訴えにより奈良には布陣せず。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月3日
三好康長
が
多聞山城
(大和国)の西北に攻め寄せる。奈良宿を放火する。
筒井順慶
が多聞山城(大和国)の東に攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月4日
河内国の三好勢が
東大寺
辺りに攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月5日
河内国の三好勢が帰陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月7日
織田信長
が
岐阜城
(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条
永禄11年 1568年 9月8日
織田信長
が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」
永禄11年 1568年 9月10日
織田信長
が近江国中郡に侵攻する。これを受け、
岩成友通
が、朝、
坂本
(近江国)に向かう。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月11日
申刻(15-17時)、
岩成友通
が京都に戻る。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月12日
織田信長
が
佐久間信盛
、
木下秀吉
、
丹羽長秀
、浅井新八に命じ箕作山城(近江国)を攻めさせ、夜、落とす。城攻めに
松平信一
、服部正成、
明智光秀
、
徳山則秀
、
浅野長政
、
細川藤孝
、
松井康之
、
蜂須賀正勝
、
丹羽氏勝
が参加する。
同夜、
観音寺城
(近江国)が自焼する。長光寺城(近江国)ほか11、12の城を落とす。
出典:『言継卿記』同年月13日条、『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『綿考輯録』巻1、『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項
永禄11年 1568年 9月13日
三好宗渭
、香西の率いる軍勢3000が木津平城に入る。
出典:『多聞院日記』同年月14日条
永禄11年 1568年 9月14日
織田信長
勢が
六角承禎
の居城を落とする。六角家家臣の後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里が信長に降伏する。
織田信長
が15日に上洛すると京都で噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月16日
三好宗渭
、香西の率いる軍勢3000が木津平城(山城国)を退き西京(大和国)に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月24日
織田信長
が
大津
(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月25日
織田信長
が
清水寺
に入る。
足利義昭
が
大津
(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月26日
織田信長
が山科郷(山城国)の南を通り
東寺
に布陣する。また信長は北白川を経由し軍勢を入京させる。
足利義昭
を
清水寺
に移す。
久我にて
織田信長
と
三好長逸
が戦う。
信長が勝龍寺城(山城国)に籠る
岩成友通
を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月27日
織田信長
が
足利義昭
を
清水寺
から
東寺
に移し、さらに西岡(山城国)まで移す。
信長勢が西岡の所々・吉祥院・淀・鳥羽(以上、山城国)・樟葉(河内国)を放火する。義昭を西岡寺土の寂勝院に布陣させる。織田勢を
山崎
(山城国)から天神之馬場までに展開する。
勝龍寺城(山城国)に籠る
岩成友通
と和睦交渉を進める。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月28日
織田信長
が
三好長逸
勢が拠る
山崎
(山城国)を攻め落とす。西岡(山城国)あたりを放火する。
足利義昭
が山崎の竹内左兵衛邸に移る。織田勢の先陣が芥川市場を放火する。(『言』)
織田信長
より
柴田勝家
、
蜂屋頼隆
、
森可成
、
坂井政尚
が三好攻めの先陣を命じられ、桂川を渡り
岩成友通
の籠城する勝龍寺城(山城国)を攻める。(『信』)
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻1(4)「信長御上洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」
永禄11年 1568年 9月29日
足利義昭
が天神馬場(摂津国)に移る。
織田信長
が
芥川山城
(摂津国)の麓を攻める。また織田勢が河内国の各所を放火する。夕方、
三好長逸
が芥川山城を、
岩成友通
が
勝龍寺城
(山城国)を信長に明け渡す。
出典:『言継卿記』同年月日・30日条
永禄11年 1568年 9月30日
足利義昭
が
芥川山城
(摂津国)に入城する。
織田信長
が郡山道場、富田寺外を落とす。富田寺内とは和睦する。
池田城
(摂津国)を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄11年 1568年 10月2日
足利義昭
、
織田信長
が
芥川山城
(摂津国)に陣取る。
三好長逸
・
池田勝正
が義昭・信長に降伏する。
松永久秀
が義昭のもとへ礼に赴くため八幡山(山城国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 10月15日
松永久秀
が豊田城(大和国)を攻め落とす。(『多』)
村上武吉に
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が悪逆無道を構え「都鄙乱世」にしているので急ぎ討ち果たすこと、武吉が児島(備前)に松永方に味方するよう命じてくれたことを謝す書状を送る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、(永禄11年)10月15日付松永久秀書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1428号「屋代島村上文書」)
永禄11年 1568年 10月15日
松永久秀
が豊田城(大和国)を攻め落とす。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 12月28日
松永久秀
方の池田丹後、寺町の軍勢100が籠る家原城(和泉国)を
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
の軍勢が攻撃し落とす。池田丹後、寺町は討死する。三好勢の十河嶋介、松浦、篠原玄蕃の討死が噂される。
出典:『多聞院日記』永禄12年1月5日条
永禄12年 1569年 1月4日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が蜂起し、
足利義昭
を攻めるべく塩小路(山城国)まで押し寄せてくる。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄12年 1569年 1月5日
午刻(11-13時)、
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が
足利義昭
の居所・
本圀寺
を攻める。本圀寺の北の中堂寺、南東の不動堂が放火される。足利勢は足軽衆20名が討死するも、長逸等の軍勢を退ける。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、
柳沢元政
、
明智光秀
。
出典:『言継卿記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元政」の項
永禄12年 1569年 1月6日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が軍勢6000にて
東寺
・浄福寺あたりに陣取る。その後、長逸、宗渭、友通は七条(山城国)に移動する。
足利義昭
の救援として、
池田勝正
、
伊丹親興
、
三好義継
が上洛する。七条に陣する長逸等に西から池田勝正・伊丹親興、北から奉公衆(
細川藤孝
等)、南から三好義継が攻めかかり、長逸等は1000余名の戦死者を出し敗北する。長逸は八幡(山城国)に逃亡し、友通は
北野神社
松梅院に逃れるが、北野社に追手がきたためさらに逃亡する。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通、小笠原信定(戦死)。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、
柳沢元政
、
明智光秀
、伊丹親興、池田勝正、三好義継、細川藤孝。
出典:『言継卿記』同年月日・7日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原信定」の項
永禄12年 1569年 1月10日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が
足利義昭
を襲撃したとの報を受け、救援に駆けつけた
織田信長
が、この日、入洛する。救援の軍勢に
松永久秀
等が加わる。
出典:『言継卿記』同年月日条
元亀1年 1570年 6月19日
足利義昭
の近江国への出陣が、18日の
池田勝正
の家内の内紛と
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が攻め入ってくるとの噂があったことから延期となる。
出典:『言継卿記』同年月日条
元亀1年 1570年 6月26日
三好義継
、
池田勝正
が上洛する。
三好長逸
、
岩成友通
が
池田城
(摂津国)に入城したと噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条
元亀1年 1570年 6月28日
吉田兼見が
足利義昭
に御祓を進上する。
堺
(和泉国)の
岩成友通
方の者の3名の首が
足利義昭
のもとにもたらされる。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀1年 1570年 6月29日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
等が吹田(摂津国)あたりに到着したと京都(山城国)にて噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条
元亀1年 1570年 6月30日
奉公衆が摂津国に向けて京都(山城国)より出陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条
元亀1年 1570年 7月25日
酉刻(17-19時)、
松永久秀
・
久通
父子が
信貴山城
(大和国)に出陣する。
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
が河内国に攻め入ったと噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条
元亀1年 1570年 7月27日
三好康長
、
三好長逸
、
三好宗渭
、三好為三、
岩成友通
、東条行長、松山重治、
斎藤龍興
、長井道利等が中島天満森(摂津国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」
元亀1年 1570年 7月29日
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」
元亀1年 1570年 8月9日
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が
尼崎
(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」
元亀1年 1570年 8月13日
安宅甚太郎・池田某が猪名寺(摂津国)にて戦う。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」
元亀1年 1570年 8月17日
三好長逸
・
三好宗渭
・
岩成友通
の軍勢が、
三好義継
・
畠山昭隆
・
伊丹親興
・遊佐の軍勢が籠る古橋城(河内国)を攻める。
出典:『尋憲記』同年月20日条、『言継卿記』同年月18日条、『多聞院日記』同年月18日条、『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」
元亀1年 1570年 8月22日
織田信長
が長光寺(近江国)に宿泊する。(『信』)
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
の軍勢が、
天王寺
、ウリウノ、
堺
に陣取る。
松永久秀
が高安(河内国)に、竹下秀勝が大窪に陣取る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『多聞院日記』同年月日
元亀1年 1570年 8月25日
福島(摂津国)に陣取る
三好長逸
、
三好康長
、
岩成友通
を討つため、
織田信長
が京都より中島(摂津国)に向けて出陣する。淀川を渡り枚方寺内町(河内国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条、『陰徳太平記』巻47「信長大坂出張並所々合戦事」
元亀1年 1570年 8月26日
織田信長
が
天王寺
に陣取り、諸勢を天満が森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波、浜の手に展開し、
三好長逸
、
岩成友通
、
三好康長
、安宅信康、十河存保、
篠原長房
、松山重治、香西佳清、三好為三、
斎藤龍興
、長井道利が陣取る野田・福島(摂津国)を攻める。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」
元亀1年 1570年 8月28日
織田信長
が
天王寺
に陣取る。織田勢は信長、
畠山昭高
、
三好義継
、
松永久秀
等が大坂(摂津国)の西の川端に軍勢20000-30000で布陣する。義継、久秀、
和田惟政
は川を越え天満森に布陣する。
野田・福島(摂津国)に陣取る香西佳清、三好為三が信長のいる天王寺に降伏するためやってくる。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『言継卿記』同年月日条
元亀1年 1570年 9月3日
足利義昭
が中島(摂津国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」
元亀1年 1570年 9月8日
織田信長
が楼の岸(摂津国)に砦を築き、
斎藤利治
、
稲葉良通
、中川重政を置く。川口に砦を築き、平手汎秀、
長谷川与次
、水野監物、
佐々成政
、塚本小大膳、
丹羽氏勝
、佐藤秀方、梶原景久、高宮右京亮を置く。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」
元亀1年 1570年 9月9日
織田信長
が天満が森に本陣を移す。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」
元亀1年 1570年 9月12日
足利義昭
、
織田信長
が海老江(摂津国)に陣を移し、
三好長逸
、
岩成友通
、
三好康長
、安宅信康、十河存保、
篠原長房
、松山重治、
斎藤龍興
、長井道利の籠る野田・福島(摂津国)を攻める。長逸等は信長に降伏を申し出るが信長に断られる。
本願寺顕如
が義昭、信長を攻撃する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条
元亀1年 1570年 9月13日
本願寺顕如
が織田方の楼の岸砦、川口砦に攻め入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」
元亀1年 1570年 9月14日
本願寺顕如
が天満が森に攻め入る。かすがゐ堤の合戦で
織田信長
と大坂本願寺勢が戦い、信長が本願寺勢を退ける。この戦いで織田勢の第1陣を
佐々成政
が、第2陣を
前田利家
がつとめる。成政は負傷し撤退する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」
元亀1年 1570年 9月23日
織田信長
が
和田惟政
、
柴田勝家
に殿を命じ、野田・福島(摂津国)を引き払い京都に向かう。江口を経由して
足利義昭
とともに帰洛する。
信長は吉田兼見に白川と山中の通路を封鎖するように命じる。兼見は白川、浄土寺にその旨を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」
元亀2年 1571年 5月30日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
の軍勢が
畠山高政
・遊佐の籠る
高屋城
(河内国)に攻め入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
元亀2年 1571年 6月11日
高屋城
(河内国)を攻めていた
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
の軍勢が撤退する。
出典:『多聞院日記』同年月日12条
元亀3年 1572年 -月-日
細川昭元、
岩成友通
が
織田信長
のもとへ礼に訪れる。
出典:『信長公記』巻5(1)「むしやの小路御普請の事」
元亀3年 1572年 5月14日
岩成友通
が吉田兼見のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀4年 1573年 7月18日
織田信長
が槙島(山城国)を放火する。信長が
足利義昭
が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は
槙島城
(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀4年 1573年 7月27日
細川藤孝
が
岩成友通
の籠る
淀城
(山城国)を攻める。
出典:『綿考輯録』巻2
天正1年 1573年 -月-日
羽柴秀吉
が
淀城
(山城国)に籠る番頭大炊頭、諏訪飛騨守を寝返らせ、
岩成友通
を孤立させる。
出典:『信長公記』巻6(10)「岩成討果され候事」
天正1年 1573年 8月2日
岩成友通
が籠る
淀城
(山城国)を
細川藤孝
が攻める。藤孝の家臣・下津一通が友通を討ち取る。
出典:『信長公記』巻6(10)「岩成討果され候事」
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