地 名 の 歴 史

下野国[国] しもつけのくに
初 見-
下野国
安蘇郡、足利郡、梁田郡、都賀郡、寒川郡、河内郡、芳賀郡、塩屋郡、那須郡
荘 園-
中 世 高-
近 世 領 主-
近 世 石 高-
鎮 守-
神 社-
寺 院-
城 郭下野国の城郭
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
下野国[国] 年表
延元1年 1336年 5月8日 
北畠顕家が那須(下野国)を攻める。
出典:『桜雲記』巻之上

延文1年 1356年 11月25日 
宇都宮公綱が死去する。
出典:-

永禄2年 1559年 8月1日 
結城政勝が死去する。
出典:-

元亀2年 1571年 10月3日 
北条氏康が死去する。
出典:『早雲寺過去帳』

元亀3年 1572年 1月9日 
佐竹義重が那須(下野国)に攻め入る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

元亀3年 1572年 12月26日 
佐竹義重が皆川広照を攻めるため下野国に向け出陣する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

元亀4年 1573年 2月13日 
佐竹義重が宇都宮(下野国)に帰陣する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

天正18年 1590年 7月26日 
豊臣秀吉が宇都宮(下野国)に到着する。
出典:(天正18年)7月26日付木下吉隆書状(『伊達家文書』2-524号)

天正18年 1590年 8月-日 
徳川家康榊原康政に上野国邑楽郡・勢田郡、下野国簗田郡の100000石を給付し、館林城(上野国)に置く。あわせて康政の与力として、村上弥右衛門、原田種正、竹内広茂、瀧見九郎兵衛、鈴木重則、安松宗光等を付す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」

文禄3年 1594年 10月-日 
佐竹義宣の所領の検地が行われ、常陸国久慈郡・筑波郡・多賀郡・茨城郡・鹿島郡・行方郡・新治郡・真壁郡・信太郡・河内郡・江戸崎領、陸奥国南郷、下野国武茂・松野・茂木等で総石高545760石とされる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長4年 1599年 11月18日 
浅間山が噴火する。12月10日に噴火が沈静化する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 7月19日 
徳川秀忠上杉景勝攻めにつき江戸城(武蔵国)を発つ。先陣は榊原康政結城秀康松平忠吉、蒲生秀行、井伊直政本多忠勝松平忠明森忠政、仙石越前守、真田信幸小尾祐光小尾光重津金胤久、成田左衛門尉、石川玄蕃允、皆川広照、日根野徳次郎、多賀谷、山川民部、水谷左京が秀忠に供奉する。この日、宇都宮(下野国)に着陣する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻10「長政記」、『寛政重修諸家譜』巻第172「小尾祐光」の項、同「小尾光重」の項、同173「津金胤久」の項

慶長6年 1601年 12月28日 
徳川家康奥平家昌に100000石を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長15年 1610年 -月-日 
徳川秀忠が細川興元に下野国芳賀郡内で10000石を給付し、興元は茂木(下野国)を居所とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第106「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川興元」の項

慶長19年 1614年 5月24日 
南光坊天海駿府城(駿河国)に出仕し、徳川家康に日光山麓にて銅が産出したことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月10日 
奥平家昌宇都宮城(下野国)にて死去する。
出典:-

寛永10年 1633年 2月7日 
徳川家光が能勢頼之に下野国都賀郡内で200石を加増する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第274「能勢頼之」の項

寛永13年 1636年 1月25日 
徳川家光が酒井忠勝に下野国安蘇郡・都賀郡内において在江戸料として10000石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第61「酒井忠勝」の項

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