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天文22年 1553年 5月22日
高田(美作国)にて尼子晴久浦上宗景が戦い、晴久が勝利する。宗景は天神山城(備前国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻22「尼子晴久作州働付高田合戦並真木射大蛇事」

天文22年 1553年 6月9日
三好之虎が細川持隆を見性寺に攻め自害に追い込む。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文22年 1553年 6月18日
山科言継小山新四郎より薬6種を取り寄せる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 6月25日
山科言継が比叡山に登る。午刻(11:00-13:00)に梶井宮のもとへ参り、西塔院主を安居院が望んでいることを伝える。梶井宮からは石泉院僧正と定法寺なども西塔院主職を望んでいることを伝えられる。次に栄光坊を訪れる。病と聞いていたが看経をするなど回復していた。最後に安居院を訪れ、同院に宿泊する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 6月26日
山科言継が安居院にて斎を受ける。次に言継は梶井宮門跡のもとを訪れ碁を打つ。ついで東塔東谷観仙房へ向かうが、房主は留守。ついで月蔵坊三位のもとへ赴くが留守。最後に再度、梶井宮門跡のもとを訪れ、西塔院主職のことについて安居院が適任であることを口添えする。夕方に安居院に戻る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 6月27日
山科言継が安居院にて斎を受ける。言継は梶井宮門跡のもとを訪れ雑談する。その後、安居院と同道して北谷に帰る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 6月28日
山科言継が南谷栄光坊を見舞う。病は回復したという。南光坊を訪れるが留守。ついで梶井宮門跡のもとを訪れ干飯にて酒を飲む。再度、西塔院主職について安居院を推す。明日下山するため梶井宮門跡に暇乞いをする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 7月3日
三好長慶が芥川孫十郎の籠る芥川山城(摂津国)の東の山に陣取り芥川山城を攻める。
出典:『足利季世記』巻5「大樹都落之事」

天文22年 1553年 7月14日
細川晴元が軍勢1000人を長坂・船岡山(山城国)に繰り出す。細川勢に対し、奉公衆および河内国の安見宗房勢3000が対峙する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 7月21日
洛中で風流踊をし、禁裏にも入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 7月22日
北野社右近馬場にて足利義藤細川晴元を赦免する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 7月25日
龍造寺隆信が肥前国に攻め入るべく、蒲池鑑盛よりの加勢200を率い筑後国を発つ。
出典:『陰徳太平記』巻20「龍造寺隆信退去佐嘉城付帰入同城事」

天文22年 1553年 7月28日
細川晴元が長坂(山城国)に軍勢を遣わす。長坂にいた晴元被官の内藤彦七、香西元成、柳本、三好政勝を、足利義藤が奉公衆・上野民部大輔らが5・6名を遣わし出迎える。北野神社右近馬場にて晴元を赦免する。
西院(山城国)の集落を焼き討ちにするも、同地の三好方の小泉城(山城国)は落ちず。義藤のもとへ挨拶に訪れた人々を送り、自身は北山に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 7月28日
日吉社で祭礼が行われる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『天文二十二年目代秀世諸色帳』同年月日条(『北野天満宮史料 目代日記』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1975年)

天文22年 1553年 7月29日
足利義藤が西院(山城国)に野伏せりを仕掛ける。細川晴元の家臣・内藤彦七、香西元成三好政勝、十河左介、宇津二郎左衛門が談合のため義藤の陣所を訪れる。義藤は彼らに酒を振舞う。大舘晴光上野信孝、上野与三郎、杉原晴盛も談合に参加。同朋衆に酌をさせる。
下京に1町につき結橋2つを賦課する。
出典:『言継卿記』同年月日・7月30日条条

天文22年 1553年 7月30日
足利義藤が北山(山城国)より北野社右近馬場を経て西京東南角の松之本に布陣する。西院小泉城(山城国)を内藤彦七らに率いられた細川勢3000-4000とともに包囲する。西七条・鳥羽あたりで火が上がったため西院城への三好の後詰に備えたが、三好勢が来なかったため再度、西院城を包囲し、城の東北に布陣した奉公衆の上野信孝と杉原晴盛に城攻めを命じるが、兵の損耗を嫌った両者は攻撃をせず。夕方、北山に帰陣する。
三好長慶が、申刻(16時)、鳥羽(山城国)に布陣し、東寺にて野伏せりをする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 8月1日
三好長慶芥川山城(摂津国)への押さえの軍勢を残し、河内国・和泉国・大和国・摂津国・紀伊国の軍勢を25000を率い上洛する。長慶の上洛にあわせ、安見宗房が上洛する。
足利勢が籠る霊山城(山城国)に今村慶満を遣わし攻める。今村勢は、一族の今村源七郎ら死傷者を出すが、城を守る松田監物を自害に追い込み城を落とす。また、長慶は船岡山(山城国)に陣取っていた足利義藤十河一存率いる河内国・紀伊国の諸勢10000を遣わし攻撃を加え、多くを捕らえる。義藤は北山(山城国)に逃れる。細川晴元は一戦に及ばず撤退する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「大樹都落之事」

天文22年 1553年 8月2日
細川晴元足利義藤の礼に赴き1獻を受ける。義藤、晴元は杉坂(丹波国)に移る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『天文二十二年目代秀世諸色帳』同年月日条(『北野天満宮史料 目代日記』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1975年)

天文22年 1553年 8月3日
細川晴元足利義藤のもとに礼に赴く。義藤、晴元は杉坂(丹波国)から山国に移り浄福寺に逗留する。山国から途中に向かう。
出典:『厳助大僧正記』『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 8月5日
足利義藤細川晴元が山国を経由し龍花に向かう。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 8月14日
この頃、三好長慶が龍華に逃れた足利義藤に随従している者の知行を没収すると触れ回る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 8月18日
細川晴元の牢人衆・塩川伯耆守が池田(摂津国)にて蜂起し芥川山城(摂津国)の後詰に赴くが敗れる。
出典:『足利季世記』巻5「芥川落城之事」

天文22年 1553年 8月19日
芥川山城(摂津国)に籠っていた芥川孫十郎が三好長慶に降伏し、城を明け渡す。
出典:『足利季世記』巻5「芥川落城之事」

天文22年 1553年 8月22日
安見宗房芥川山城(摂津国)を請け取る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 8月30日
足利義藤が朽木(近江国)に到着する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

天文22年 1553年 8月30日
安見宗房の交渉により開城した芥川山城(摂津国)を三好長慶が受け取り入城する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

天文22年 1553年 9月3日
三好長慶の命により松永長頼が八上城(丹波国)攻めに赴く。
出典:『足利季世記』巻5「芥川落城之事」

天文22年 1553年 9月18日
松永長頼が八上城(丹波国)の合戦で波多野晴通に敗れ八木城(丹波国)より退く。
出典:『足利季世記』巻5「芥川落城之事」

天文22年 1553年 9月28日
三好長慶の病死が噂される。
出典:『言継卿記』同年月29日条

天文22年 1553年 10月25日
山科言継三好長慶に依頼された玉葉集の書写を終える。
出典:『言継卿記』同年月日条

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