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出典 :   


天文22年 1553年 2月12日
三好長慶が上洛し東寺に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 2月15日
毛利元就隆元父子が伊未・井原(備中国)に陣取る。吉川元春が猿掛城(備中国)近くに陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻21「三村家親属毛利家付備中国猿掛城合戦之事」

天文22年 1553年 2月20日
細川晴元が乾あたりに足軽を繰り出すが、三好長慶勢が追い払う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 2月23日
中御門、山科言継勧修寺晴秀足利義藤の籠る霊山城(山城国)に赴く。一行は義藤と面会する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 2月26日
細川晴元が高尾五台山に城を築く。
鳴瀧あたりにて、細川晴元勢と三好長慶勢と戦い、細川勢は大将分4・5人、計20人程が討ち取られる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 2月26日
本願寺証如延暦寺西塔院へ天文21年分の末寺銭を納める。
出典:『天文日記』同年月日条

天文22年 1553年 2月27日
足利義藤の屋敷近くである今出川二本松で亥刻(21-23時)に火事が起こる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 2月27日
三好長慶細川晴元にの高尾山を軍勢10000にて攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月2日
山科言継小山新四郎郎より薬を取り寄せる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月8日
足利義藤三好長慶の関係が決裂する。義藤が霊山城(山城国)に入城する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月10日
細川晴元の牢人衆が畑(丹波国)にて蜂起する。この討伐のため、三好長慶松永久秀を遣わす。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文22年 1553年 3月12日
中御門、山科言継が見舞いとして足利義藤のいる霊山城(山城国)に赴き面会する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月18日
相国寺の方丈が再興する。
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

天文22年 1553年 3月-日
尼子晴久が美作国に向けて出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻22「尼子晴久作州働付高田合戦並真木射大蛇事」

天文22年 1553年 3月21日
北野社で千部経法会が始まる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月25日
山科言継清凉寺千部経法会に赴く。清凉寺には3000人の読経僧がおり、釈迦堂の東西に仮屋を建てる。参詣者が群参していたが、その多くが「田舎衆」であるという。坤(南東)の塔では念仏が行われているという。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月26日
山科言継清凉寺千部経法会に赴く。朝の読経の後、清凉寺にて二尊院所蔵の足引の御影とその他の霊宝を言継は見物する。三条西公条が参詣も参詣しており、言継と公条が斎をともにする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月27日
山科言継清凉寺千部経に訪れる。三好長慶が馬上50-60騎を含め700-800人を率い清凉寺に参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月29日
北野社の千部経法会(21日開始)が結縁を迎える。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 4月2日
山科言継三好長慶に依頼された玉葉集の書写を始める。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 4月3日
山科言継三好長慶に依頼された玉葉集の書写のため右衛門督より玉葉集の上・中・下を借用する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 4月3日
三村家親吉川元春熊谷信直、天野隆綱が井原(備中国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻21「三村家親属毛利家付備中国猿掛城合戦之事」

天文22年 1553年 4月5日
夜、井原(備中国)にて穂井田為資と三村家親が戦い、家親が勝利する。穂井田勢は村田行吉が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻21「三村家親属毛利家付備中国猿掛城合戦之事」

天文22年 1553年 4月9日
権大納言となる。
出典:『系図纂要』「広橋」

天文22年 1553年 4月12日
従五位下・兵部大輔となる。
出典:『綿考輯録』巻1

天文22年 1553年 4・5月-日
清水寺本願成就院は武田晴信が信濃国を平定したのを聞きつけ勧進に赴く。しかし、晴信の陣所を訪れた時には、村上義清が信濃国小県郡を武田家より奪還していたため、晴信は再度平定した後に奉加を納めると約す。
出典:天文22年12月18日付武田晴信書状(「成就院文書」)

天文22年 1553年 5月7日
山科言継三好長慶に依頼された玉葉集の書写のうち4季分6巻の書写を終える。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 5月7日
桔梗原(信濃国)にて武田晴信小笠原長時が戦う。
出典:天文22年6月7日付武田晴信感状(「辻家文書」『戦国遺文 武田氏編』第1巻-372号)他

天文22年 1553年 5月9日
粟津修理亮が三好長慶を招く。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 5月13日
高田(美作国)にて尼子晴久浦上宗景が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻22「尼子晴久作州働付高田合戦並真木射大蛇事」

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