慶長19年 1614年 12月1日 |
夕方、徳川家康が4日に茶臼山に陣取ること、この布陣につき船場(摂津国)の破損した町屋を陣屋に転用するよう中井正清に指示する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月2日 |
徳川家康が茶臼山(摂津国)に赴く。4日に当地へ陣を移すという。家康は単騎で大坂城(摂津国)近くまで赴き、敵勢の様子を確かめる。これを聞き、徳川秀忠が平野(河内国)より家康のもとに合流する。本多正信、本多正純、成瀬正成、安藤直次のみ供をする。申刻(15-17時)、家康は住吉(摂津国)に戻る。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月2日 |
夜、本多忠政が徳川家康のもとに赴き、忠政と松平清正の陣所が定まっていないので、本多正純を介して家康の意向を問う。家康はまだ定まっていないと返答する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月2日 |
徳川家康が松平正久に大坂城の周囲を一回りするよう命じる。夜、正久は帰参し、船場・天満・備前島・瀑布・今市・青屋口・玉造口・榎並の諸攻口の状況を家康に報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月2日 |
南部利直が徳川家康に対面する。11月15日に伏見城(山城国)にて秀忠に対面したおりは、国元より軍勢が到着しておらず、改めての礼をする。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月2日 |
浅野長則が徳川家康に対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月2日 |
有馬直純が徳川家康に対面する。家康・秀忠は高橋元種の旧領である延岡(日向国)60000石を直純に給付する。本多正純が披露する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月3日 |
成瀬正成、安藤直次が、徳川義俊・徳川頼宣の陣所となる天王寺(摂津国)近辺を検分する。 徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣を移すこととする。 織田有楽・大野治長よりの和睦に関する書状を有楽家臣の村田吉蔵と治長家臣の米村権右衛門が、本多正純、後藤光次のもとに到着する。 池田忠継、森忠政を天満(摂津国)より船場(摂津国)に戻す。 徳川勢の先手が城より10町もしくは5、6町の近くまで接近する。井伊直孝勢は大坂城(摂津国)三ノ丸の堀近くに竹束を寄せる。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
慶長19年 1614年 12月3日 |
本多正純が物見として大坂城(摂津国)辺りを見回る。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
慶長19年 1614年 12月3日 |
細川忠利が徳川家康に対面する。本多正純が取り次ぐ。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
慶長19年 1614年 12月3日 |
小出吉英・吉親父子が徳川家康に対面する。家康は瀑布郷に堤を築くよう命じる。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
慶長19年 1614年 12月3日 |
徳川秀忠の使者として土井利勝が徳川家康のもとを訪れる。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
慶長19年 1614年 12月3日 |
中井正清が茶臼山(摂津国)の陣屋は4日屋根の葺き替えを行うことを徳川家康に報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
慶長19年 1614年 12月3日 |
徳川秀忠の本陣の陣屋普請を担当した阿部正次が、普請の最中、黄金30両、金具9塊、南鐐100両の入った小壺を発見する。壺は伊丹康勝が家康に報告する。家康は正次にその壺の中身を賜う。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
慶長19年 1614年 12月4日 |
徳川家康が住吉(摂津国)より天王寺茶臼山に陣替えする。徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣替えする。徳川義俊、徳川頼宣が天王寺(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。 朝、松平忠直・本多富正・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて大坂城(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は安藤直次を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。 井伊直孝勢が大坂城の真田信繁の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。徳川秀忠の命により井伊勢は撤退する。 未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。本多正純の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。 家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。 家康は藤堂高虎の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。 夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。 |
出典:『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
慶長19年 1614年 12月4日 |
徳川家康が奥北山、熊野の山夫が年貢を抑留し、一揆を企てているので、当地の代官に命じ人質をとるように命じる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月4日 |
徳川家康が大坂城籠城の者の妻子が奈良(摂津国)にいるので捕縛するよう中坊左近、小堀政一に命じる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月4日 |
夜、金地院崇伝、廓山が家康に対面する。総攻めの日取り書を崇伝が読みあげる。5日、廓山は奈良に戻るとされる。廓山は、家康の命により、昨冬より浄土宗でありながら唯識論を学んでいるという。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月5日 |
酒井家次、松平忠良、仙石忠政が徳川家康に対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月5日 |
六条有慶、冷泉為満、山科言緒が徳川家康に対面する。金地院崇伝が披露する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月5日 |
池田忠雄、蜂須賀至鎮が徳川家康に対面する。家康は陣地に土手を築き、竹手束を用意して、兵が負傷しないように城に近づくようにと指示する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月5日 |
九鬼守隆が家康に対面する。家康は海上にて敵船を暴く働きを賞す。また、大坂城(摂津国)より脱出した者がいるかどうかを兵船をもって監視するように指示する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月5日 |
徳川家康が高野山文殊院応昌を呼び出す。趣旨は、内山先達、吉野大峰五鬼のひとつ菩鬼名助が大坂城に籠城しているため、熊野(紀伊国)の民が北山にて蜂起するとの噂があり、代官を派遣して鎮圧したが、山伏の峰入が途絶してしまっているので復興するように指示する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月5日 |
松平正久が大垣衆が製作した弓火矢2筋を徳川家康のもとに持参する。飛距離が4町あるという。家康は自ら試し撃ちする。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月5日 |
奈良(大和国)の函人・岩井与左衛門が甲冑を徳川家康に進上する。その甲冑に対し、稲富重次が小筒3文目5分玉を放ったところ、甲冑は貫通しなかったという。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月5日 |
徳川家康が物見として横田尹松、間宮権左衛門を船場、天満(摂津国)に遣わす。尹松、権左衛門は、家康が先手鉄砲衆に対し、一人として惜しいので、城攻めの際は、土手等を築くようにと伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月5日 |
伊達政宗の使者として山岡重長が家康のもとを訪れる。重長は家康に鉄砲を預かりたいと申し出る。家康は弓火矢2挺、大筒30挺(玉目50目)を貸し与える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月5日 |
伊達政宗が徳川家康に対面する。家康は政宗に良き場所に陣場を設けたと述べる。政宗は家康に木津攻めを命じられたが、船場(摂津国)を落とした時、政宗が一騎にて見回りし、すぐに鉄砲400-500を大坂城下船場方面の堀角、生駒正俊の陣地左に遣わしたという。家康は政宗に総攻めにつき梯子を多数用意するよう命じたので、それで城の壁や石垣を登るようにと伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月5日 |
徳川家康が石川宗林と対面する。宗林は羽織を献上する。宗林は関ヶ原の戦い以後、牢人となって京都を徘徊していたが、このたび大坂城に籠城しなかったため対面を果たす。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月5日 |
徳川秀忠の使者として土井利勝が徳川家康のもとを訪れる。利勝から家康に、豊臣秀頼が秀忠に和睦の申し出があったことを伝える。秀忠はこれだけの軍勢を集めて大坂城を落とせず和睦したとあったら、後難となるので、日を定めて城に攻め入るべきと考えであることを利勝が家康に伝える。家康は、秀忠が憤慨する気持ちはわかるが、小敵と侮らず、また戦は戦わずして勝つことが良将といわれることもあるので、家康の命令に従うようにと利勝に伝える。利勝は岡山の陣所に戻る。秀忠は家康の言を聞き、家康は文武の道、天下無双の大将だが、大坂城攻めについては、なおざりで奇怪なことも多く不快に思う。秀忠の傍にいた本多正信が秀忠に憤りはもっともだが、家康の命には従うようにとなだめる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |