慶長19年 1614年 12月5日 |
榊原康勝が天王寺に陣替えする。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項 |
慶長19年 1614年 12月6日 |
徳川家康が住吉(摂津国)より茶臼山(摂津国)に赴く。徳川秀忠も岡山より茶臼山に赴き、家康と合流し対談する。 藤堂高虎、本多正信が家康と対面する。 夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れ、家康と密談する。 成瀬正成、安藤直次、安藤重信が物見として大坂城(摂津国)の周囲を検分する。重信が秀忠のもとに帰還後、午刻(11-13時)に甲山で季節外れに蛙が大量発生し喰い合いする奇怪な場面に遭遇したことを報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月7日 |
夕方、徳川家康が天満(摂津国)に陣取る本多忠朝に城に接近するよう命じるが、忠朝は当地が川深く、惣攻めの際に陣所よりの出撃が難しいと反論し、家康は不快をあらわす。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月7日 |
寺沢広高が徳川家康と対面する。近日中に石火矢を届けることを報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月7日 |
秋田実季が徳川家康と対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月7日 |
南光坊天海、薬樹院が徳川家康と対面する。6日に安藤重信が目にした蛙合戦について、蛙が北と南に分かれて戦っており、北の蛙が多く死傷していたのを受け、北は大坂城(摂津国)、南は家康・秀忠の本陣であるので、豊臣方が負けるだろうと雑談する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月8日 |
池田利隆、池田忠継、脇坂安元が徳川家康に対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月8日 |
本多正信、土井利勝、藤堂高虎が徳川家康と対面し雑談する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月8日 |
佐久間久右衛門、佐久間源六が徳川家康に対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月8日 |
五山僧衆が徳川家康に対面する。金地院崇伝が取り次ぐ。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月8日 |
浅野長晟、山内忠義、山内政豊が徳川家康に対面する。本多正純が、7日に大坂城(摂津国)より長晟の陣所に矢文があったことを報告する。その内容は、城内では和睦の話が出ているが、牢人衆が承知していないというもの。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月8日 |
浅野長重が徳川家康に対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月8日 |
堺商人・長崎の者が徳川家康に進物を捧げる。長谷川藤広が取り次ぐ。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月8日 |
南部利直が徳川家康に対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月8日 |
菊亭少将が徳川家康に対面し、羽織を献上する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月8日 |
大坂城(摂津国)より織田有楽と大野治長の返状が徳川家康のもとに届く。本多正純、後藤光次が密かに家康に披露する。長益使者は村田吉蔵、治長使者は米村権右衛門。牢人衆の宥免があるか、秀頼の国替えがどこを希望しているか、開城の条件などを協議する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月9日 |
藤堂高虎が徳川家康と大坂城(摂津国)惣攻めの評定をする。 山城忠元、滝川忠征が家康に長柄堤が完成し、河川の水が尼崎(摂津国)に流れ、天満川が浅くなったので、そのうち川が乾くとの報告をする。 青木一重の書状が家康に届く。本多正純が披露する。 家康が永井直勝、青木二郎右衛門を召し寄せ、今夜より諸勢に鬨の声をあげさせ、籠城している者の睡眠を妨げるように命じる。 家康が松平忠直の家老・山本内蔵助を召し出し、攻め口の陣場を言い渡す。 板倉勝重が島津家久に大坂(摂津国)への参陣を催促する。 夜、徳川勢より鬨の声と鉄砲が放たれるが、鉄砲のつるべ撃ちを家康が禁止する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項 |
慶長19年 1614年 12月9日 |
後陽成上皇が徳川家康に薫物1包を贈る。南光坊天海が持参する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項 |
慶長19年 1614年 12月10日 |
午刻(11-13時)、徳川秀忠、藤堂高虎、本多正信が徳川家康のもとに赴き、徳川義俊、徳川頼宣を交えて相談をする。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月10日 |
毛利宗瑞が吉川広家、福原広俊を連れて徳川家康に対面し、子・秀就を引き立ててくれていることに礼をいう。本多正純が取次。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月10日 |
京都町衆が徳川家康に鉛1000斤を献上する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月10日 |
以心崇伝が徳川家康に日取書物を読む。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月10日 |
伊奈忠政、北見五郎左衛門が徳川家康に堰、川堤の完成を報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月10日 |
夜、徳川家康が大坂城(摂津国)の諸口に向けて守将の姓名を入れた矢文を放ち降伏すれば赦免することを伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月11日 |
徳川家康が間宮新左衛門、島田直時、日向半兵衛を召し、銀山堀衆をもって大坂城(摂津国)の櫓を崩すように命じる。 藤堂高虎、井伊直孝、前田利光の陣場で堀をつくる。黒田長政が鉛3000斤を家康に献上する。 浅野長晟が家康に城に軍勢を近づけるにあたり堀を埋めるべきか否かを正純を通じて尋ねる。家康はしばし待つようにと指示する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月11日 |
伊達政宗が徳川家康に対面する。本多正純が取次。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月11日 |
藤堂高虎が徳川家康に対面し密談をする。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月11日 |
伊豆山・箱根山・三島社(伊豆国)の社僧・神主が徳川家康に巻数を献上する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」 |
慶長19年 1614年 12月11日 |
北野社松梅院、里村昌琢が家康に対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」 |
慶長19年 1614年 12月11日 |
本願寺准如の使者として下間仲孝が徳川家康にもとに赴き小屏風を献上する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」 |