慶長19年 1614年 11月21日 |
徳川秀忠の使者として土井利勝、安藤重信が徳川家康のもとを訪れる。家康は大坂近辺に付城を築くよう命じる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 11月22日 |
豊臣秀頼の使者として塩江甚助が、秀頼の書状を携え池田利隆の陣所に赴き、秀頼に与同するように伝える。利隆は甚助を捕縛し、住吉(摂津国)にいる徳川家康のもとに送る。この件を本多正純が家康に披露する。家康は、どの大名に秀頼の書状が遣わされたのか究明するよう甚助への尋問を指示する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 11月22日 |
向井忠勝が葦島(摂津国)に陣替えする。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項 |
慶長19年 1614年 11月23日 |
大野治長の使者が池田忠雄のもとに使者を遣わし、諸大名は豊臣秀頼と内々に通じているので、忠雄も秀頼に味方するようにと伝える。また、忠雄の所領である淡路国の百姓が秀頼に通じ一揆を起こすことになっていると忠雄の家老のもとに豊臣方の使者が訪れる。忠雄は治長の使者等を捕らえ、住吉(摂津国)にいる徳川家康に報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 11月23日 |
徳川家康が伊達政宗、京極高知、京極忠高、山内忠義、堀尾忠晴、池田忠雄、蜂須賀至鎮、藤堂高虎を召し出す。政宗についてはしばし留め、船場口のことについて話し合う。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 11月23日 |
日野唯心、以心崇伝が徳川家康と対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 11月25日 |
近衛信尹が死去する。 |
出典:- |
慶長19年 1614年 11月25日 |
榊原康勝が大和川に陣取る。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康勝」の項 |
慶長19年 1614年 -月-日 |
保科正光が淀城(山城国)を守備する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正光」の項 |
慶長19年 1614年 11月25日 |
佐竹義宣率いる軍勢1500が京橋(摂津国)に布陣し、豊臣勢と鉄砲を撃ち合う。 徳川家康が、今福に付城を築くため、上杉景勝・義宣に対し、翌朝、同地に陣取る豊臣勢を追い払うようにと命じる。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項 |
慶長19年 1614年 11月26日 |
上杉景勝、佐竹義宣が今福に攻め入り、同地を占拠する。今福を守っていた矢野正倫、飯田家貞が戦死する。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。 玉造(摂津国)にて義宣が陣場普請をする。その普請の最中、豊臣勢が大坂城(摂津国)より出勢し、義宣家臣の渋江政光率いる佐竹勢と戦い、政光が豊臣勢を破る。 未刻(13-15時)、大坂城より木村重成、後藤基次率いる豊臣勢3000が義宣の守る今福を攻めるべく、政光率いる佐竹勢が応戦する。佐竹勢は政光、小野崎通勝、高垣重久が戦死する。その後、重成・基次と義宣が戦う。途中、義宣劣勢につき、鴫野に布陣していた景勝(須田長義、水原親憲等)、榊原康勝が加勢する。重成・基次は大坂城に撤退する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項 |
慶長19年 1614年 11月27日 |
徳川秀忠の物見として島田治兵衛等が、青屋口の佐竹義宣の陣所に赴く。島田に古田重然が同道する。物見2名と義宣、重然とで堤を徘徊していたところ、重然が銃撃を受け、左目の上に軽傷を負う。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 11月28日 |
本多正純、安藤直次、成瀬正成がしんけいより中島(摂津国)まで道を造る。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 11月29日 |
朝、蜂須賀至鎮(蜂須賀勢:森氏純、森藤兵衛)、池田忠雄、戸川達安、花房正成、石川忠総、九鬼守隆が野田・福島(摂津国)に進軍し同地を守る豊臣勢を破る。豊臣勢は広瀬加左衛門、森長左衛門が戦死する。 守隆、向井忠勝が豊臣方の番船を押収する。豊臣勢は天満(摂津国)に逃れたとする。 天満・船場(摂津国)が焼ける。 徳川方の軍勢が大坂城(摂津国)の船場の惣構の堀際まで押し寄せる。また、大坂城の北に布陣する徳川方の軍勢が備前島近辺に、東に布陣する軍勢が森・河内近辺に押し寄せる。 家康が浅野長晟に博労ヶ淵(摂津国)に陣取るように命じる。使者として成瀬正成を遣わす。 家康が安藤直次を野田・福島に布陣する至鎮、忠雄、達安、正成のもとに遣わし、軍法の遵守を命じる。夜、直次は家康のもとに帰着し、野田、福島、博労ヶ淵の様子について報告する。また、忠雄、至鎮家中で功名のあったものを家康に報告する。家康は功名をあげた者に黄金・服を下賜する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、同年12月4日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項 |
慶長19年 1614年 11月29日 |
勅使の広橋兼勝、三条実條が住吉(摂津国)にいる徳川家康に対面する。勅使に日野唯心、飛鳥井雅庸、以心伝心も同行する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 11月29日 |
伊達忠宗が徳川家康に対面する。本多正純が披露する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 11月29日 |
福島忠勝、忠勝の家老・尾関正勝、忠勝後見人・竹中重利が徳川家康に対面する。忠勝は豊臣秀頼より書状があったことを本多正純を介し伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 11月29日 |
島津家久の使者・伊集院半右衛門が徳川家康に対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 11月29日 |
山口直友が徳川家康に対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 11月30日 |
豊臣勢が船場町、天満町(摂津国)を焼き討ちする。本多正純、成瀬正成、安藤直次、永井直勝が船場、天満に物見に赴き、申刻(15-17時)、徳川家康の陣所に戻る。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 11月30日 |
柳沢信俊が鉢形(武蔵国)にて死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第163「柳沢信俊」の項 |
慶長19年 1614年 11月-日 |
後藤基次・毛利勝永が船場(摂津国)を焼き討ちにして引き上げたことを受け、本多正信の命より船場の橋が落ちたか否か見分に赴く。敵のすぐいる前で橋の状態を詳細に調べている忠政に対し、豊臣勢は勇気ある士を撃つのは本意ではないとし攻撃を控える。家康は敵が近いのにもかかわらず橋の状況をよく調べ上げたとして称賛する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第45「小栗忠政」の項 |
慶長19年 1614年 11月-日 |
徳川家康が酒井忠勝に下総国内にて3000石を給付する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第61「酒井忠勝」の項 |
慶長19年 1614年 -月-日 |
保科正光が今福砦(山城国)を守備する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正光」の項 |
慶長19年 1614年 12月1日 |
徳川秀忠の使者として本多正信、土井利勝が徳川家康のもとを訪れ密談する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月1日 |
仙石忠政が徳川家康と対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月1日 |
廓山が徳川家康と対面し浄土宗について雑談する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月1日 |
日野唯心、金地院崇伝、池田利隆、池田忠継、森忠政、有馬豊氏が諸勢が天満(摂津国)に入ったことを徳川家康に報告する。物見の服部権太、島弥左衛門が池田勢等が天満に入ったことを報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月1日 |
捕虜となった豊臣勢の者が徳川家康に後藤基次が鉄砲にあたり負傷したため、大坂城(摂津国)城内の士気が落ちていること、大野治長が自宅を自焼したことを述べる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月1日 |
豊臣勢が高麗橋を焼き落そうとしたため、石川忠総がそれを阻止しようと高麗橋に進軍し鉄砲を撃ち合う。これをきいた徳川家康は佐久間政実、山城忠久を遣わし、制止を試みるも戦闘は停止しなかったため、永井直勝が、再度、忠総に加勢すべきか停戦を促すか家康に尋ねたところ、命令のない攻撃は禁止すると応え、加賀爪忠澄を忠総のもとに遣わし、忠総の攻撃を止める。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |