人 物 史

冷泉為満 れいぜい ためみつ
生 没 年永禄2年(1559)-元和5年(1619)2/14
出 身-幼 名-
別 称為房
法 名-
戒 名松映院空照覚言
冷泉為益-
兄 弟 姉 妹冷泉為満、三木隆昌、娘(山科言経の妻)、娘(陽光院女房)、娘(興正寺顕尊の妻)
配 偶 者-
冷泉為頼、為賢、信遍、娘、娘
官 位権中納言、権大納言
所 属-
役 職-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる冷泉為満の呼称
冷泉為満 年表
永禄2年 1559年 -月-日 1歳
冷泉為満が生まれる。
出典:『系図纂要』「冷泉」

元亀1年 1570年 4月23日 12歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 8月23日 12歳
父・為益が死去する。
出典:『系図纂要』「冷泉」

天正1年 1573年 7月28日 15歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正7年 1579年 1月5日 21歳
従四位上に叙される。
出典:『言経卿記』同年月12日条

天正7年 1579年 1月12日 21歳
山科言経・阿茶父子が上御霊社に参詣し、御神楽を見物する。言経、冷泉為満北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 2月10日 21歳
山科言経冷泉為満相国寺寺内を徘徊する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 2月27日 21歳
山科言経冷泉為満清水寺に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 1月1日 24歳
山科言経冷泉為満、四条隆昌が村井貞勝のもとへ礼に訪れる。言経は貞勝に50疋、村井光清・村井吉忠・住田清右衛門尉に20疋、飯尾久介・喜七に扇子1本を贈る。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 2月18日 24歳
山科言経冷泉為満清水寺に参詣する。清水茶屋、祇園茶屋にて為満の振る舞いを受ける。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 4月3日 24歳
山科言経冷泉為満のもとを訪れる。茶子・茶の湯でもてなす。
その後、為満、言経・阿茶丸父子、富小路秀直、古市宗超、嶋田与介が千本引接寺の念仏聴聞および花見見物に赴く。引接寺あたりの松原で酒を飲み、その後、船岡山に登る。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 4月12日 24歳
安楽光院小路の塩風呂に山科言経、大炊御門経頼、冷泉為満阿茶丸が入る。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 4月14日 24歳
山科言経冷泉為満が阿弥陀寺の行念仏に赴く。
出典:『言経卿記』同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 34歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 38歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長8年 1603年 4月6日 45歳
徳川家康が能を催す。山科言緒冷泉為満、四条隆昌、水無瀬氏成、烏丸光広が訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 5月5日 45歳
伏見城(山城国)の徳川家康邸に冷泉為満山科言緒、六条有広、四条隆忠、舟橋秀賢が礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 5月26日 45歳
冷泉為満山科言緒舟橋秀賢徳川家康のもとを訪れ対面する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 4月11日 46歳
夜、本願寺教如の娘が花山院忠長に嫁ぐ。冷泉為満山科言緒舟橋秀賢が婚儀を見物する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長16年 1611年 10月1日 53歳
山科言緒舟橋秀賢冷泉為満駿府城(駿河国)に到着し、徳川家康のもとを訪れる。3名は家康に謁し、秀賢が家康に諸家略系図、屏風1隻を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月2日 53歳
駿府城(駿河国)にて山科言緒舟橋秀賢冷泉為満、円光寺、金地院崇伝徳川家康に召され饗食を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月6日 53歳
徳川家康日野唯心に米50石、水無瀬一斎に米80石、山科言緒舟橋秀賢冷泉為満に黄金1枚・被物2領を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月21日 53歳
江戸城(武蔵国)の南庭にて能10番が催される。徳川家康徳川秀忠山科言緒冷泉為満舟橋秀賢等が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月4日 54歳
日野唯心水無瀬一斎土御門久脩飛鳥井雅庸冷泉為満舟橋秀賢が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月5日 54歳
日野唯心水無瀬一斎土御門久脩飛鳥井雅庸冷泉為満舟橋秀賢駿府城(駿河国)に居る徳川家康と対面し雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月8日 54歳
日野唯心水無瀬一斎土御門久脩飛鳥井雅庸冷泉為満舟橋秀賢駿府城(駿河国)に居る徳川家康に出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月1日 54歳
巳刻(9-11時)、日野唯心水無瀬一斎土御門久脩冷泉為満舟橋秀賢駿府城(駿河国)在府中の武士が徳川家康に出仕する。家康は各々に富士山の氷を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月11日 56歳
権中納言となる。
出典:『系図纂要』「冷泉」

慶長19年 1614年 3月27日 56歳
冷泉為満が駿府(駿河国)に到着する。古今伝授をするためという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月5日 56歳
徳川家康が『群書治要』、『貞観政要』、『続日本紀』、『延喜式』を五山衆に渡し、公家・武家の法度に必要な箇所を抜き出すよう命じる。
西福寺長老が家康に『選択集』2巻を献上する。長老が家康に読みあげる。
総寺院が法華経二十八品歌二十八首を献上する。冷泉為満が読みあげる。
大村喜前が家康に礼をする。銀20枚・緞子5巻を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月14日 56歳
駿府城(駿河国)三ノ丸にて能が行われる。五山長老衆、冷泉為満が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月16日 56歳
冷泉為満駿府城(駿河国)にいる徳川家康に定家自筆『三十六歌撰』1冊を見せる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月1日 56歳
駿府城(駿河国)にいる徳川家康が、南光坊天海、以心伝心、東大寺衆、日野唯心、飛鳥井雅庸、冷泉為満、唐橋と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月7日 56歳
徳川家康が山崎宗鑑自筆『二十一代集』を日野唯心、飛鳥井雅庸、冷泉為満に見せる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月9日 56歳
駿府城(駿河国)にて天台論義が行われる。題は「法華入実者、阿含之但空歟、方等之弾呵による歟」。精義は南光坊天海、月山寺、真光寺、法輪寺、日増院、実泉院。
徳川家康が尊応・栄雅の奥書がある『定家古今集』、逍遥院・称名院筆の『三代集』を冷泉為満等の公家衆に見せる。為満は『定家古今集』をみて不審の念を持つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月8日 56歳
徳川家康南光坊天海以心崇伝、宝性院、飛鳥井雅庸、冷泉為満に重陽の御服2領ずつを賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 56歳
六条有慶、冷泉為満山科言緒徳川家康に対面する。金地院崇伝が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月23日 57歳
伊達政宗が定家自筆古今集を二条城(山城国)にいる徳川家康にみせる。冷泉為満日野唯心もその場に居合わせる。政宗は唯心を通じて、家康が所望するならば進上すると家康に伝えるが、家康は「玩弄之慰」みにせよとして政宗に返却する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月9日 57歳
冷泉為満二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。家康は為満に源氏物語の奥入について問う。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 57歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月19日 57歳
中院通勝が二条城(山城国)にいる徳川家康に礼をする。以心崇伝日野唯心冷泉為満が取り成す。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月29日 57歳
徳川家康二条城(山城国)の数寄屋にて中院通勝に『源氏物語』箒木巻を読ませる。金地院崇伝冷泉為満が同席する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和4年 1618年 12月27日 60歳
権大納言となる。
出典:『系図纂要』「冷泉」

元和5年 1619年 2月14日 61歳
冷泉為満が死去する。
出典:『系図纂要』「冷泉」

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